武生26会の歩み

片 山 登 一
   人形玩具商 片山寅商店 店主
   武生26会 事務局

同窓の絆をさらに深め、末永く継続したい!

調査は困難を極めた。開催までに何とか一人でも多くと、昔の名簿を頼りに手分けして一人ひとりをチェックし直した。

武生26会会員(幹事)。1952年武生第一中学校卒業後、家業の人形玩具問屋 片山寅商店を継ぎ経営に専念、現在同商店店主。武生26会の発起人の一人としてその設立に携わる。以後、同会幹事として事務局を担当し、現在に至る。趣味は絵を描くこと。他に佛画、佛像、古銭、刀剣、盆栽など。右掲は最近の自画像。  

武生市が越前市に

 平安時代の古より「国府のたけふ」と呼ばれてきた我が武生市が、平成17年10月1日をもって今立町と合併することになった。その協定書が調印され、「越前市」として生まれ変わる。武生の隣には「越前町」と「南越前町」があり、紛らわしい感じは免れないが、これを機に、市の行政・文化・産業・経済など、あらゆる面で新展開をみて、大きく発展することを期待したい。

 ところで気になるのは、我が母校の名称である。創立以来慣れ親しまれてきた校歌の一節「武生我が一中 郷土の誇り」が、「越前我が一中 郷土の誇り」にでもなるのだろうか。心配である。

 しかし、どうなるにせよ、我が母校一中の校風・精神・理想・学問などは微動だにしないことを望む。できれば「武生我が一中 郷土の誇り」として末永く伝えたいと思う。

母校のシンボル

 母校の守護神にも値する創意ヶ丘の欅の木は、幾年もの風雪に耐えながら、年ごとの入学式・卒業式でこの校歌を聞き、校庭での生徒たちの活動・活躍ぶりを見続けてきた。今もなお、凛然と天高く枝葉を広げ、生い茂っている。まさに母校のシンボルと言える。見上げるほどの雄姿に、一体何を語るか、一度聞いて見たい気がするのは私だけではないであろう。

 校長室に、スポーツ活動・文化活動の輝く栄光の証しである賞状・トロフィーとともに、整然と飾られているであろう母校のもう一つのシンボル「校旗」は、私たち26年度卒業生の置き土産として、未来の生徒たち諸君へ贈呈し、託してきたもの。生徒諸君には、この校旗の栄えある歴史に恥じないよう、母校の伝統を継承しつつ、さらに発展させて欲しいものである。

往時の生徒と先生

 最近ではまったく見かけないが、私たちの時代にはどこへ行くにも男子は学帽を着用したものである。白線の1本筋、桜花の中の校章。その校章を布に油をつけて光沢が出るまで磨き上げたりした。昔のバンカラ学生への多少の憧れもあったのか、ひさしを折り曲げ、腰に手拭をぶら下げ、書物を風呂敷に包み、厚歯の下駄を履いて登校した生徒も幾人か見られた。遠い南小学校の分校への通学であったためか、近辺の他校生と縄張り争いでよく喧嘩をふっかけられたこともあった。

 入学当時、小学校時代には見られなかった特色ある先生方も多く、さすがに中学校だなぁと思い知った。先生方のニックネームも愉快で、カッパ、ガス、チュータ、コンチャン、キンゴロウ、タワシ、赤玉ポートワイン等々。

 洋服姿に白足袋、上履きに藁草履、大変ユーモラスなスタイルの先生。いつも教科書を小脇に抱え、細竹の指示棒を持って教室に入ってこられた風紀にうるさく怖い先生。また教室に入ってこられると、級長が起立の号令を掛け、クラス全員ピーンとした緊張感のもと、必ず机の下に椅子を収めさせ、その後へ直立不動の姿勢で立たせて、生徒の顔を一人ひとり見渡しながらうなずき、改めて「一同、礼!」で授業を始めた先生。またこんなこともあった。昼食時間にアルミの弁当箱の蓋だけを生徒たちの中に持って入り、生徒のおかずを見比べながら一品摘んで托鉢して歩いていた先生。このように実に多彩な顔ぶれだった。

私の中学時代

 小さいころより私は絵を描くことが何より楽しく、現在も葉書に佛画を書いたり絵手紙を書くことを趣味としている。図工の時間に戸外へ写生に出て、我ながら良く描けたと思い提出をしたら、先生が絵を見ていわく、「お前なぁ、この絵は富士に松、海に日の出と同じ。綺麗なだけで何の面白みもない。学校を卒業したら風呂屋のタイルに絵でも描かせて貰えや」。一同にゲラゲラ笑われ恥をかいた。単に貶されたに過ぎず、悔しい思いだった。

 数学は大の苦手であった。人の言うには数学はパズルと同じで、答が出るから面白いというが、自営業の跡取り息子の私には通用しなかった。当時は進学組、就職組が半々の時代だったと思う。祖父や親父は典型的な明治気質の人間で、丁稚奉公から鍛え上げた商売人だった。祖父がよく言っていた言葉に、「商売人は読み・書き・算盤・義理・人情」というのがある。商売人には学問は不要という主義であったため、この言葉を自分に都合よく解釈して、「商売人になるのに、なんで方程式だ、なんで底辺掛ける高さ割る2なんだ」と、数学の時間が来るたびにひとり言の屁理屈を言っていたものだ。数学はまったくやる気が出ず、評価は当然のこと、最下位組という始末だった。

娘との会話

 現在私の二人の娘が、どう間違ったのか、出来の悪かった私に似ず教職に就いている。よく娘たちに、私の経験や体験を話に出して、「生徒を褒めろ、生徒を励ませ、時にはほどほどに煽てろ」と言ってきた。「文法の試験の折に先生から《これがオマエの取る点数か》と叱られたが、大変嬉しい思いをした。全員の前で叱られて喜ぶのも少々変だが、私にもまだ望みを持って見て貰えているのかと思うとありがたいとさえ思えた。豚も煽てりゃ木に登るとか、譬えはよくないが生徒たちにやる気が出てくるかもよ……。」

 現在私の二人の娘が、どう間違ったのか、出来の悪かった私に似ず教職に就いている。よく娘たちに、私の経験や体験を話に出して、「生徒を褒めろ、生徒を励ませ、時にはほどほどに煽てろ」と言ってきた。「文法の試験の折に先生から《これがオマエの取る点数か》と叱られたが、大変嬉しい思いをした。全員の前で叱られて喜ぶのも少々変だが、私にもまだ望みを持って見て貰えているのかと思うとありがたいとさえ思えた。豚も煽てりゃ木に登るとか、譬えはよくないが生徒たちにやる気が出てくるかもよ……。」以前に娘の一人が転勤で一中へ奉職して間もないころに、私にとってのプライバシーと言おうか、威厳に関わると言おうか、一番気にして心配していた点を突かれた。それは私の在学中の成績。半世紀も前の成績が学校に残っているのかどうか定かではないが、ある日学校から帰ってきて突然、「父さんの成績を見たけど、あれは一体何なのよ。中くらいならまだしも、はっきり言ってそれより下位じゃないのよ」。返す言葉が出てこない。まるで生徒と同じ扱い。私も開き直って「当たり前じゃ、小賢しいことを言うな。学校へは毎日弁当下げてマンガを描きに行っていたんだ。1に遊び、2にマンガ、3、4がなくて5が弁当じゃ」。

 さらに、「父さんの友達は皆、頭のいい人ばかりと聞いているけど」、「そうだ、俺の友達は、生まれたときから勉強せんでも頭の出来が違う奴らばっかりじゃ。そんなできる奴らと一緒にせんといて!」。

 実のところ、私の付き合っている友達は皆、男性も女性も出来物ばかり。今も小学校のクラス会や仲の良い気の合う少人数の会を作って1、2ヶ月おきに集まって酒を酌み交わし、今昔の四方山話を語りながら楽しく付き合っている。私は本当に良い友達に恵まれ心から幸せを感じているが、彼らは皆、高校・大学出身者。とくに武生高校時代の話が出ると私には経験がなく、ついていけないのがちょっと羨ましい。

 現在も、家庭の事情で進学が出来ずにいる生徒たちはいるだろうが、仲の良い友達は後々一生の財産だから、たくさん作って付き合ってもらいたいものと思う。困ったときには力を貸して貰えるし、知恵も出して貰え、自身の励みにもなる。真の友を失うは百万の富を失うより損失大なり、という。一方で、長続きしない友とは付き合うなとも言うが、是非、「友達との和を大切に」を信条にして欲しい。以上、在学中を思い出しながら、かつ当時を後悔しながら、劣等生の私の経験・体験など、語らい草に恥を忍んで記述してみた。

   
第1回武生26会創立総会で故渡辺信二先生と筆者。
(昭和61720日)
第1回武生26会創立総会後の
打ち上げ・反省会を兼ねた幹事会。
(昭和61728日)

第3回武生26会総会後の反省会にて。(平成4年)


26会の発足

 ところで私たちは、武生第一中学校の学び舎を昭和27年3月に卒業し、進学や就職へと、それぞれが希望に燃えて離散した。以来約34年が経った昭和61年春ころ、今は故人になられたが在学当時は野球部員として活躍していた神戸弥栄・土橋昭治の両君が、他にも数名と一緒に私を訪れ、「我々が今回、一中時代の全クラスの同窓会を計画しているので、ついては君にも発起人の一人として是非参加して欲しい。他の人たち数名にも呼びかけて参加をしてもらう積もりだ」とのことであった。実は私自身も以前から、同窓会には関心を持っていた。有志を募り、先生を迎え、規模は小さくてもいい、せめて3年生のころのクラス会でも、と思いながらも機を逸して、年月が流れていた。誘いが来たときには願ったり叶ったり、即同意して数日後には第1回目の発起人会が開かれた。

 34年間の空白のため、一同が会したときにはまるでクラス会並みの賑やかさであったが、早速ながらということで会の名称、会長の問題について議論が始まった。誰の発案だったかは忘れたが会名として「26会」の提案があり、これなら単純にして明快ということですぐ決定した。次いで会長には、母校の初代校長の子息 宮本博雅君を立てることを全員一致で決定し、ここに我らが26会の誕生をみた。全員の役割分担も決まり、会を重ねること数回目には、初回同窓会の開催日も決まり、一通りの恰好が見えてきた。

 だが一番困ったことは、卒業以来34年を経過しているために、ある程度の資料はあるものの詳しい資料に乏しく、またその僅かな資料も当てにはならないことだった。転居、結婚、死亡などで、消息の分からない人が多く、調査は困難を極めた。開催日までには何とか一人でも多くの級友を探さなければと、皆で手分けをし、昔の名簿に基づき一人ひとりをチェックし直した。実は現在に至ってもなお消息の分からない級友が数10人おられるのだが、そういう消息不明の人たちは次回までには必ず見付け出す、ということにして、とりあえずは判った級友のみで開催しようと、ようやく第1回目の同窓会開催の案内状を発送することが出来た。半年後の昭和61年7月20日、武生農協豊穣殿大ホールにおいて、お元気な先生方にもお越しいただき、全卒業生約460名のうちの140名ほどが一堂に集い、「第1回 26会(第5回卒業生)武生第一中学校同窓会」と銘打ち、華々しく盛大に祝宴を催すことが出来た。

 それ以来2回、3回と回を重ねて、途中には還暦祝いを兼ねての催しも含め、3〜4年おきに一度の行事となり、発足以来すでに通算約20年、第6回を数えている。私たちのようにこれほどまでに盛大かつ長期間継続している同窓会は、一中卒業生の中では他に例がないと聞く。この事実に私たち26会幹事一同は多少の優越感と満足感を持っているが、これも26会会員の固い心の絆のおかげだと感謝している。
26会関東支部の会には武生の26会本部からも多数が参集し、ともに客船シンフォニーでの東京ベイクルーズを楽しんだ。(平成72月)

ベイクルーズでの午餐風景。参加者の中に、武生から駆け付けた26会創設時の貢献者の一人、故神戸弥栄君(右端)の顔が見える。 (平成72)
ベイクルーズのあとカラオケ店に繰り出した一行。
(平成72)

武生26会関東支部の会。武生から宮本会長、武田幹事、片山幹事が出席した。(平成83月)

第4回武生26会総会の際に、母校に集結。創意ヶ丘の校歌記念碑の前にて。
(平成8年)
第4回武生26会総会の際に、母校に集結。校長室にて。岩端るみ子教頭(前列左から2番目)を囲んで。(平成8年)
幹事ほか数名が館山寺温泉に集う。(平成11年)

第4回26会還暦記念同窓会総会での記念写真。
武生パレスホテルにて。(平成87月)
第5回26会同窓会総会での記念写真。
武生「うおとめ」にて。(平成127月)
第6回26会同窓会総会での記念写真。ここ20年の間に第6回を数え、このときは100名近くが集合した。武生パレスホテルにて。(平成164月)

第6回26会同窓会総会でのスナップ写真。宮本会長、岩端幹事、岩井関東支部長らの顔がある。武生パレスホテルにて。(平成164月)

26会の今後

 平成18年は、私たちにとって70歳の古稀の年にあたるが、いまや日本人の平均寿命は世界一で、男子78歳女子85歳までに記録を伸ばしている。「人生70年古来稀なり」と杜甫は詠っているが、これらの記録に迫ろうとは、会員誰もが思ってもみなかったはずである。とは言うものの、私たちはひたすら険しい人生の山坂を登ってきて、今や雲海でまだ下界が見えてはこないが、折り返し地点から麓へ向かって徐々に下がってきていることも確かである。回数を重ねるたびに、残念ながら参加者も減少傾向にある。今後も出来る限り、折角同じ年に生命を授かった者同士の合縁・奇縁・腐れ縁とかで、友達の絆をなお一層深め、末永く継続していけることを心から祈念したいと思っている。