万博での地域冷房プロジェクト

瀧 波 英 之
   元 住友商事株式会社
        建設不動産本部 次長

万博を支えた若き日の千里一夜物語!

異物混入で運転不能となった。その除去と洗浄のため、寒風の中、百年河清を待つ思いで、果てしなくブローを続けた。

武生26会会員。鯖江市生れ。1952年武生第一中学校卒業。武生高等学校を経て、1961年京都大学工学部建築科を卒業。同年住友商事株式会社に入社。以来、施設部、機電業務部、建設部、ビル事業部で、連続鋳鍛設備・医療機器などの輸入業務、立体駐車設備・ビル付帯設備・環境設備の建設・販売業務に従事。この間、万博、関西国際空港の建設や、大阪南港コスモスクェアの開発に貢献。1995年同社建設不動産本部次長を最後に退任。現在はゆうすい会代表幹事ならびに武生高等学校同窓会関西支部長を務めている。

万国博覧会

 35年前、「人類の進歩と調和」をテーマに大阪千里丘陵で開催された万博には、
      ♪ 世界の国からコンニチワ、  ♪ 1970年のコンニチワ
と、歌手三波春夫の歌う万博音頭が日本中を流れる中、会期半年間に6400万人を超える人々が訪れました。

 世はまさに高度経済成長の真っ只中。昭和39年(1964年)の東京オリンピックに続くこの万博は、どちらもアジアで最初、しかも日本が、後進ながらも近代国家として、国際的な威信を高めようという願いを込めた大きな行事でした。戦前果たせなかった悲願の実現として、この「お祭り」には「国威発揚ここに極まれり」の感がありました。

地域冷房の計画

 万博開催に先立つ昭和40年(1965年)、日本万国博覧会協会が設立され、会場の「地域冷房」が計画されました。これは、わが国最初の地域冷房でもあり、世界最大規模の主要施設として、国内外の関心は極めて高いものがありました。会場の東・南・北の3ヶ所に、総冷房能力3万冷凍トンのプラントを建設して冷水を供給しようとするもので、北プラントにはわが国最大の3千冷凍トン(実績千冷凍トン)の電動ターボ冷凍機5台などを並べるという巨大な計画でした。埋設配管は口径1メートル、総延長は往復24キロメートルもありました。のちにプラントが完成したときには、あたかも5頭の巨大なマンモスが座したような威容を誇り、圧倒される雰囲気でした。

共同企業体

 昭和43年(1968年)になって、本プロジェクト遂行のために、三菱・三井・住友・丸紅の四商社による「日本万博地域冷房冷水供給共同企業体」というジョイントベンチャーが結成されました。各社2名の役付き職員と、若手8名からなる運営委員会が設立され、住友の篠崎兼夫さんが現場総責任者に、三井の遠藤盛男さんが事務局長になりました。

 一方、協会では、関西電力出身の玉井摂郎さんが供給施設部長として総責任者に、通産省出身の藤田恵偉さんがプロジェクトリーダになりました。

 しかしこの協会も、国、大阪府、市、民間の寄り合い所帯であり、また共同企業体も、国家事業への協力が大義名分であるとは言っても、各社それぞれの立場や思惑があり、運営面で筆舌に尽くしがたい困難がありました。幾多の紆余曲折を経て、三菱地所の当初の実施設計を大幅に変更し、協会が事業主体となり、共同企業体が建設運営をするという「委託契約」が締結されたのは、開会までにわずか1年を残すだけの昭和44年(1969年)3月でした。

 冷凍機はすでに日立、IHI、三菱、ダイキン、東洋キャリア、エバラに先発発注され、地域配管もクボタ、川鉄、神鋼、クリモトが先行施工中でした。プロジェクトに携わる企業数は40社を超え、工事中の安全と万博の成功を祈願に行った成田不動尊では、あまりにも延々と読み上げられる企業名の多さに、読経、護摩焚きの僧は前代未聞のことと驚いていました。

大阪千里丘陵で開催された万博で、わが国最初の試みとして地域冷房が実施された。この写真は、当時、会場内の北プラントに据えつけられた3000冷凍トンの冷凍機。
(昭和45年)

米国視察

 秋になり、ようやく目途も立ち、私を含む運営委員の若手は、本プロジェクトの基本計画・設計をされた早稲田大学の尾島俊雄先生主宰の「米国地域冷暖房実態調査団」に参加しました。

 アリゾナ州フェニックスでは、こんな田舎まで大勢の日本人がよく視察に来てくれたと、新聞・テレビ報道はもちろん、市長夫妻や多数の市民がカントリークラブに集まり、バーベキューパーティで歓待してくれました。

 またラスベガスでは、念願のルーレットに熱中しました。出発時に皆から貰った餞別で一攫千金を狙いましたが、案の定、手元に残ったのはカジノの1ドルチップ一枚だけでした。初めての海外出張での妻への土産は、この1ドルチップの首飾りになりましたが、嬉しいことに今でも大事にしてくれています。

米国地域冷暖房実態調査団の一行。前列左から3番目が筆者。(昭和44年)
米国フェミスフェア博調査で、ジョンウェィン、ウィドマーク主演の映画「アラモ」で有名なテキサス州サンアントニオを訪問。
(昭和44年、33歳時)

プラント運転

 プラント試運転で送水テストを始めたところ、冷水ヘッダーの水漏れのため、遅々として進まぬ状況が発生しました。各パビリオンの調整弁室の開栓業務と、定格水圧10キログラム/平方センチ以内でのポンプ運転操作のために、試行錯誤を毎晩遅くまで続けました。

 ようやく本格運転を始めたとき、今度は地域配管に流入したと思われる砂利や木片などがストレーナに大量に引っ掛かり、運転不能になりました。その除去と洗浄のためのブローを、寒風の中、百年河清を待つ思いで果てしなく続けました。

 会期中、本システムが10キログラム/平方センチの高水圧に耐え切れずに吹き上げたり、水漏れでパビリオンが陥没したりしないことを祈りながら、関係者は24時間体制で待機しました。

 工事中・会期中の唯一の楽しみは、現場で溝蓋にしている「サブロク(3×6)の鉄板」(90×180センチ)を並べ、時々コンパニオンも招待してのワイルドな焼肉パーティでした。この日は、千里の肉屋も店仕舞いするほどの肉が必要でした。

大阪万博会場の中央広場正面に設置された岡本太郎画伯制作による「太陽の塔」。この万博の象徴としてその威容を誇り、今もすべての来場者の大きな思い出として心に残っている。
(昭和45年)

エピローグ

 会期中、大きなトラブルもなく、幸運にも、華やかな「お祭り」の裏方を無事全うすることができ、「大阪万博」はその幕が下りました。

 この事業の成功は、「ツキ」もあったかも知れませんが、組織も立場も違う個々の人々の意志と力が結集し、うまく調和した結果だと思います。

 後日、この成果を博士論文にとの話もありましたが、若きリーダーたちは皆、「技術者として本プロジェクトに参加できたことだけで満足です」と、間もなく解散の運命にある協会と共同企業体を静かに去っていきました。

 「EXPO−70 地域冷房プロジェクト」は、若き日の私の「万博《千里》一夜物語」です。

(注) 筆者は当時、事務局次長 兼 北プラント建設担当運営委員。