私のバレーボール人生

久 野 泰 男
   元 株式会社 福井信越石英 取締役
   元 信越化学工業株式会社

負けるものか。泥と汗にまみれ、練習に励んだ。

中学時代の県大会への出場が、以後の情熱の源となった。以来今日まで、バレーボールはずっと私の体に染み着いてきた。
武生26会会員。1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校を卒業し信越化学工業(株)武生工場に入社。出荷関連業務の傍ら、バレーボールに打ち込む。1959年東京本社に転勤、財務部にて資金調達業務に従事しつつ1964年中央大学第二部商学部経営学科を卒業。この間、実業団バレーボール部を創設。1967年再度武生工場に戻り、市・県のバレーボール協会役員を兼務。1972年ドイツとの合弁会社設立業務に従事し、以来、経理・人事・総務分野で会社経営に参画。1997年(株)福井信越石英取締役管理部長を最後に退任。

中学時代

私がバレーボールと初めて出会ったのは、武生第一中学校に入学したときである。何か部活動に入るようにと言われ、当時の体育担当の藤井先生に勧められたのがきっかけだった。先生は当時、3段跳び競技では県内でもトップの方であった。それですぐに、バレーボール部に入部することを決断した。

私たちが入学した昭和24年前後の第一中学校の各運動部は、すべての面で強く、市内の中学校対抗競技では上位入賞者が多かった。どの競技でも、体育の先生が指導者としての素晴らしい力量を発揮されていた。私の場合も、先生の懇切な指導に加え、私自身の努力の甲斐もあって、県大会に出場できた。このことでバレーボールが一層好きになり、以来今日までずっと続けられる競技として、体の中に染み着いてきたものと思う。3年間、武生第一中学校のバレーボール部に在籍し、良き先生と仲間に恵まれたことを大変誇りに思っている。

3年生になると、家庭事情もあって、進学か就職かと迷うことが多かった。しかし結局、高校に進学することになった。戦後間もない当時の世情では、どこの家庭もまだ経済的に苦しく、私の家庭も例外ではなかった。しかしこのことを嫌だと感じたり、このことで他人を羨んだりしたことは一度もなかった。両親の家族を守る懸命な姿を見て育ったことで、今日の自分があることを実感している。「子供に残す財産は何もないが、高校教育まではがんばるぞ」と言ってくれた父の言葉が今も忘れられない。

高校時代

武生高校入学当初は、学費を少しでも助けなくてはならないという思いが強く、アルバイトをすることを考えて部活動は諦めていた。そんな中、ある先輩よりバレーボール部への入部を勧誘された。彼は1年先輩で、のちに法政大学からさらに今のNTT東海のエースとして活躍した人であり、長身で、当時高校ではエースとして活躍していた。折角の勧誘がありながらそれでもまだ悩んでいると、今度はバレーボール部顧問の体育担当石山先生が私の家を訪問され、両親に入部の許可を取りつけたのである。これで私の入部が決まった。

当時の高校のバレーボール部では先輩は絶対的な存在であり、彼らから随分としごかれたが、そのつど、「なにくそ、負けるものか」と奮起し、泥と汗にまみれながら練習に励んできた。その甲斐があって高校2年生でレギュラーに選ばれ、昭和28年に福島県郡山市で開催されたインターハイに県代表として出場できた。当時は9人制で、試合も屋外コートを使用するのが慣わしであった。したがって当然入場行進も屋外であった。インターハイで、郷土の期待を背にグランドを行進したあの感動は、今も忘れることができない。このことが、高校時代の一番の思い出となっている。

 3年生になって、また進学か就職かで悩む時期となった。家庭的な事情で今度は進学を諦めて就職することにしたが、昭和30年当時は世の中が不景気で、就職難の時代であった。出来ればバレーボールが続けられる会社をと希望はしていたが、卒業時点ではまだ就職が決まらなかった。しかし運良く、信越化学武生工場が男子バレーボール部を強化するとの話があり、同級生のバレーボール経験者が6人ほど入社できることとなった。

会社時代

入社当時もまだ九人制の時代であり、屋外コートでの練習が主だった。そのため他の従業員の目にもつきやすく、夜遅くまで練習するのを見て「選手たちには残業手当が出ているのではないか」と勘ぐられたこともしばしばであった。しかし練習後に残した仕事を処理し、同じ社員として同僚に迷惑を掛けたことは一度もなかった。

入社4年後、転勤で東京の本社勤務になったが、バレーボールへの夢は絶ち難く、仲間に呼びかけてようやく本社にもバレーボール部が結成されることとなった。東京都大田区の実業団チームに登録し、日曜日を練習日に当てた。素晴らしいチームメイトに恵まれた結果、最終的には1部まで昇格することができた。

信越化学本社の男子バレーボール部時代。向かって右が筆者。(昭和37年ごろ)
東京都大田区実業団大会に参加した信越化学本社バレーボール部。多摩川グランドコートにて。(昭和37年ごろ)

福井国体(昭和43年)の1年前に、再度武生工場勤務になり、郷里に戻ってきた。今度は市協会・県協会の役員としてバレーボールに関与することとなり、工場での活動はどちらかというと同好会的なものであった。しかしその後、工場のスポーツに対する理解が進み、県協会の協力も得られて、女子バレーボール部が結成されることになった。縁あって私はその監督に就任し、第二のバレー人生が始まった。

信越化学武生工場の女子バレーボール部。当時は監督としてチームを率い、チーム力は全盛時代にあった。後列左端が筆者。(昭和63年)

この新チーム結成の条件は、従業員としての仕事をしてから練習をすることであった。初めは専用の練習会場もなく、小学校の体育館を借用するなどで選手も大変苦労したが、その後実力が向上し、全国実業団選手権大会に出場できるチームへと育った。その結果、会社も体育館を建設して応援してくれるようになり、コーチ陣も充実して、名実ともに「実業団」チームとなった。その後も、平成2年の私の福島県郡山工場への転勤を機に監督をコーチに譲るまで、全国大会に参加して数多くの強いチームと試合ができた。このように会社関係・バレーボール協会関係の方々と選手たちとに支えられ、いろいろと多彩な人生経験をさせていただき、心から感謝している。

ねんりんピック


 平成九年に会社を退職後、今度は生涯スポーツのソフトバレーボールに出会い、プレイヤーとして良い仲間たちと楽しくプレーをすることとなった。平成16年には、60歳以上の祭典である「ねんりんピック」(第17回全国健康福祉祭)群馬大会に、県代表としてソフトバレーボールの部で出場し、見事に金メダルを受賞できた。今後も引き続き、健康に留意をしつつソフトバレーボールを楽しみたいと考えている。


高齢者のためのスポーツの祭典「ねんりんピック」(第17回全国健康福祉祭)群馬大会で、ソフトバレーボール部門に県代表として出場し、「武生国府」チームが見事金メダルを獲得。後列右から2番目が筆者。(平成16年)