万国博覧会
35年前、「人類の進歩と調和」をテーマに大阪千里丘陵で開催された万博には、
♪ 世界の国からコンニチワ、 ♪ 1970年のコンニチワ
と、歌手三波春夫の歌う万博音頭が日本中を流れる中、会期半年間に6400万人を超える人々が訪れました。
世はまさに高度経済成長の真っ只中。昭和39年(1964年)の東京オリンピックに続くこの万博は、どちらもアジアで最初、しかも日本が、後進ながらも近代国家として、国際的な威信を高めようという願いを込めた大きな行事でした。戦前果たせなかった悲願の実現として、この「お祭り」には「国威発揚ここに極まれり」の感がありました。
地域冷房の計画
万博開催に先立つ昭和40年(1965年)、日本万国博覧会協会が設立され、会場の「地域冷房」が計画されました。これは、わが国最初の地域冷房でもあり、世界最大規模の主要施設として、国内外の関心は極めて高いものがありました。会場の東・南・北の3ヶ所に、総冷房能力3万冷凍トンのプラントを建設して冷水を供給しようとするもので、北プラントにはわが国最大の3千冷凍トン(実績千冷凍トン)の電動ターボ冷凍機5台などを並べるという巨大な計画でした。埋設配管は口径1メートル、総延長は往復24キロメートルもありました。のちにプラントが完成したときには、あたかも5頭の巨大なマンモスが座したような威容を誇り、圧倒される雰囲気でした。
共同企業体
昭和43年(1968年)になって、本プロジェクト遂行のために、三菱・三井・住友・丸紅の四商社による「日本万博地域冷房冷水供給共同企業体」というジョイントベンチャーが結成されました。各社2名の役付き職員と、若手8名からなる運営委員会が設立され、住友の篠崎兼夫さんが現場総責任者に、三井の遠藤盛男さんが事務局長になりました。
一方、協会では、関西電力出身の玉井摂郎さんが供給施設部長として総責任者に、通産省出身の藤田恵偉さんがプロジェクトリーダになりました。
しかしこの協会も、国、大阪府、市、民間の寄り合い所帯であり、また共同企業体も、国家事業への協力が大義名分であるとは言っても、各社それぞれの立場や思惑があり、運営面で筆舌に尽くしがたい困難がありました。幾多の紆余曲折を経て、三菱地所の当初の実施設計を大幅に変更し、協会が事業主体となり、共同企業体が建設運営をするという「委託契約」が締結されたのは、開会までにわずか1年を残すだけの昭和44年(1969年)3月でした。
冷凍機はすでに日立、IHI、三菱、ダイキン、東洋キャリア、エバラに先発発注され、地域配管もクボタ、川鉄、神鋼、クリモトが先行施工中でした。プロジェクトに携わる企業数は40社を超え、工事中の安全と万博の成功を祈願に行った成田不動尊では、あまりにも延々と読み上げられる企業名の多さに、読経、護摩焚きの僧は前代未聞のことと驚いていました。
プラント運転
プラント試運転で送水テストを始めたところ、冷水ヘッダーの水漏れのため、遅々として進まぬ状況が発生しました。各パビリオンの調整弁室の開栓業務と、定格水圧10キログラム/平方センチ以内でのポンプ運転操作のために、試行錯誤を毎晩遅くまで続けました。
ようやく本格運転を始めたとき、今度は地域配管に流入したと思われる砂利や木片などがストレーナに大量に引っ掛かり、運転不能になりました。その除去と洗浄のためのブローを、寒風の中、百年河清を待つ思いで果てしなく続けました。
会期中、本システムが10キログラム/平方センチの高水圧に耐え切れずに吹き上げたり、水漏れでパビリオンが陥没したりしないことを祈りながら、関係者は24時間体制で待機しました。
工事中・会期中の唯一の楽しみは、現場で溝蓋にしている「サブロク(3×6)の鉄板」(90×180センチ)を並べ、時々コンパニオンも招待してのワイルドな焼肉パーティでした。この日は、千里の肉屋も店仕舞いするほどの肉が必要でした。