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国際会議ICPRの思い出
4th ICPR 78 京都
パネル討論での
スライドの例
(実物は鮮明)
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私と国際パターン認識連盟(IAPR) との最初の関わりは、1978年の京都でのパターン認識国際会議
ICPR 78 だった。このときの会議は、IAPRが発足して最初の会議でもあり、また、日本で開催された最初の会議でもあった。
当時私は、前年の1977年以来数年の予定でカリフォルニアの研究所に長期滞在中であったが、チェアマンの坂井利之先生から辻三郎先生経由で特別な参加要請があって、パネル討論のパネリストを務めることとなった。そのため急遽、一時帰国して参加した。討論のテーマは、Future
Directions of Industrial Applications というもので、辻三郎先生が司会をされ、私は画像処理の産業応用についての経験や意見を話した。
英語によるパネル討論は、一般に大変な任務であるのは事実だが、一度経験すると、以後の研究人生での大きな資産ともなるものである。実はこのときには、私の発言の内容そのものよりも、私の作ったスライドが大変な評判を呼んだ。滞在中のアメリカで、知己の技術コンサルタントに依頼し、エッセンスのみを、アメリカ風に漫画を併用しつつ、念には念を入れて作成した力作であった。
5th ICPR 80 マイアミ
このときもまだ私はアメリカに滞在中であった。サンノゼの自宅を車で出てサンフランシスコ空港に向かい、そこからマイアミへと飛んだ。その飛行機の中で、日本からマイアミへと向かっていた末永先生と出会う。マイアミ到着後、レンタカーで一緒に会場のホテルへ。会議は順調。ときおりの夕食に、この地の名物であるストーンクラブ(石蟹)を食す。美味。
会議のさなかに一日を捻出し、末永先生、出澤先生とともにキーウエストまで、360度見渡す限り海の中の一本道をドライブ。ここはアメリカ最南端、ヘミングウェイの愛した町。海に向けて「キューバまで90 miles」の道路標識が出ていたのが印象的。
6th ICPR 82 ミュンヘン
4年間のアメリカ滞在を終え、日本に81年に帰国。その翌年に、ドイツでICPR
82 が開催されたが、この回は残念ながら欠席。
7th ICPR 84 モントリオール
晩餐会風景
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この会議のプログラムチェアマンから、招待講演の依頼が来た。招待講演は全体で3件だというので、その重要性に鑑み、引き受けることにした。当時私の研究室で盛んに研究していた図面認識の研究について紹介して欲しいとのことだった。この、地図を含む図面認識の研究は、日本が先導してきた技術分野の一つでもあり、日本の研究活動がかなり注目されていた。そのためこの講演では、日本の他の幾つかの研究も含めて、約1時間話をした。発表の内容は、その後、幾つかの本の章として収録(注参照)されるなど、反響を呼んだ。
なお、いつもはレディースプログラムに乗って遊びまわる家内が、このときは会場の後ろで、私の英語の講演をはじめて傍聴、心配でヒヤヒヤしていたらしい。講演も質疑応答も極めて快調で、安堵したとのこと。
| 注) |
M.Ejiri
et al.: Automatic Recognition of Engineering Drawings and Maps, |
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Image Analysis Applications (Eds. Kasturi and Trivedi), |
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Marcel
Dekker, Inc., New York, pp. 73-126, 1990 |
8th ICPR 86 パリ
長谷川潔の
秋の七草
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主催者のミスで、晩餐会のない会議となった。晩餐会場のポンピドー会館に参加者全員が集結したが、そこで初めて何の準備もされていないことに気付くという失態。大きな会議で、こんなことがあろうとは! 帰国後、主催者から丁重な詫び状と記念品(絵画がところどころに印刷された綺麗な住所録)が送られてきた。
パリで晩年まで活躍し、一たん廃れた当地の伝統手法を復活させたことで著名な、長谷川潔のリトグラフ(版画)「秋の七草」をルーブル美術館で買った。ルーブルの銘の入った立派な本物のリトグラフ。安かったけど、今では我が家での唯一の「お宝」。
またこのとき初めて、フランスの伝統料理を4時間近く掛けてフルコースで賞味。30年も前から眠り続けていた高価なワインを、デカンタに移して2時間掛けて目覚めさせてから頂戴したが極めて美味。そのあと、夜12時近くになって、モンマルトルのユトリロゆかりの店に行き、借金の形に残したという絵画数編と、酒と歌を楽しむ。
9th ICPR 88 ローマ
桑原先生、辻先生らと
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当初北京で開催予定だった。当時の中国はまだ発展途上で、産業も見るものが少なく、欧米からの出席者の激減が危ぶまれた。そのため、日本でもう一つの国際会議を直前に開催することで、日本を飛び石として中国への参加者が増えるようにとの、日本の研究者による配慮がなされた。IAPR
Workshop on Computer Vision (CV 88) という会議で、これが後のMVAシリーズの国際会議(IAPR Conference on Machine Vision Applications)の起源となった。
ICPR北京は、中国の入国人数の制限問題が表面化し、欧米からの反発が出て急遽ローマに開催地を変更。しかしCV 88は予定通り東京にて実施された。この開催地変更に対して中国の主催者である中国自動化学会から抗議の手紙が、IAPR会長や各国の理事宛てに送られてきたりして、この事件をきっかけにその後も数年、IAPR内部がギクシャクする雰囲気が続いた。
10th ICPR 90 アトランティック・シティ
晩餐会で高木先生と
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このときの理事会で、私はIAPR副会長に選出され、約1000名が集まった晩餐会で参加者に紹介された。先の
ICPR 88 では北京からローマへと開催地変更事件があり、翌年には今度は天安門事件が発生していたので、この国際連盟の先行きにもかなりの困難が予測された。案の定、翌1991年には中東戦争が勃発。このときにはすでに第12回大会をエルサレムで開催することを決定していたので、またまた開催地変更の検討を余儀なくされた。しかし最終的にはエルサレムでの決行を決意。またソ連からの会費納入が滞りはじめ、何度かソ連の除名問題が役員会で議論された。しかし、休眠扱いということにして復帰を待つことに決定。1993年の暮れになってソ連が崩壊。のちに、ロシア、ベラルーシ、ウクライナがIAPRに再入会した。
私は副会長として、IAPRのなすべき施策を考察し、幾つかの基本政策の提案を行なった。とくにIAPRフェロー制度の新設、工業界との連携制度の確立を提言した。
11th ICPR 92 ハーグ
晩餐会で
Freeman教授夫妻と
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この会議で私は副会長を退任。またこの年から、長尾先生の後任として日本代表理事に就任し、もう一人の日本代表理事である高木先生とともに活動。
また日本からは辻三郎先生が副会長に就任し、前年に私が描いた構想をもとにフェロー制度を新設された。私もフェロー委員として辻先生を補佐し、第1回のフェロー受賞者を選定。
また、工業界との密な接点を作るため、先に提言した連携制度(まずは賛助会員制度)などの実現のため、新設のILC (Industrial Liaison Committee)の委員長を務めた。私の所属していた会社など、身近な日本の企業からの積極支援は得られたが、世界全体としては不況の時代に入りつつあって、思うようには賛助会員が集まらず、計画は中途で挫折した。現在、制度としては存続しているが実態は休眠状態。
12th ICPR 94 エルサレム
中東戦争で一時は心配された会議が、無事開催された。ベトウインのテントでの車座となった風変わりな晩餐会で、第1回のフェローが表彰された。また私はILC委員長として、BIPRA賞(Best Industry-related Paper Award) の表彰のプレゼンターを務めた。この年は、米国についでフランスと、地元イスラエルからの発表が多く、日本は第4位の貢献だった。
死海、マサダ山への学会行事と、死海写本と呼ばれる最古の聖書が保管されたイスラエル博物館でのフェアウエルパーティが印象的だった。このときの会議の様子の一端は、当時、私の家内がある雑誌(日立返仁会誌)に著した紀行記事によく表現されているので参照されたい。
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| 開会式 |
ベドウィンテントでの
晩餐会 |
BIRPA賞を授与 |
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13th ICPR 96 ウイーン
このICPR 96 の開会式は、ウイーンフィルハーモニーの本拠地ムジークフェレインで挙行された。例のニューイヤー・コンサートが毎年挙行されることで有名な、黄金貼りの会場である。また晩餐会はウイーンの市庁舎で開催された。その席上、第2回目のフェロー表彰式が行なわれ、私もその一人に選ばれた。また、このあとの2年間、Devijver氏のあとを継いで、フェロー委員長を務めることになった。
この回はとくに論文数、参加者の多い会議だった。ウイーンの森への小旅行、ドナウ川の川下りなど、思い出の行事があった。
なお、私が今までに参加した国際会議は、このICPRに限らず、かなり数多い。そういう会議での晩餐会などの様子を綴った随想(「国際会議に思う」、雑誌O plus E に連載したものの一つ)も参照願いたい。
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| 開会式 |
IAPR Fellow を受賞 |
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14th ICPR 98 ブリスベーン
私はフェロー委員長として、この会のために第3回目のフェロー10数名を選定した。晩餐会でアボリジニの踊りを楽しんだあと、Haralick会長からこれらの新フェローを表彰。また、私はILC委員として、BIRPA賞を表彰した。そのあと今度は、思いがけずも私の名前がアナウンスされ、Certificate of Appreciationを受賞することとなった。フェロー委員長としての活躍に対する感謝状とのこと。全くのサプライズであった。
コアラ、カンガルー、大蝙蝠との出会い、ケアンズの街や、そこからケーブルカーを乗り継いだ山間の小さな町、キュランダが印象的。
思えばICPRを中心に,今までにいろんな国際会議に参加し、IAPRを初めとする国際的な研究者組織の中枢の一人として長年活動してきた。その経験を綴った随想(「国際組織での活動経験から」、雑誌O plus E に連載したものの一つ)も是非参照願いたい。
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| BIRPA賞を表彰 |
IAPRからの感謝状 |
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15th ICPR 2000 バルセロナ
フラメンコがアトラクションの晩餐会で、第4回のフェローとして日本から5名が表彰された。少し出来過ぎだったのか、次回2002年度は激減の憂き目をみることとなる。フェロー委員に日本から誰も入らなかったのが問題かも知れない。この晩餐会では、ウエイターの粗雑な振る舞いが目立ち、私もワインをすこぶる引っ掛けられた。会場責任者を呼んで注意した。
バルセロナでは、大道芸人や、ガウディの異色な建築が印象的。また、会議直前に立ち寄った隣国ポルトガルのリスボンや、その近くの世界遺産都市シントラもまた印象的。ユーラシア大陸最西端のロカ岬にも立ち寄る。
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ロカ岬への
到達証明書 |
Street Performer |
Sagrada Familia の階段 |
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16th ICPR 2002 ケベックシティ
このときの理事会で白井先生を副会長に選出。私にとっては10年間務めた日本代表理事としての最後の理事会。したがってこの理事会の終了をもって、日本代表理事を私と白井先生から、田島先生と大田先生に交替。
このとき、過去に委員長空白が原因で消滅した技術委員会「TC8」に対して、その穴を埋める新提案が提出された。私はこれに反対し、新提案を「TC18」に移して、「TC8」には、すでに実績があり、分野的にも似たMachine
Vision Applications を充てるべきだという提案を行なった。議論の末、これが通り、その後、池内先生を委員長とするTC8の提案書がメールで議論されて、2003年3月にはTC8が正式復活。これにより,今まで日本で開催されてきたMVAが、このTC8の中心行事という位置付けになった。これに伴い、今後、MVAを海外で開催することも議論されることになろう。
この理事会では、2006年開催のICPRの開催地として、デリー、香港、つくばの3都市が立候補。激論と投票の結果、先回落選していた香港が同情票を集めて当選。
17th ICPR 2004 ケンブリッジ
IAPRの日本代表理事の引退に続き、2003年3月には44年間勤務してきた会社を退任した。また、私のもう一つの顔であった社団法人
日本ロボット学会の会長も任期満了で退任。これらの退任を機に、当初予定されていたICPR
2004 のサブトラック (Machine Vision Applications) のチェアマンも、大田先生にお願いして急遽交替。ただし投稿される論文のReviewerだけは引き受けることとして、責任を全うした。
ということで、私はこの会議とも少しずつ縁が薄れる方向にあり、果たしてこの会議に参加することになるかどうか、未知数だった。イギリスの友人からは、気楽に遊びに来ないかとの誘いも受けていた。ところが、昨年来、旅先の京都で発病・入院して癌と闘っていた義姉が、残念なことに終末を迎えそうな気配となり、私の海外旅行日程の立案が一層不透明となってしまった。
折りしも、IAPR会長のProf. Kasturi から急遽連絡が入り、2008年のICPRを一緒にタンパ(米国フロリダ州)でやらないかとの話が寄せられた。もう引退した身なので最初は断ったが、そういう身だからこそ時間は一杯あるだろうとの強い誘いもあって、断りきれずにとうとう引き受けることとした。やるからには立派にやり遂げたい。それでこのICPR 2008を、私の技術者人生の最後を飾る花道として位置付け、これに賭けることとした。
早速、共同議長の私(Japan)とProf. Kasturi(USA)とDr.Sanniti di Baja(Italy)
が分担して協力者を募り、提案書に纏め、IAPR理事会に提出することとした。その準備の最中の5月に義姉が他界した。京都と郷里での2度の葬式のあと、8月には新盆や義母の3回忌など、ICPR
2004の開催と時を同じくして法事が予定されることとなった。そのため、 ICPR
2008の提案説明のために参加を要請されていたICPR 2004には、とうとう参加できなくなった。しかし提案書は立派に出来上がり、ICPR
2004の際の理事会では共同議長の一人Prof. Kasturiが説明し、討議と投票の結果、採択されることとなった。得票はイスタンブール6票、ロングビーチ10票、タンパ30票で、タンパの圧勝となった。その大きな勝因は、General
Chairs が日・米・伊と国際的にバランスしていたこと、他の協力者も北米、欧州、アジアを含むその他地域の計3極から公平に人選したこと、が挙げられる。
18th ICPR 2006 香港
今までこの欄には、次のような予測記事を書いていた。「まだまだ先の話なので、この頃にまだ元気でいるかどうか不明。最近のSARSは、その頃までには完全制圧されていないと、2006年は70歳近くになる身だからちょっとこたえるだろうなぁ、などと思いつつ、IAPR
と ICPR と MVA の益々の発展を祈念している昨今。ところが前述の理由で、次回ICPR
2008のための準備会議が併催されることとなり、確実に参加しないといけない事態となった。健康に留意し、頑張って参加する積もり。」
そして過日、お蔭で健康のうちに会期を迎え、無事参加してきた。今回は、次回の計画の説明のために理事会にも久し振りに出席した。ただし私自身は前半の担当部分のみであったが、理事会自体は相変わらずの長丁場で、午後4時半の開始から夜中の午前1時まで掛かったらしい。そこでの最終投票で、次々回会議はトルコのイスタンブールに決定したもよう。
晩餐会では、新フェローの表彰があり、日本からは産総研の坂上勝彦氏が選ばれた。そのあと、次回会議の案内があり、私もそのCo-chair として参会者に紹介されたりした。
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| ポスターセッション風景 |
学会の晩餐会余興 |
晩餐会にてBurkhardt夫妻と |
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19th ICPR 2008 タンパ
このICPRは、私Dr. Ejiri (Japan)と、私の親友Prof. Kasturi(USA)、Dr.Sanniti
di Baja(Italy)が共同して議長(General Chairs)を務めた会議。何としても成功させたいと、企画から5年間掛けて準備を行なってきた。お蔭で論文投稿数は1600件を越え、参加者は1135名を数えた。開会前夜はフロリダ水族館でレセプションを開催、3日目の恒例の晩餐会では私が開会の宣言と歓迎の辞を述べた。
会場のタンパ・コンベンション・センタは、大きくてゆったりした会場で、連日盛会だったが、主催者としての不満は発表者のNo showの問題。とくにビザ発給手続きの遅れで発行が間に合わず、中国・ロシアなどからの欠席者が多かった。
今回新たにIAPRフェローに認定された方は計18名、そのうち日本からは工藤峰一教授(北大)ら3名が受賞された。また、最優秀学生論文賞や最優秀工業関連賞などにも日本からの受賞があった。私自身は、このICPRのGeneral
Co-chairとしての貢献に対して、共催の南フロリダ大学の学長から功績賞を頂戴し、大きな思い出の一つとなった。
この回は約1600件の論文投稿があり、その中から900件ほどの論文が発表された。併催したワークショップを含め、47ヶ国から1135名の参会者があり、その33%がIAPRメンバー、49%がノンメンバー、18%が学生であった。また、参加者数の国別トップ5は、米国・日本・中国・フランス・ドイツの順だった。
理事会による恒例の開催地選定では、つくば市がメキシコの候補地を破り、2012年の開催地として選ばれた。つくば市でのICPR 2012については、すでにそのホームページが開設され、その後、逐次、会議情報が発信された。 → http:www.icpr2012.org
20th ICPR 2010 イスタンブール
前回のタンパでの会議のときも腰痛を抱えての出席だったが、その後も腰痛を引きずっていたため、今回は無理をしないよう欠席することにした。次回が日本での開催なので、直前の会議の様子を確認してはおきたかったが、すべて若い人達にお任せすることにした。会議ではつくばのブースが設けられ、日本からの委員により、次回ICPR
2012会議の宣伝活動が実施された。
21st ICPR 2012 つくば
我が国のパターン認識分野の研究者にとって長年の悲願でもあったICPRが、34年振りに日本で開催された。参加者は、最近のこの分野の著しい発展を反映し、世界40数ヶ国から1100名を越えた。
初日には、市民公開講座のほか、各種のワークショップ、コンテスト、チュートリアルが開催され、また夕刻には歓迎レセプションが開催された。2日目から本会議が始まり、開会式ではK.S.Fu賞などの表彰式と特別講演が続き、さらに一般セッション、ポスターセッションが続いて、数多くの論文が発表された。夕刻からは、この会議の開催に際して大きな貢献をされた方々を招待してのVIP
Dinner が近くの料亭「山水亭」で開催され、一緒に日本料理のフルコースを楽しんだ。4日目の夕刻は、ホテル東雲に会場を移して会議恒例のバンケットが開催された。各賞の授与式、フェローの授与式とともに余興の琴の演奏や太鼓の演奏などもあり、賑やかで楽しいひとときであった。
この会議期間中、会場では書道・着付け・そろばんなど、日本の文化の紹介行事もあり、また、街歩きや筑波山へのミニ旅行も行われ、海外からの参加者に大変喜ばれた。また、会議後のツアーとして産総研と筑波大学を廻るテクニカルツアー、日光への日帰りバスツアーも実施され好評であった。
開催が決定してから今日にいたるほぼ4年間、私もアドバイザリー委員の一人として活動し、若い方々と一緒に議論してきたが、お蔭で参加者からは大変好評を戴くことができ、ようやく肩の荷が降りた思いがしている。
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| 晩餐会でのアトラクション |
講演会場の様子 |
茶道の紹介(脚が課題!) |
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なお、会議の様子を示す幾つかの写真が、下記のURLに掲載されている。
http://www.icpr2012.org
その後の会議
現役退任後10年が経ち、2014年の会議には残念ながら欠席となった。いずれまた参加したいとは思いつつ、それ以降の下記の会議にも参加を果たせないままさらに10年が経った。世界の友人たちに再会出来る機会は、今後、果たしてあるのだろうか?
22nd ICPR 2014 ストックホルム
23rd ICPR 2016 カンクーン
24th ICPR 2018 北京
25th ICPR 2020 ミラノ
26th ICPR 2022 モントリオール
 
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