親父という呼び名
父 高坂賢一のことをここに書き始めようと思い、ふと気付いたことがある。私を含めて兄弟たちは皆、父母のことを親父、おふくろと呼んできたことである。さていつごろからそう呼ぶようになったのだろうか。
やはり青春期にさしかかり、自分を見つめなければならない時期になって、子供時代の呼び名であるお父さん、お母さんが、親父、おふくろへと次第に変化したように思う。親父と呼ぶことによって、その背中に描かれているメッセージをしきりに読み取ろうとしていたのではないか。多分、中学時代であったろう。
父は、常々何ごとにつけても、「易きにつくな」と、子供の私たちにも言っていた。それ以来私たちにとっては、親父の背中とともに、この言葉は、忘れることの出来ない金言ともなった。
父の生い立ち
父賢一は、旧大虫村横根(現武生市横根町)に山崎清太夫の7人兄弟の次男として明治36年に生まれ、幼少より勉学に興味を抱き、武生中学入学以来成績はいつもトップクラスであったと聞いている。卒業後進路が決まらず、悩みながら家業の田畑仕事を手伝っていたが、本人の志と父親の強い希望もあって、東京物理学校高等師範科数学部(現東京理科大)に入学することになった。学費は家族全員の後押しや犠牲のもとにまかなわれたという。本人は家族の期待を一身に背負い、相当な覚悟で上京したと語っている。当時の物理学校は、入学は容易でも進級が難しく、落第者・退学者を多く出したというが、父は努力の甲斐あって優秀な成績で卒業した。卒業と同時に文部省の命をうけ、熊本県立商業学校の数学の教諭として赴任し、この地を皮切りにその後ずっと教育の道を歩むことになった。
武生第一中学校 初代校長時代の
父 高坂賢一。(昭和24年ごろ) |
父 高坂賢一(旧姓山崎)が熊本県からもらった初めての教諭辞令。これが教育界に入るきっかけとなった。(昭和2年) |
東京府の出向令を受けて熊本県が発行した辞令。これにより東京府立第一商業学校に奉職することとなった。(昭和8年) |
父の結婚
ときを同じくして縁談話が起こり、昭和5年、郷里福井県味真野村高坂金兵衛の一人娘「ちづゑ」と結婚を決める。昭和7年には長男が生まれ、そのすぐ後、東京府の出向令を受けて、東京府立第一商業学校に奉職する。地元の味真野小学校に勤務していた母は、独断で仕事を辞め、長男を連れて夫とともに暮らすべく上京した。いまだに母の無鉄砲さが話題になる。この時期が父母にとっては一番楽しかった時期と言えるだろう。
父の義父金兵衛は味真野村役場に勤めており、父賢一を福井へ帰すべく東奔西走した。努力の甲斐あって旧制三国中学校への転出に成功し、ここで郷土の教育界に第一歩を踏み出すことになるのである。その年、昭和11年は、私にとってもまた最も記念すべき年、即ちこの年に生まれたのである。
父の姿
物心ついたころの父の姿は、私の記憶の中にはあまり見当たらない。それは前述の理由で三国に単身赴任中だったことを意味する。ただ、土曜日になると父の帰宅を待ちわびて、裏の畦道を停車場の方角に駆けていったことや、父の姿が夕日を背に小丸城址あたりの濃い緑の中から浮かび上がってくるのを見付けて、はしゃいだことをおぼろげに思い出す。白いパナマ帽、麻の夏背広に革鞄という、むしろ背の低いほうであった父の姿が、幼心には実に大きく見えたものだ。母は常々父のことを「お父さんは味真野一の学士様で、洋服(その頃近所では珍しかった)を着たお父さんを見るととても誇らしかった」と語っていた。多分母にとっては文字通り「三国一の婿殿」だったのであろう。
夏になると四つ違いの兄と一緒に三国中学に連れていってもらい、課外授業をしている教室を覗いたり、校庭隅の野菜畑でトマトを取ったりして、父にこっぴどく叱られたことを鮮明に思い出す。まだ戦争の色もそれほど濃くなかった地方での、平和な暮らしの一面を物語っているのではないだろうか。
わが家では、当時の国策に沿って私の下に妹、弟、妹が次々と誕生し、家族は祖父母を加えて総勢9人となっていた。幼い弟妹たちの面倒は、父母が全面的に信頼をおいていた祖父母にゆだねられたが、厳しかった母と同様に、父もまた、子供を思う気持ちは誰にも負けなかったと思う。
武生赴任の頃
昭和18年になって、母校武生中学校に転任し、数学の教師として教壇に立った。当時の教え子たちから「カッチャン」という渾名を奉られている。このことからも、大変厳しく、まじめ一本で、融通の利かない人物像が浮かび上がってくる。一方家庭にあっては、父は口数少なく優しかったが、一旦理に合わないことがあると厳しく説を曲げず、私などは正座で説教を食らったこともたびたびあった。
もう一つ私の心に焼き付いている夏の朝の光景がある。滝のような汗をかきつつアイロン掛けに悪戦苦闘している父の姿である。子供5人の白いシャツやブラウスに、自分たちの分も加えると、大変なことであったに違いない。おかげで毎日ピンと糊のついた白いシャツを着て学校に行くことが出来た。母は母で7個の弁当作りに汗を流していたのだから、母の手抜きではないことは家族全員が理解していた。今しきりに取沙汰されている男女共同参画運動の先駆けだったのかもしれない。何も気負うことなく、父からのごく自然な思いつきでこういう習慣になったものと確信している。
父と野菜作り
父は農家の次男に生まれ、学業の傍ら家業の田畑の仕事を助けた経験がある。これが苦労なしに育った普通の若者とは質を異にしていた。勤勉実直を絵に描いたようなと、人々をして言わしめた所以でもある。
父は出勤前の数時間を畑仕事に精を出し、夏野菜を丹精した。いったい何時に起きていたのだろうかと不思議に思う。父の作った茄子、きゅうり、とくに西瓜は見事であった。私たち5人の子供は、市販の甘味類こそは買ってもらえなかったが、愛情たっぷりの野菜を腹いっぱい食べて育った。
余談であるが、終戦後新しい教育制度(6・3・3制)が施行され、武生第一中学校の校長となり、学校経営に専念していたときも父の野菜作りは続いた。のちの勝山高等学校の校長時代は別として、さらにその後、武生市の教育長となり、活躍が市全体や県の教育行政にまで広がったのちも、父の野菜作りは続いたのである。
武生第一中学校時代
昭和22年、終戦後の新しい教育制度のもとで、新制中学校として武生で最初に設立された武生第一中学校の初代校長として、学校経営に専念することとなった。
戦後の混乱期、武生は戦災こそ蒙らなかったが、教師の適材も校舎もなく、教育方針も整わず、ないないづくしの中からのスタートだった。
父は、戦後の日本の復興には少年たちの教育が最優先事項と考え、情熱を燃やした。先方にわざわざ足を運んで説得し、教師に迎えた人も多かったと聞く。教師の中には一芸に秀でた人も多く、生徒を託されると見込んだ人材が数多く集まった。
父は彼らを全面的に信頼し、生徒の指導をゆだねた。招聘した教師一人一人が、勉学にまたクラブ活動にと情熱を燃やし、生徒の学力向上を最重点に掲げて指導に当った。今思うと当時の教師の卓越した指導力が、私たち26年度卒業生に花開いたことは否めない。県内一の中学校を合言葉に、校長として力のかぎりを尽くした。このように偉大な歴史の始まりを担い、父は幸せだったに違いない。
父の遺品を整理中に見付けた一片のメモ帳に、
@ 心身ともに明朗、
A それぞれ個性を伸ばす、
B 実践力を身につける、
C 志を立てる、
D 生徒としての本分を忘れるな、
と書かれていた。思えばこれらが父の教育指針の原点であった。
教育長
父の描いた新制中学校の教育のあり方が、県下のモデルとして多くの中学校の教育指針として参考になったと聞く。昭和27年には勝山高等学校の第2代校長に転任したが、当時の武生市の中西市長に請われて再び武生市に戻り、初代教育長として昭和39年まで、市全体のみならず県の教育行政にまで携わった。
老人クラブ活動
その後教育界を退いた父は老人クラブ活動に積極的に参加し、武生市老人クラブ連合会長、さらに県老人クラブ連合会長を勤めた。父の履歴の中に「今は80歳を50歳と思い、働いて社会に尽くし、参加し、健康な体で終わることを信条とする」とある。
昭和49年、勲五等双光旭日章を受章した父は、平成10年8月、夏の盛りの中、その一生を閉じた。明治・大正・昭和・平成と4時代を生きてきたが、父にとっては何といっても昭和が表舞台であり、昭和を完全に生き抜いた男の一人であったと思っている。
私自身のこと
さてここで、私自身のことについても少し紹介する。福井大学付属小学校に勤めていたときに縁談話があり、見合いの席で義父の「生半可な商いの知識を持っている人より、持っていない人に家業を継いでもらった方が我が家にとっては良いと思っている」との言葉に感じ入り、OKの返事をした。ただし家内の方は、私よりも背丈が高かったためか、少し渋ったらしい。昭和38年、いわゆる「三八豪雪」の爪跡が残っているその年の春、婿養子として宮本家に入り、眼鏡業界へ一歩を踏み出すことになった。
今ここに父の生涯を書いていて、父は教育者としてだけでなく、経営者としての手腕もあったのではないか、ということがふと頭をよぎる。
私の義父は大阪で丁稚奉公をして苦労して身を起こしたが、身体が無理出来ないこともあって、業界のことや商品のことなどの情報を筆まめに顧客に伝えて信頼を得るという、今のインターネット的商法を行った。私が感銘を受けた人の一人であるが、父にもそんな一面があったように思う。私自身が壁に突き当ったり悩んだりしたとき、義父なら、父なら、どう切り開いただろうかと、思いを巡らせながら難題を解決してきた。
私なりの商いの基本的考え方として、5年先を見据え、達成出来たら次の5年の目標を決めるようにして来た。10年後の昭和48年に株式会社に改組し、更にその5年後には、市の都市計画による駅前開発の折り、社屋ビル建設を計画し、昭和55年春に竣工することが出来た。小規模ながらも業界では認められ、信頼される会社になったと思っている。
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写真 左上:右上:
メガネの日(10月1日)に北陸道南条サービスエリアにてメガネ洗浄サービスなどを行い、メガネ産地福井のPRに務める筆者。(平成16年)
写真 左:
武生26会の創設以来、請われてその会長を務めている。写真は武生26会総会での会長としての挨拶風景。武生パレスホテルにて。(平成16年4月)。
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眼鏡業界で最も印象深く思い出されるのは、平成6年から6年間、福井県眼鏡卸商協同組合の理事長として、また県眼鏡協会の副会長として務めたことである。また、平成8年、全日本眼鏡卸連合会会長の職にあったときには、日本眼鏡関連団体協議会という業界最高機関の幹事会の席上、「10月1日をメガネの日」と定めてはどうかと提案し、その後審議を繰返し、翌年の総会にて最終決定したことである。全国各地で行っていた個々の行事を統一でき、業界のイメージアップ、メガネPR、販路拡大にと、その効果は大きかった。産地福井では、毎年10月1日に私たち組合員が中心となって、北陸道南条サービスエリアにてメガネ洗浄サービスなどを行い、メガネの日の浸透と、メガネ産地のPRに務めている。
今年100周年を迎える世界3大眼鏡産地の一つ福井ではあるが、若い人達に引継がれ、次の100年に向かって突き進むことを願っている昨今である。