銀行における支店業務の推進

今 川 正 良
   元 福井銀行 富山支店長 
   元 田中建設(株) 取締役 総務部長

恩師の親身な指導が、人生を貫く力に!

昭和の激動期、平成のバブル崩壊期を中心に、金融機関を取り巻く経営環境は厳しく、この間幾多の困難を経験。

武生26会会員。旧姓大久保。1952年武生第一中学校卒業。同年福井銀行に入社。支店開設、他銀行支店廃止に伴う業務継承、出張所開設などの業務を経て、1983年飯塚出張所長、1987年中山支店長、1989年清水町支店長を歴任。1992年富山支店長として富山エリアを統括し、1994年定年退職。同年田中建設(株)に入社し、総務部長。翌年取締役総務部長に就任し、経営改革やISO9001,14001の取得に従事。2002年同社を退社。現在は山登り、囲碁、旅行、ソフトバレーボール、庭木手入れ・剪定、畠作業などを楽しむ


私は中学卒業時に武生高校に合格はしたが、家の事情で福井銀行武生支店に入社を決めました。担任の袖岡清涼先生(3年)と古堂仁先生(2年)からは「大久保(旧姓)、それでいいのか」と、考え直すように連日真剣に話していただきましたが、最後には「そうか、仕方がないな」、「しっかりやれ、がんばれよ!」と励ましていただきました。53年経った今も、そのときの情景が鮮明に思い出されます。

3年生の2学期末、この袖岡先生から正月に遊びに来るよう言われ、親友の小原重雄君と一緒にご自宅に伺いました。早速囲碁の手ほどきを受け、そのあとすぐ対局となりましたが、井目で始めてもいつのまにか先生の白石が勝ってしまう不思議な囲碁にすっかり感心したものです。時の立つのを忘れ、昼・夜と二の膳で大変ご馳走になりました。のちに銀行に入ってからも、囲碁はお客様や上司との付き合いの中で役立ちました。先生宅にはその後も毎月集金に伺い、さらに励ましの言葉を頂いたり、奥様からも可愛がって頂いたりしました。

また古堂先生からは、学校帰りに一緒に来ないかと誘われ、神門四郎先生宅に伺ってすき焼きをご馳走になったことがありました。銀行入社後も神門先生宅には毎月伺い、美容院を経営しておられた奥様から取引をして頂きました。何も分からない私を親身になってご指導いただいたことが、社会人としての生活、とくに人との接し方や話し方の面で大変役立ちました。

中学2年の秋には、宮本博雅君(旧姓高坂、現26会会長)から「味真野の祭に来ないか」と誘いがありました。大きな家と手入れの行き届いた立派な庭がとても印象的でした。広い座敷に通されると、校長の高坂賢一先生が出てこられ、「やぁ、よく来てくれましたね。ゆっくりしていってください。息子がいつも世話になっていてありがとう」と言われ、恐縮しました。祭の料理をたくさんご馳走になった中に、田舎者の私にはこのときが初めての雲丹(うに)があり、なんと変わった味かと驚いたものでした。

 当時は大改革の時代、武生一中も新設地に開校するにあたり、初代校長として人知れぬご苦労があったと思われます。人格・見識・力量に優れ、人を引き付けて離さない魅力溢れるお人柄で、力があっても力を見せず、つねに相手の目線に合わせ、満面の笑顔で、優しく解り易い内容のお話をされておられました。

 昭和27年、一中を卒業して福井銀行に入社したころは、第2次世界大戦後の大不況が続いていた時代でした。日本銀行発行の十円札紙幣は、新円・旧円の切替えの途上で、旧札には証紙が貼ってありました。一銭・五銭・十銭硬貨も流通し、旧一円紙幣と戦時中発行の国債を回収していたころです。日本経済はまさにインフレで混乱の時代でした。

 とくに福井市は昭和20年の戦災、続く昭和23年の福井大震災で、文字通りの大不況でした。個人も法人もすべてが困難を極め、倒産も多くて金融界も日夜大変な時代でした。こういう中で、銀行業務を習得し、以後、地域社会の隆盛を目指し、支店・出張所の開設業務やその運営に携わってきたわけです。この間、激動の昭和と、平成のバブル崩壊を中心に、金融機関を取り巻く経営環境は厳しく、幾多の困難を経験してきました。その厳しい競争社会の中で、定年までの43年間無事に勤務ができたこと、また第2の人生を含め計51年の勤務を無事全うできたことは、やはり良い教育を受けたおかげだと思っています。

 武生一中時代に多くの先生から、精神・肉体の両面で強くたくましい教育を受けましたが、「思いやりのあるバランス感覚のとれた人間形成」に力点を置いた高坂校長の率先垂範による「高度な教育方針に徹した素晴らしい教育」が基本にあったと感じています。同じ志を持って教育に燃える「熱い教育者集団」の指導がもとで、我々26会の同輩の多くが、その後それぞれの道で元気に活躍してこられたことを思うとき、私は気持ちのいい新風を感じます。