自動車の設計と生産技術の開発

藤 井 二 三 雄
   株式会社 発明通信社 技術顧問
   元 富士重工業株式会社
          スバル技術本部 主管

交差点を60km/hの速度で曲がれるのか?

「加速不能!」との現地スバル販売店からの情報で、急遽欧州に飛んだ。道路事情についての固定観念が大きな問題だった。


武生26会会員。1952年武生第一中学校卒業、武生高等学校を経て、1960年早稲田大学理工学部機械工学科を卒業。同年()富士重工業入社。スバルの変速機及びエンジンの設計、生産技術、及び、スバルサービス部の業務に従事。199210月より(財)工業所有権協力センター(IPCC)に出向。特許審査のための先行技術調査や検索システムの開発業務に従事し、20043IPCC退団。現在は(株)発明通信社にて特許関連業務に従事する一方、写真を趣味とし、各種の写真倶楽部で活動中。

大学を卒業してすぐ富士重工に入社した私は、変速機の設計から始まり、生産技術の開発、エンジンの設計、海外サービスという具合に、自動車の設計から製造、お客様へ商品が渡ってからのアフターサービスまでの広範な業務に携わってきた。

自動変速機の設計

 設計部での最初の仕事は、スバル1000の自動変速機の開発設計であった。当時の車は手動の変速機だけで、スバルFFシリーズとしては初めての開発であった。自動的に変速するときのショック対策やギヤ音などで苦労しながら、ようやく生産化できる段階まで到達したが、残念ながら自動変速させる油圧制御機構が米国のボルグワーナ(BW)社の特許に抵触することが判明した。そのためBW社の技術導入を図ろうとしたが、当時のBW社は自動変速機の生産はすべてBW社内で行い、特許だけでは売らないとの方針であったため、やむを得ず生産化を中止せざるを得なかった。

 3〜4年経過したころ、米国のBW社の方針も変わり、日本のアイシンワーナー社と日産ジャトコ(JATOCO)社にライセンスを与えるということになった。結局、スバルは日産ジャトコ社の部品を流用することになり、ついに生産化を果たすことが出来た。

 この自動変速機の生産化のときには、私は設計部から生産技術部に異動になっていて、変速機の生産化のための設備計画や治工具設計を担当していた。以前に自分が関わっていたものとは設計仕様上は変わっていたが、この新しい自動変速機のための製造ラインを作れるということは、実に感慨深いものであった。今までの手動変速機の構造とは異なり、自動変速機では油圧制御が入るため、製造中のごみや切粉が残らないようにする必要がある。そのために高圧洗浄機の導入や防塵室の設置など、スバルの生産ラインとして初めての試みも多かった。

 このときは4輪駆動車の手動変速機の生産化も同時だったこともあり、多くの生産技術上の問題にも遭遇して多忙を極めていたが、自分がその立ち上げに一役買った自動変速機車の生産化に立ち会えたことは貴重な体験でもあった。
スバル自動変速機(試作型式M41)の生産初号機を前にして、 設計、生産技術スタッフとの記念写真。左から3番目が筆者。 
(昭和4911月)

エンジンの設計

 自動変速機、4輪駆動車の変速機の生産が軌道に乗ったころ、私は元の設計部に異動になった。同じ設計部でも今度はエンジンの設計であった。

 ちょうどスバルを欧州に輸出し始めた時期で、欧州の販売店からスバルの不具合ということでいくつかの情報が伝えられていた。その中に、交差点を60キロで走行すると加速できない、3速ギヤの90キロ走行はギヤ騒音が大きい、と言う問題があった。

 日本国内の道路事情しか知らなかった当時としては、60キロで交差点を曲がれるのだろうか、また、90キロの速度であれば当然4速ギヤか5速ギヤを使っているはずだ、と思わざるを得なかった。

 ファックスでの情報のやり取りではなかなか進展せず、現地に行って調べることになった。ちょうどスイスのジュネーブでモーターショーが開催されている時期でもあり、スバルの競合車種の使われ方の調査も含め、急遽欧州に飛んだ。まだ欧州への直行便がなく、アンカレッジ経由で行く時代であったし、私としても初めての欧州出張であった。

 そして、交差点はロータリー式が多く、60キロでも走行できることを知った。また、車の能力一杯で走行すること、1速ギヤで30〜50キロまで、3速ギヤだと70〜90キロまで使用するという状態で、全開加速する頻度が非常に高いことを体験した。また、道路事情の良いヨーロッパにおいては、スピード感もなく、高速道路も幅が広いため、日本よりも40〜50キロも早いスピードが常用であった。このように道路条件によって走り方が変わってくるため、日本国内では予測できなかったわけである。固定観念にとらわれていたと言える。

 帰国後、これらの問題点の改善に全力を投じたことはもちろんである。

経験こそ至宝

 その後、海外サービス部に移ってアフターサービスの業務に携わったが、これまでの技術部門での体験が非常に役に立っていることを感じた。また、自動車メーカーに入っていくつかの分野の業務を幅広く経験出来たことは、その後従事することになる特許関連業務にも大変役に立っている。

 社会に出て今年で45年になるが、今までの人生はやはり1日1日の積み重ねであったと実感している。今日の仕事はすべて、昨日の経験、1年前の経験、あるいはさらにそれ以前の経験の上に成り立っているのである。

私の中学時代

 中学時代の思い出に、クラブ活動での郷土の立体地図の製作に夢中になったこと、また夏の臨海学校での4キロメートルの遠泳大会で、ゴールまで完泳できたこと、などがある。これらに共通して言えることは、物事を達成した後の「喜び」が50年以上経った今日でも、まだ鮮明に残っているという事実である。このように、何ごとであれ、困難なことに立ち向かえば、それを達成したときに大きな満足感や喜びがあることを、中学時代に数多く教わった。このことが社会に出てからの仕事に対する原動力にもなってきたのはほぼ間違いない。

    
武生第一中学校時代に郷土の立体地図模型に挑戦。完成した作品を前に記念撮影した思い出の写真。左から2番目が筆者。当時一緒に苦労した小出、津田、江尻、水野君らの顔がある。(昭和25年) 写真倶楽部での活動の一端。東京・有楽町フォトギャラリーに於ける展示作品の前にて。
(平成1611月)

趣味の重要性

 これからの若い人たちへのアドバイスとして、固定観念にとらわれないで、自由な発想で物事に対処して欲しいと思っている。もう一つ、勉強や仕事以外での「趣味」も是非持ってもらいたい。そのために若いときから趣味・特技については力を入れなさい、と言いたい。

 会社に入って立場上大変忙しい時期があり、趣味を生かすどころではないときもある。しかし、ほんとうに興味をもっていて、若いころ熱中したことは、歳を取っても再び熱中できるものであり、また、若いときやれなくても、これはやりたいという夢を持ち続けていれば、かならず実現するものである。趣味もまた仕事を達成する原動力になり、いずれ仕事から離れたときの「生きがい」にもなるものと考えている。