ハイパーレスキュー隊の活躍

水 落 惠 士
   元 東京消防庁 装備工場長
この感動に、熱いものが込み上げてきた!

新潟中越地震の土砂災害での救助活動を、固唾を呑んで見守った。優太君の救出を目の当たりにして、思わず歓声をあげた。
武生26会会員。1952年武生第一中学校卒業、武生高等学校を経て、1959年日本大学理工学部電気工学科を卒業。同年国光電気(株)に入社、電磁開閉器などの設計を担当。1964年東京都職員に採用され、東京消防庁に配属。1991年消防科学研究所第二研究室長として、火災残渣物の成分分析、燃焼機器の耐震安全装置、危険物の判定試験法などの研究開発に従事。1994年装備部装備工場長として、東京消防庁保有の約1800台の車両および積載装備品の法定点検整備などを担当。1997年退職、その後外郭団体を経て引退。

消防人としての誇りと悦び

 新潟県中越地震における土砂災害の際、埋没した母子3人の救助活動のTV中継を固唾を呑んで見守った。そして、優太君の救出を目の当たりにして、辺りを憚らず、思わず歓声をあげた。

 活動する東京消防庁ハイパーレスキュー隊は、平成16年10月23日に発生した新潟県中越地震に、緊急消防援助隊として派遣された精鋭たちである。2次災害を危惧しつつ、地元の消防隊と協力しての懸命な救出活動に、目頭が熱くなった。「隊長は誰だろう?」、「隊員で知り合いはいるか?」、目を皿にして画面に食い入った。
新潟県中越地震土砂災害現場での東京消防庁ハイパーレスキュー隊の活躍。救出にあたる隊員と優太君の姿が感動を呼んだ。
(平成16)

 私も東京消防庁のOBである。民間会社を経て東京都職員に採用され、東京消防庁に配属されて以来、主として後方支援業務を担当してきた。ハイパーレスキュー隊の活動には、万全に整備された最新の車両、装備、資機材が不可欠である。私は平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災を思い出した。

 当時私は東京消防庁装備部装備工場長の職にあった。大地震発生に対し、時を置かずに広域消防応援隊の派遣が決定され、その集結場所を装備工場にするという指示が本庁から私のところにあった。すぐさま当時の102名の工場職員を全員集め、応援隊の全ての車両、装備、資機材に対し、緊急点検と整備に万全を期すよう指示した。併せて、悪条件の多い災害地での派遣車両等の万一の故障に対応するために、派遣整備工作車隊の編成を急いだ。東京消防庁管内の77の消防署と211の消防出張所の中から、指定された消防隊が続々と集結して来た。隊の車両をすぐさま大型車両用油圧ツインリフトなどに上げ、派遣命令時刻に間に合わせるために、職員一丸となって迅速かつ的確な点検整備を開始した。最終的に応援隊の規模は、73日間にわたって人員2700人、消防車両395台、消防ヘリコプター59機となった。

夕闇迫る中、整備工作隊隊員に対する派遣命令の伝達と激励中の筆者。長野県蒲原沢土石流災害への対応。(平成8年)     東京消防出初式における機械部隊分列行進のはしご車隊指揮隊長として出場中の筆者。
(平成9年)

消防の使命は「国民の生命、身体、財産を守る」ことにある。その崇高な使命達成のために、危険も顧みず災害活動に従事する消防隊員が「いかに効率よくかつ安全に現場活動ができるか?」、「そのためには何をすればよいか?」を、その時々の立場、立場でつねに考えながら行動してきた。防災の任の一翼を担える消防人としての誇りと悦びを感じながら…。

私の原点と今

 私の原点は武生第一中学校にある。そのころは野球部に在籍していたが、2年生当時は3年生部員が少なく、2年生7名がレギュラーであった。2年生主力のチームにもかかわらず抜群の強さを持ち、1市3郡の大会では、常勝で負け無しであった。その代わり練習も厳しかった。夏休みの期間中は昼時から暗くなるまで、連日鍛えられた。

 指導していただいた先生方も若かった。熱心で勢いがあった。勢いのあまり、手が飛んでくることもあった。そのつど目から火花が飛び、頬が腫れ上がった。この文集に登場する武田、谷崎両君も頬を腫れ上がらした野球部の仲間である。そのころは、純粋で野球にかける確かな情熱があった。中学生にしては恵まれた身体の持ち主の仲間たちには、必ず勝つという強い意志があった。そして何よりも際立っていたのが「チームワークの良さ」であった。お互いの強さを認め合い、弱点をカバーし合って頑張ってきた。

 思い出は数多いが、記憶に残る最たるものは、3年生のときに小浜中学と演じた30回延長戦の引き分け試合である。相手はその年の嶺南地方の優勝チームであった。絶対に負けまいとする皆の強い意思が一つになった結果、最後まで相手に点を許さなかった。不思議と疲れは感じなかった。

常勝の2年生主力チーム。後列右から4人目が筆者。(昭和25年)      大宮市のソフトボール大会(Aクラス19チーム)で、2連覇当時のチームメート。
後列右から4人目が筆者。(平成4年)

 その当時に培ったもの「気力、体力、チームワーク」は、今もって私の信条である。仕事でも、家庭でも、また遊びであっても。今は地域自治会のソフトボール部に所属し、25年間の長きにわたって仲間とともに楽しんでいる。大宮市(現さいたま市)の大会で2年連続優勝の実績がある現在のチームは、部員26名で平均年齢52歳のややハイレベルの仲間の集まりである。若手を活かすベテランの気配り、それに応える若手の謙譲さとが醸し出す和やかな雰囲気と、また意見は意見として互いに認め合い、その上決まったことは一致して実行するという足並みの良さが身上でもある。恵まれた仲間と環境に身を置く素晴らしさを次世代に伝え残すことが、我々のこれからの大切な役割だと考えている。

そして…ひと言

 校庭のすぐ脇に川が流れている。当時の川水は、見た目には比較的きれいだった。その水を何度か飲もうとしたことがあった。炎天下、長時間の練習であっても水はご法度だった。のどのあまりの乾きに堪えかねて、ファウルボールを捜す振りをして川面に顔を近づけたが、結局は一度も飲まなかった。「もう少し我慢をすればきれいな水が飲める」とそのつど耐えた。その我慢があとあとの苦しみにも頑張れた。

 人はそれぞれ歩む道は違っても、否応なしに必ず訪れるのが苦しみ、悲しみ、辛さである。その試練にぶつかったとき、多くの人々は真正面から立ち向かい、耐え忍んで乗り越えてきている。小さな試練を一つ一つ克服したその積み重ねが、さらに大きな試練に耐える「知恵と力」を生み出してくれる。中国の古き言葉に「疾風に勁草(けいそう)を知る」がある。勁草とは、強風に叩かれ倒されても、負けずに毅然として立ち上がる強い草を意味する。不幸にして大いなる苦難に遭遇したときには、その人の本当の強さ、たくましさが問われることになる。「未来を託しそして切り拓く若者たちが、苦難に打ち勝つ勁草であって欲しい」と願うのは、私ひとりではないであろう。