野球に打ち込んだ青春時代

武 田 祐 一
   株式会社 タケダ 取締役
   元 東映フライヤーズ球団

延々30回の熱戦、汗にまみれ無我夢中だった!

どうしても甲子園の土を踏みたいと奮い立ち、それまでにも増してひたすら猛練習に励み、苦しみに耐えてきた。

武生26会会員(幹事)。旧姓斎藤。1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年、プロ野球球団東映フライヤーズ(現在の日本ハム球団)に入団、捕手として活躍。1957年同球団を退団。以後、郷里にて実業家として活動、眼鏡枠の製造関連の家業に従事し現在に至る。武生26会幹事の一人として、会の運営に貢献。

 伝統と栄光を誇る武生第一中学校に入学した昭和24年は、終戦の痛み・悲しみから幾分落ち着いたころで、私が最も得手とする野球部が運動部の中で際立って活動していたように思います。何の迷いもなく野球部に入部しましたが、当時は、グローブも今日のような皮製のものでなく、私たちが使用出来るのは布製でところどころに綻びがあるような粗末なものでした。スパイクもなく、素足を覆うだけの布ズックを履けることが、私たちには精一杯の贅沢でした。

 バットやボールも数が少なく、大切に扱いました。バットが折れると釘やゴムテープで補修して使用し、練習が終わると、散らばったボールを部員も先生も父兄も暗くなるまで捜し回って集めたものです。それが少しも苦痛だとは思いませんでした。

現在のように、有り余る時代からは想像も出来ませんが、貧しく苦しい中から、部員全体が夢と希望を持って心を一つにして協力し、励ましあいながら強い一中野球部が培われていったのではないかと思います。

当時校舎は建築中で、1年生の時は武生南小学校で授業をして、放課後は西小学校のグラウンドで暗くなるまで練習をするという毎日でした。2年生の夏に武生高校が初めて甲子園に出場したことに深く感激し、自分もどうしても甲子園の土を踏みたいと奮い立ち、当時の監督であつた春田先生、コーチの神門先生の熱心なご指導の下で、それまでにも増してただひたすら猛練習に励み、苦しみに耐えてがんばっておりました。

3年間の一中野球部の中で遠く思い出されるのは、そのとき携わった人々が今日まで幾度となく語っているように、やはり昭和26年、3年生の夏に行われた県体オープン戦の準決勝のことです。小浜中と対戦し、猛暑の中延々30回の熱戦でも勝負がつかず、汗にまみれて無我夢中で闘ったこの長い試合のことだけは、今も頭の片隅から消え去ることはありません。

この年、武生市の体協より最高栄誉賞を受賞しました。 また、10月の県選抜野球大会では優勝を勝ち取りました。

一中での3年間の野球体験を得て、武生高校の野球部に入り、昭和29年の夏、念願かなって、一中で一緒に戦った高橋保・和田守広・牧野伸選手とともに夢の甲子園大会に出場することが出来ました。この時の感動は今日でも、毎年甲子園でプレーする高校球児の姿を見るたびに思い出されます。

 甲子園に出場したことにより、プロ野球東映フライヤーズ(現、日ハム)に入団することが出来ました。



プロ野球 東映フライヤーズ球団時代の筆者。(昭和31年ごろ)

体力にも恵まれ、自分の好きな野球をすることに打ち込めた青春一中時代を思い出として、半世紀を過ぎた今日も熱く深く心に残っていることが、私のただ一つの誇りであると思っています。