中学2年生のときのこと、2学期の終業式が終わった後に、廣田昭君と私の二人は職員室へ呼び出され、長時間説教を食らった。「おまえたちは、授業中何だかんだと、いらざる質問を繰り返して授業を掻き回している。反省しろ」との説諭である。確かにその通り、仲良しの廣田君と机を並べて思いつくままの質問を繰り返していた。いま思えば、授業のテーマからはほど遠い些細なことで、ああだこうだと言っていたに違いない。が、当時の先生方は立派だった。誰一人として「馬鹿なことを言うな」と叱責される方はおられなかった。みな丁寧に答えてくださった。しかし、さすがに見かねての説教だった。
説教を食らうということは、気分のいいものではない。だがこのときの私は嬉しくてたまらなかった。というのは、説教の主が私の大好きな担任の宇野邦治先生だったからである。
先生は、私たちが中学1年に入学すると同時に武生一中に赴任された。大学を出られたばかりで、私たちとはいくつも歳が離れていない兄貴のような先生であった。先生は、私たち1年生の〈音体〉という時間を持たれた。当時はまだ一中に校舎はなく、南小学校に間借りしていた。校庭や体育館を小学生が使わないときは体育、使っているときは音楽という変則的な時間であった。この〈音体〉の指導を受けるうちにすっかり先生のファンになってしまった。
私たちが2年生に進級したとき、宇野先生は私のクラス担任になられた。私は小躍りするほどうれしかった。その先生からのお説教である。私にとっては、嬉しいひとときだったのである。
これを機に私は一層勉強するようになると同時に、音楽がますます好きになっていった。私が生涯音楽で仕事をすることになったのは、このときの宇野先生との出会いが大きな要因である。音楽への思いは、高校へ進むといよいよ強くなり、父親の猛反対を押し切って音大へ進学した。
大学を卒業後は、もう少し東京に残って音楽を極めたいという思いもあり、東京都の中学校教師になった。教師という仕事は子どものころからやってみたいと思っていた仕事だったからか、スムーズにスタートを切ることができたように思う。
もちろん平坦な道ばかりではなかった。学校に来ない生徒を毎朝自宅まで迎えに行ったり、トラブルを起こす子を追いかけて、当時東京郊外にはまだ残っていた田んぼの畦道を駆け回ったものだ。今にして思えば効果的な指導法だったかどうか。しかし当時は、先輩の先生方を見習いつつ、失敗を重ねながらも、子どもたちと取っ組み合いの日々だった。少しずつ経験も積んで、自分なりの教育に自信を持てるようになっていくのに、そう時間は掛からなかった。
苦労は喜びにも結びついた。問題を起こして苦労させられ、ひっぱたいたりもした生徒からは、結婚の際に仲人をさせて貰ったり、卒業後も「先生、先生」と慕ってきてくれるのだった。
都内有数の進学校に勤務したときは、合唱部を運営するのにも苦労した。受験に関係のない教科に冷ややかな雰囲気が強かったのである。周りの教員だけではなく父兄からも冷ややかな視線があったかもしれない。しかし、進学校でも中学生は中学生、次第に合唱の楽しみにのめり込んで、ついには合唱コンクールの東京都地区大会で優勝をしてくれたりもした。そうしたことがきっかけだったのか、だんだんと、学校側、そして何より父兄が応援してくれるようになった。そして学校の雰囲気も変わっていった。
このような教員生活の間、幸運にも昭和52年の文部省・学習指導要領〈中学・音楽〉改訂の委員を務める機会を得、戦後の学習指導要領の最も大きな改訂に関わることができた。これが縁となって昭和57年、文化庁に音楽の専門官として入り、文化行政に携わることとなった。異動のときの生徒や父兄からの「辞めないで」の言葉は、涙が出るほどうれしかった。
文化庁の担当する文化行政とは、ひと言でいえば、文化芸術の保存と振興。私は、その中で主に芸術家の顕彰・助成・育成の仕事に携わった。おかげで多くの優れた芸術家の方々に接することができた。すっかり有名になられた佐藤しのぶさんや錦織健さんなど、今日のオペラ界で活躍している大勢の歌手の方々を文化庁オペラ研修所でお世話することができた。また、現在全国の小・中・高等学校で実施されている「本物の舞台芸術体験事業」の元となった「中学校芸術鑑賞教室」という事業の企画・立案を担当して創り上げることもできた。自分が教員時代から夢に描いていた「子どもとプロアーティストとの共演」を実現することができたのである。
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東ドイツのオペラハウスを内閣文化使節団の一員として訪問。(昭和62年)
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平成9年、舞台芸術家たちの長年の夢であった「新国立劇場」が東京・初台に完成。この建物は、オペラ、バレエ、モダンダンス、演劇など、明治以後我が国に伝えられた舞台芸術のための国立劇場である。そこへ「文化庁オペラ研修所」を移すことになり、劇場の計画段階から携わっていた私はその担当者として劇場に異動した。そして翌年「新国立劇場オペラ研修所」をスタートさせた。ここでも、我が国を代表する優れた若手歌手たちに巡り会い、いま、少しずつ一線の舞台やテレビなどで活躍が始まってきている。このことも嬉しいことである。
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| 新国立劇場の外観(左)とオペラ劇場(右)。(撮影者:三枝近志) |
しかし、この文化行政では、芸術家の方々にいかに公平に対応するかに苦労した。芸術家の人たちは、人の感性を最も重要にしている世界の方々である。時として一般常識だけでは話が進まないことがある。その人たちに行政の立場をどう理解して仕事をしてもらうか、逆に、行政の側がどう理解して仕事を進めるか。答えの出ない袋小路に何度も迷い込んで立ち往生した。しかし、しばしば何ごとにも悪く言われる役人の人々にも、また自分勝手と言われる芸術家の人々にも、それぞれ熱意をもって説得すれば理解を得られるのだと実感した。
このような仕事をしながら、昭和60年から武蔵野音楽大学で非常勤講師として音楽教育の講座を担当するようになった。それが縁で、平成12年からは同大学に教授として迎えられて今日に至っている。
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| 青年海外協力隊の活動を視察するため、スリランカの教育大学を訪問。(平成14年) |
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このように私は、大学からずっと音楽の道を一筋に歩いてきた。しかし、その音楽の道は普通の人が考える「音楽家」とはちょっと違う。音楽の土台を創る仕事だったかもしれない。だからこそ、若いころには考えてもみなかった多様な仕事をさせて貰ったのだろう。そして、中学校教員時代の教え子の中には、私に影響されて音楽大学へ進んだ者もいる。一般の企業に進んで、出世してもいまだに「先生、先生」と連絡をくれる子もいる。武生一中で出会った先生方の立場に自分が立ったとき、その影響力の大きさを、まざまざと実感するのである。
私の一生の道を決めてくださった宇野邦治先生、担任として激励してくださった田辺弘久先生、中西豊先生、渡辺信二先生、ボーイスカウトを武生でスタートさせ、私たちに野外訓練の面白さを教えてくださった社会科の井美善一先生、担任でもないのに、近くに住まわれていたことから、毎日のように真夜中の受験勉強中の私に、窓の外から声を掛けて激励をしてくださった袖岡清涼先生。そうした素晴らしい先生方、そして武生一中のおかげで今日の自分がある。武生一中は、自分にとって掛替えのない存在なのである。