思い出の写真
武生第一中学校時代の思い出を語る上で、ぜひ紹介したい写真がある。
その1枚は1年1組のとき、新校舎の西側を流れる小松川の一本橋に1組男子が勢ぞろい、担任の渡辺信二先生がパチリ。当時の世相や雰囲気を何よりもよく伝えてくれる、私の大好きな写真である。
もう1枚は、私が3年生で新聞部長のときの記念写真である。「1号が出なければ絶対に2号は生まれないんだ…」と、多くの先生や生徒会役員の猛烈な反対を押し切って、生徒会誌「葵(あおい)」を創刊したときのメンバーである。このときの経験が、その後の実社会での私にとって、どれほど大きな自信になったことか計り知れない。
私の文化活動
当時は高度成長期が始まった頃で、人手が足りず、新中卒で就職する者は「金の卵」ともてはやされた時代である。
私がいた3年8組では、確か就職と進学は半々ぐらいだったと記憶しているが、卒業後すぐ住み込みの丁稚奉公に出た私にとっては、年ごとに強まる学歴社会の重圧との闘いの日々でもあった。
そんな時、先輩の紹介で音楽サークル草笛会に入会したのは、卒業2年目の昭和29年の暮れだった。
「なぁーに、俺は社会教育の大学を卒業してやるぞ…」
以来、当時休会中だった武生労音の再建を初め、劇団たけぶえ、写真のメダカ集団、水墨画の墨精会、民謡の南越加賀山会などを結成し、また武生文化士の会の創設も計ってきた。
その間、武生市文化協議会会長なども拝命し、現在は同文化協議会の常任顧問や、市公会堂記念館運営協議会会長、武生文化士の会会長、福井県水墨画協会副会長・審査員などを務めさせて頂き、自分自身の趣味を生かし、それを通じて地域の文化の振興に微力ながら努力してきた。また、民謡の南越加賀山会では会長を務める一方、民謡昭朋会を主宰し、民謡芸名
加賀山昭价と、水墨画雅号 精竹を名乗っている。
このように50年の長きにわたって多様な活動に従事してきたとは言え、当初目指した「社会教育の大学」はいまだ卒業できず、相変らず生涯学習にのめり込んでいる毎日である。どうもこの道に定年はなさそうだ。
母校新聞に執筆
卒業から約30年経った昭和58年、一中から校内新聞「武一中だより」の「趣味と私」のコーナーに何か書いて欲しいという依頼がきた。「一中新聞」が「だより」に格下げになったような淋しさを感じながらも、それ以上に「次号は81号です」と告げられたことで、その歴史を感じ、内心ニンマリした私であった。あえてそのときの一文をここに紹介させていただこうと思う。以下、昭和58年7月15日発行「武一中だより」より引用。
生徒会誌「葵」
このたびの26会記念文集の原稿を書くにあたって、是が非でも、もう一度あの「葵」創刊号に逢いたくて、私が寄贈した市立図書館へと出向いた。ところが見当らないという。司書の方は恐縮して館内に保管されている10冊ほどの「葵」を見せてくれた。私が創刊号と一緒に寄贈した12号も綴られていたが創刊号は見当らない。と思いながら1冊ずつ見ていくうち「22号」の目次に「葵・創刊号を読んで」という吉田勝秀先生の一文を発見。喜び勇んで51頁を開く。小躍りしている私をどうぞ想像していただきたい。このときほど嬉しい思いをしたことはない。
以下にこの記事を、昭和48年3月発行の生徒会誌「葵」22号より引用し転載させていただこう。