趣味を通じた生涯学習

東  壮 价
   民謡加賀山流大師範/加賀山昭价

     元 () ホリキンアルバ 取締役 営業部長
葵」創刊が、実社会での私の大きな自信に

もう一度あの創刊号に逢いたい。でも見当らない。代わりに記事「創刊号を読んで」に出会って小躍りした。

武生26会会員。1952年武生第一中学校卒業。同年、堀金商店(寝装品製造卸)に勤務。関東・東北・北海道地方の販売を担当後、()ホリキンアルバ取締役営業部長。2002年会社自主廃業・退社(勤続50)。この間、1954年音楽サークル草笛会に入会。以来、武生労音の再建を初め、劇団たけぶえ、写真メダカ集団、墨精会、南越加賀山会、武生文化士の会などを結成。武生市文化協議会会長などを歴任。現在、同文協常任顧問、福井県水墨画協会副会長・審査員、民謡加賀山流大師範ほか。著書:武生風土記(正・続)ほか。

思い出の写真

 武生第一中学校時代の思い出を語る上で、ぜひ紹介したい写真がある。

 その1枚は1年1組のとき、新校舎の西側を流れる小松川の一本橋に1組男子が勢ぞろい、担任の渡辺信二先生がパチリ。当時の世相や雰囲気を何よりもよく伝えてくれる、私の大好きな写真である。

 もう1枚は、私が3年生で新聞部長のときの記念写真である。「1号が出なければ絶対に2号は生まれないんだ…」と、多くの先生や生徒会役員の猛烈な反対を押し切って、生徒会誌「葵(あおい)」を創刊したときのメンバーである。このときの経験が、その後の実社会での私にとって、どれほど大きな自信になったことか計り知れない。

               
当時発行していた新聞の題字。これは卒業記念号。責任者として、筆者の名がある。    
 (
昭和27)

学校横の小松川に掛かっていた一本橋の上での記念撮影。当時の11組の男子生徒たち。左から7番目が筆者。(昭和24年)

3年生のときの新聞部部長時代。一緒に生徒会誌「葵」を創刊したときの新聞部の仲間たちとの記念写真。前列右から筆者、福田先生、井美先生。他に福田、松井、山田君や、1年生の田賀、山崎、芹川君らの顔が見える。(昭和26年)

私の文化活動

 当時は高度成長期が始まった頃で、人手が足りず、新中卒で就職する者は「金の卵」ともてはやされた時代である。

 私がいた3年8組では、確か就職と進学は半々ぐらいだったと記憶しているが、卒業後すぐ住み込みの丁稚奉公に出た私にとっては、年ごとに強まる学歴社会の重圧との闘いの日々でもあった。

 そんな時、先輩の紹介で音楽サークル草笛会に入会したのは、卒業2年目の昭和29年の暮れだった。

 「なぁーに、俺は社会教育の大学を卒業してやるぞ…」

 以来、当時休会中だった武生労音の再建を初め、劇団たけぶえ、写真のメダカ集団、水墨画の墨精会、民謡の南越加賀山会などを結成し、また武生文化士の会の創設も計ってきた。

 その間、武生市文化協議会会長なども拝命し、現在は同文化協議会の常任顧問や、市公会堂記念館運営協議会会長、武生文化士の会会長、福井県水墨画協会副会長・審査員などを務めさせて頂き、自分自身の趣味を生かし、それを通じて地域の文化の振興に微力ながら努力してきた。また、民謡の南越加賀山会では会長を務める一方、民謡昭朋会を主宰し、民謡芸名 加賀山昭价と、水墨画雅号 精竹を名乗っている。

 このように50年の長きにわたって多様な活動に従事してきたとは言え、当初目指した「社会教育の大学」はいまだ卒業できず、相変らず生涯学習にのめり込んでいる毎日である。どうもこの道に定年はなさそうだ。

母校新聞に執筆

 卒業から約30年経った昭和58年、一中から校内新聞「武一中だより」の「趣味と私」のコーナーに何か書いて欲しいという依頼がきた。「一中新聞」が「だより」に格下げになったような淋しさを感じながらも、それ以上に「次号は81号です」と告げられたことで、その歴史を感じ、内心ニンマリした私であった。あえてそのときの一文をここに紹介させていただこうと思う。以下、昭和58年7月15日発行「武一中だより」より引用。

 6年前、公民館で水墨画の講座を始めた時である。講師の瀧石人先生は、いきなり黒板に一編の詩を書かれた。

      知之者不如好之者
      好之者不知楽之者


 そして「簡単に言えば《好きこそ物の上手なれ、好きでする事は楽しい事だ》と言うことだよ」と言って高笑いされた。なるほどその通りだと思う。

 私が趣味らしきものを持ったのは、小学校5年の時である。社会科で福井新聞社へ見学に行き、新聞作りに興味をもち、早速友達を誘って新聞作りを始めた事である。最初は7・8人だったがだんだん仲間がふえ、記事も多くなり、次には印刷屋さんで不用の写真や凸版を印刷してもらうなど、次々新しいジャンルヘの挑戦が続く。3年になって一中新聞の部長をおおせつかり、しゃにむに生徒会誌「葵」を創刊したのも思い出の一つである。

 そして就職、実社会に出てからも、これらの経験が大きな自信となって、次から次へと趣味の輪が広がって行くのである。

 趣味とは何か、ただ単に「好み」として片づける人もいるだろう。しかし私は好きな事、をもう一歩進めて、「自分自身を向上させようとする活動」と考えたい。そして、趣味を通して得たたくさんの人々との出合いを大切にしたい。


 子供の頃、毎日毎日ガリ版とニラメッコしたあの情熱が、今も私を支えてくれている事を、この原稿を書きながらあらためて再認識している私である。

生徒会誌「葵」

 このたびの26会記念文集の原稿を書くにあたって、是が非でも、もう一度あの「葵」創刊号に逢いたくて、私が寄贈した市立図書館へと出向いた。ところが見当らないという。司書の方は恐縮して館内に保管されている10冊ほどの「葵」を見せてくれた。私が創刊号と一緒に寄贈した12号も綴られていたが創刊号は見当らない。と思いながら1冊ずつ見ていくうち「22号」の目次に「葵・創刊号を読んで」という吉田勝秀先生の一文を発見。喜び勇んで51頁を開く。小躍りしている私をどうぞ想像していただきたい。このときほど嬉しい思いをしたことはない。

 以下にこの記事を、昭和48年3月発行の生徒会誌「葵」22号より引用し転載させていただこう。

  「葵」創刊号を読んで
                               2年学年主任  吉田勝秀
 
 
この原稿を依頼されて間 もなくのことである。創刊号から現在までの「葵」のとじたのを見つけ、なんの気なしに創刊号をめくりながめていた。昭和27年3月7日発行。20年前の生徒会誌「葵」である。印刷が不鮮明で読みにくい。紙も今ではみることのできない「ザラ紙」を使用してある。そのうえ、ふるい漢字がやたらと目につく。そのうちに、講和記念校内作文入選者、3年第一席、岩端るみ子というのが目にとまった。ほほう、今の音楽の岩端先生は、一中の卒業生だったか。編集後記のなかにも、こんなことが書かれてある。生徒会関係については大辻先生に多大の労をおかけしましたことに……。今の教頭先生も、かつては一中生徒会顧問の先生であったか。ほんとうに20年の長さが感じられた。

 その編集後記に「今後も後輩諸君のお努力により母校の伝統をして弥々光輝あらしめるよう念願して筆をおく。」とあった。今こうして20年前の生徒諸君の願いが、今の生徒諸君の手で「葵」を作り上げたことによってかなえられつつある。20年の歳月を生徒から生徒へと受け継がれ、母校の伝統が引き継がれている。この長い年月、継承された伝統に、ただただ頭のさがる思いがしてならぬ。


 たしかに伝統ということばには、ふるさとかたさが感じられる。しかし、時代の流れと新鮮な感覚をもつ現在の生徒諸君によって、伝統が引き継がれて、この「葵」ができあがったのである。これから後も、このことが生徒諸君のなかに生き続けるであろう。まったく伝統とは、すばらしい。

 最後に一言、この26会の古稀記念文集のおかげで、思い出に自信と誇りを再確認することができました。企画をされた級友の皆さん、本当にありがとうございました。