「一中」への思い
「武生一中」、「イッチュウ」という言葉や音の響きは、私にとって、いつに変らぬ懐かしさや安らぎに似た思いを抱かせてくれる。
もう半世紀以上にもなる中学生のころのセピア色の思い出。教員として母校に赴任し、8年間生徒たちとともに音楽に没頭していたころの鮮やかな思い出。時を重ねて、教員としての最後を母校で勤め、学校運営に携わりながら創立50周年を迎え、成し終えた充ちたりた思い出……。
これら通算13年間、我が家から学校まで、中学生のころは徒歩で、教員時代は自転車で、そして最後は愛車でと通う方法は違っても、同じ3キロ余の道のりの風景は思い出とともに懐かしい映像としてよみがえってくる。
「一中」の誕生
昭和22年、新学制によって武生町立武生第一中学校として、西小学校などを間借りしてのまだ校舎もない中での誕生。
初代高坂校長によって県内のベテランや新進気鋭の先生方が集められて陣容が整い、25年には校舎落成式が挙行されて、いよいよ武生一中としての基礎が固められた。
26年には、作詞 勝承夫氏、作曲 堀内敬三氏の手によって校歌が完成し、校歌発表会と、私たち第5回卒業生寄贈による校旗贈呈式が新装なった講堂で行われ、文字通り新制中学校として出発した。
誕生期のこのころは、若い先生方が「県下の一中」をめざして、競い合って生徒たちとともに各分野で活動・活躍の場を作ってくれたものだ。毎授業時間には、各教科ごとに競争のように配られる手刷りのプリントの数の多いこと。また放課後のクラブ活動では、野球、バスケットボール、バレーボール、陸上などの体育面や、音楽、演劇、弁論、討論、書道、珠算などの文化面で、先生方が先頭に立って熱っぽく指導され、「天下の一中」を合言葉としていかに誇り高く活気に満ちた指導で生徒たちを引っぱられたかを伺うことができる。この草創時代の県下での活躍が、今でも武生一中の伝統と栄光として引き継がれ語られていることは言うまでもない。
昭和25年優良施設校として文部大臣表彰を受けた校舎も、年を重ねて多くの卒業生を送り出し、一中の栄光を重ねながら役目を終えて、昭和61年には近代的な新校舎へと生まれ変わり、新たな旅立ちの一ページとして移り変った。
「一中」に勤務
私が教員として母校に赴任したのは、昭和44年からの9年間であつた。
音楽科担当としてやはり思い出は、吹奏楽の部活動を通して出会った生徒たちとの交流である。この部は、一中の誕生と同時に高坂校長の命によって半澤哲雄先生が、学校の士気を鼓舞するスクールバンドとして県内で最初に創設されたクラブであつた。当初は男子生徒ばかりによる勇壮なマーチを主として演奏し、体育クラブの応援なども行うスタートであつたようであるが、私が担当したころは、前任の本田正男先生の指導によって、吹奏楽部として合奏の響きを追及した部活動へと成長していた。
引き継いだ私は一中で初めての女性指揮者であり、それは当時県コンクールでも珍しがられた。部員は男子が多かつたが少しずつ女子も入部し、熱心な生徒たちと保護者の方々の暖かい支援と、当時の大辻教頭先生を中心に学校側の協力とOBたちの応援をいただいて、部としての強化体制を整えていくことができた。
南条町妙泰寺をお借りしての合宿練習。中日コンクールで成和中を破って県代表となり、名古屋までバス、トラックで出場し優勝したこと。全日本コンクールでは、常勝校進明中に勝って県代表として松任市で行われた北陸大会で金賞を得たこと。武生市より紫式部賞特別賞として吹奏楽部が団体表彰を受けたこと。部の保護者会の皆さんの発案によってコンサートを市民ホールで第1回スプリングコンサートと銘して開催したこと……等々。「カラスが鳴かない日はあっても、一中からブラスの鳴らない日はない」と言われ、ご近所から「うるさい」と苦情の電話があったりもした。だが部員たちとともに味わった汗と涙と喜びと感激の思い出は、今でも鮮やかにたくさんのエピソードとともに微笑ましく懐かしくよみがえってくる。
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| 名古屋市公会堂で開催された第16回中部日本吹奏楽コンクールで、武生第一中学校吹奏楽部が優勝。中央は指揮をとる筆者。(昭和48年10月) |
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| 武生市民ホールにて,武生第一中学校吹奏楽部 第1回コンサートを開催。前列中央は指揮の筆者。(昭和50年3月) |
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この一中での部活動を通して育んだ信頼と団結と友情は、生徒たちの可能性を信じ、ともに前向きにめざした尊い経験として現在にまで続いている。それは部員たちが同窓会を開いてくれていることである。
その時の中学生も今は40歳代、社会の中での中核として、それぞれがそれぞれの歩みの中で、中学生時代に打ち込んだ共通のふれ合いを大切に、何年か経つと案内状が舞い込んでくる。当時の部員は160名くらいだと思うが、各地からやって来て、お互いに幼顔を思い出しながら、今は対等に話ができる楽しみは、私の大きな財産であり教師冥利に尽きる思いである。
「一中」の今
教職を退いてはや8年。学校教育も社会状勢や意識の変化に伴い、その価値観も周囲からの期待度や評価も複雑に変っているが、多感な中学生時代を過ごした母校一中への熱い思いは色あせることはない。
ずっしりと重い歴史や伝統に縛られることなく、新しい確かな歩みを重ねてほしいと願う。平成16年現在、生徒数720名、学級数20、職員数40名の大規模校として、また武生市の中核として、各方面でのめざましい母校の活躍ぶりを見聞きすることは心うれしいものである。
校舎内に満ちあふれる笑い声や歌声、校庭に響く喚声は昔も今も変らず、若々しいエネルギーは時が移っても歴史の上に次の時代をしっかり重ねていることを感じさせてくれる。
飛躍的な科学技術の進歩による社会変化のありようは、物と人の心の多様化につながり、生活様式や思いの多元化にも大きく影響しているが、学校教育の中においては未来の夢を持ったたくましい若人を育てるという普遍的な教育目標をもって、微動だにしない確固たる存在であってほしいと願う一人である。
おわりに
一中の誕生期に入学し、一中の創成とともに過ごした3年間。校舎も備品もそろわなかった時代に、かえって何もかも新鮮に吸収できた時代。
野武士のような気骨のある凛とした先生方やエネルギッシュで生徒指導に労をいとわなかった若い先生方の指導を受けて、一番成長する時代をいつもはだしで過ごした3年間。
思えば当時57名学級の8クラス、すし詰め状態の教室の中で肩を寄せ合った仲間意識が、今の26会の歩みに通じているのであろうか。
校歌の一節 「夢がふくらむ希望の天地……心の友の集るところ……ゆくて栄えあるわれらの母校」
幾つになっても、いつの時代でも変わらない母校一中への思いである。