随想:「技術の散歩道」シリーズ
O plus E Vol.22, No.4, 2000年4月号 掲載

国際組織での活動経験から

 国際パターン認識連盟(IAPR)という学会の連合組織がある。先進30数か国が加盟する国際組織であり,アメリカからはIEEEが,また日本からは情報処理学会が会員として加盟している。この組織では2年ごとに大きな国際会議(ICPR)を開催していて,私にとっては若い頃からの研究活動の「舞台」の1つであった。初めは論文発表で,ついで委員会活動で,また後には組織の中枢として,その発展に深く関わってきた。

 一般に国際組織の運営は,その時々の世界情勢にも影響を受けやすく,なかなか難しいものである。このIAPRでも,私が知っているだけで今までに3つの危機があった。

 第1の危機は天安門事件の前年,昭和63年に発生した。この年に北京で予定された国際会議で,中国政府がある国からの入国人数を制限するらしいという噂が事前に広まったのである。そのため,自由な入出国を建前とする西側諸国が怒り出し,急遽北京開催を取り止め,ローマに場所を移すという事態が生じたわけである。国のイデオロギーの差が,その後しばらく,この学術社会にも少なからぬ緊張をもたらしたものである。

 2年後の平成2年には,この国際会議が米国のアトランティック・シティで開催されたが,このときに私は指名を受け,この国際組織の副会長に就任することになった。目まぐるしく動く複雑な国際情勢のなか,身の引き締まる思いであったが,案の定,私の任期中に第2,第3の危機が発生したのである。

 すなわち第2の危機は,平成3年初頭の中東湾岸戦争の勃発であった。すでに次回の会議はオランダのハーグ,次々回の会議はイスラエルのエルサレムと決めていたが,このイスラエルでの会議開催が危うくなり,開催地の再検討を余儀なくされたのである。また第3の危機は,平成3年末のソビエト連邦の消滅であった。その少し前よりソビエト連邦からの会費滞納が続き,連絡さえうまく取れず,その結果この国際組織の運営にも支障を来たすようになったのである。

 そのため平成4年初頭,私を含めて幹部5人が急遽スイスのローザンヌに集まった。中東情勢はまだ混沌のさなかではあったが,多少見え隠れしはじめた沈静化の兆しと,開催に向けたイスラエル代表理事の変わらぬ熱意とに賭けることとし,私たちはエルサレムでの開催を最終決断したのである。一方,ソビエト連邦に対しては,規約では即時退会となるところだが,激論の末,休眠扱いという特別措置を取ることを決めた。幸いにもこの決断は正しかったようで,後年,ロシア,ベラルーシ,ウクライナが復活再加盟した。

 このような難しい決断の合間には,この国際組織にとってうれしい話題も多かった。例えば韓国は,すでに工業国として立派な地歩を固めてはいたが,この組織には未加盟だった。そのため韓国の知人に連絡し,韓国内での組織化を呼び掛けた。これが発端となり,また既加盟諸国の圧倒的支持も得て,遂に加盟が実現した。さらに,規約改正やフエロー制度の整備など,運営上のいくつかの懸案事項も精力的に解決してきた。平成4年夏のハーグでの国際会議は副会長としての締めくくりの会議となり,各国の代表理事からねぎらいの言葉を頂戴した。

 その年の暮れになって,突然,台湾から電子メールが入ってきた。台湾での国内会議に毎年1人ずつ海外から招待講演を依頼する慣習があり,今度は私に是非という話であった。日本からは初めての招待とのことで,平成5年夏,私は初めて台湾に飛んだ。前年までIAPRの副会長を務めていたこともあって,この会議の期間中,この国際組織に未加盟の台湾に対して正式に加盟するように,学会の有力者への根回しを行った。この橋渡しが端緒となり,翌年,台湾の正式加盟が承認された。これにより,この「中華民國影像處理與圖形識別學會」が,組織の正式な一員として国際舞台に登場することとなり,のちに台湾の人たちから大変感謝された。また,これが縁で,私はこの台湾の学会の終身会員になっている。

 そして平成6年秋,私はイスラエルへと飛んだ。開催を最終決断した責任者の1人としてエルサレムでの国際会議の成功をこの目で確かめたかった。この会議の晩餐会は,荒野のなかにある遊牧民「ベドウイン」の大きなテントのなかで行われた。前日にテロ事件が発生したというので,バスはエリコの街の近くを通る当初の予定を変更し,少し遠まわりをしてこの地に到着した。道中,兵士が銃をもって警備にあたっているのを見たり,ガザ地区まで15kmという交通標識を見たりすると,世界の紛争地の真っ只中に来たという実感が湧いてきたりした。ベドウイン料理と余興の踊りを楽しんだあと,学会の公式行事として表彰式があった。私は当時,産業リエイゾン委員長としても活動していたので,産業発展に寄与する最優秀論文を選定し,その賞のプレゼンターの役を務めたりした。

 中東湾岸戦争の勃発とその後遺症で,一時はどうなるかと心配した会議も,一応平穏のうちに終了でき,ようやく胸を撫で下ろすことができた。しかし帰国した途端に,バスが焼き討ちされて10数名の死者が出たというニュースを聞かされ,結構危ない綱渡りであったことを再認識させられた。

 幸いにしてその後は,平成8年のウィーン,平成10年のブリスベーンと会議も成功裡に続き,組織の運営も平穏を保ってきた。この間,私もこの組織の日本代表理事として参画し,いくつかの重責を果たすことができた。私の提案した諸制度も定着し,ブリスベーンの会議では,この2年間従事してきたフエロー委員長としての活動に対して特別に感謝状を頂戴したりした。いずれ近いうちに私は引退して後進に道を譲ることになろうが,次回のバルセロナ,次々回のケベックシティ,さらにはその先へと,諸困難を乗り越え,この会議と組織が永続的に発展・継承されていくことを祈念したい。

          江尻 正員(工学博士)
   鞄立製作所中央研究所