No.10
ふるさとへの思いを語る

― 永年心に留めてきたこと ―


植 坂 行 雄


植坂 行雄(武高30会会員)
UESAKA, Gyouyu

 神山東小学校から市制施行に伴い武生西小学校へ転入し、同校を卒業。1952年武生第二中学校、1955年武生高等学校を卒業。1958年修道商科短大を卒業して、同年立正大学に編入し、1960年同大学卒業。その後教団内の機関、一般会社などを経て日蓮宗本部(宗務院)に勤務。1978年実相寺住職に就任。この頃より地域との関わりを強め諸役につく。1984年からは三浦地区保護司を、1987年から同市の人権擁護委員を務め、2011年瑞宝双光章を受賞。教団内でも教育関係機関の委員をつとめ、特に人権推進委員を永年担当した。2010年住職を退任、今日に至る。(神奈川県三浦市在住)



執筆の動機

 「私も書いてみたい」と思ったのは編集者から武高30会傘寿記念文集出版の通知を受け取ったときだった

 自分の人生の歩みの中で、すでに自ら選び、その責任を果たしてきたつもりなのに、分っているはずなのに、時々ふとしたきっかけから悔悟の念を伴って私を悩ますものがあるからである。それは「ふるさとを離れたこと」であり「親の期待に応えなかったこと」なのである。だがしかし、他人に話すのは気恥ずかしく、一方には罪悪感が見え隠れして、自分の意識の片隅にしまってきた。年を重ねた今、そんな悩みを整理してみたい。この思いはきっと誰かと共有できることではないだろうか。書く動機はそんな思いからである。


私の生い立ち

 私は武生市の町外れにある小さなお寺の長男として生まれた。しかし私の上には二人の姉がいた。その姉からは「あんたが生まれたのを父は大変喜んでいたんだよ。それだけ期待していたんだね」と、事あるごとに教えてくれていた。

 小学校5年の時、僧侶となるべく得度式を行い、僧侶としての自覚も次第に芽生えてきた。




 中学・高校の頃にはしばしば授業を早退して、方々の寺で行われる仏事や法要に出仕してきた。当時そうした行事や法要に侍者となる小僧さんがいなかったこともあって、しばしば声が掛かっていた。貧寺であっただけにそれは我が家の家計を支えることにもなり、自らの励みでもあった。さらにそれは、檀家や周りの人々の評判が高まることにも繋がり、後継者としての期待も高まっていった。

 18歳のとき、高校の卒業式を待たずに広島の大きなお寺の小僧となり修行生活に入った。その生活は今までのそれとは雲泥の差があった。立派な品々や便利な道具などがあり、住職の家族は裕福な生活をしていた。子供たちには家庭教師が付けられ、学業とともに習い事にいそしんでいた。

 一方小僧の私たちは、住職家族の身辺の世話や雑用、仏事法要と檀家回り、寺門内外の清掃などにあけくれ、夜は畑違いの短期大学に通っていた。

 仏教について学びたい。そんな気持ちが強くなり、二年余の小僧生活を辞して、やはり東京の寺を紹介され、随身として働きながら立正大学に学ぶことができた。私が小僧として入った寺もまた大寺であったが、大変好意的に接していただき、それなりの時間と自由を与えていただいた。お蔭で『現代仏教研究会』などサークル活動にも参加することができ、すばらしい友人との出会いもあり、今日の自分をかたち作った原点であるとともに、ふるさとを離れるきっかけでもあった。

 卒業後、教団改革の尖兵を育てるとの名目で作られた『日蓮宗布教研修所』に入所し、修了後は奉公任務として二年間、研修所の運営事務にあたってきた。

 その後、「これから今まで学んできたことをわが寺で」との思いで一たん帰ってはみたものの、そう甘くはなかった。まずは生活費を得るためにと、ある商店に就職してみたが、肌に合うものではなかった。

 悶々としていたとき、友人から「日蓮宗本部で職員を求めている。君には最適だ。是非出て来い」との誘いを受け、直ちに上京、新しく設置された「原水爆禁止世界立正平和運動本部」の職員として働くことになった。広島で小僧生活をしていた時、心を許してくれた被爆者の信者さんから聞かされた原爆のこと、苦しみや不安など、そして一年半後原爆症でこの世を去っていったこの人のことは、私の脳裏に強く刻み込まれている。この人のためにも、是非かかわっていきたい。そう思ったのである。

 時はちょうど、原水爆禁止運動の高まりとともに分裂の危機が起ころうとしていた時であった。イデオロギーや利害の違いで被爆者の思いや願いを分断させてはならない。そんな強い思いも手伝って熱心に教団内外でさまざまな活動にかかわってきた。

 だが、運動の分裂は教団内にも亀裂を生み、「赤」攻撃も激しくなり、宗教教団の持つひ弱さも加わって本部活動は急速に停滞していった。

 そんな時、縁あって結婚。その後新聞部に移動して10年ほど勤めをした後、現在の住居寺の住職となり33年間つとめあげ、平成22年息子に住職を譲って今日に至っている。


決断と現実の狭間で

 私の結婚前後、それは本当に大きな選択の時だったとつくづく思う。その頃より父がわずらい始め、体が不自由になっていった。更に母も体調を崩していく。寺(実家)に戻る機会も多くなる。多いときは毎月行くことも稀ではなかった。そんな時「長男は親の面倒を見るもの」という言葉が脳裏を過ぎる。いつか聞いた「親を捨て、檀家まで捨てたやつ」という陰口がよみがえる。辛い思いの故郷通いであった。

            ふるさとは遠きにありて思ふもの  
                         そして悲しくうたふもの 

室生犀星の詩に共感するのであった。また、

           石をもて追わるるごとく故郷を
                         出でしかなしみ消ゆる時なし

石川啄木の短歌にも相通じるのであった。

 昔は一般庶民に比べて僧侶は、その字のとおり家を出たものであり、妻帯を許されなかったことと、一般家庭の次男・三男が主に僧侶の世界に入っていたこともあって、寺や土地に縛られることは少なく、すこぶる自由であった。その寺に住み続けるのもよし、出世寺を目指すのもよし、また学問の師を求めて歩くのも許された。しかし、妻帯して家族を持つとともに、「長男が家屋敷を守り親の面倒を見る」という倫理観が、親孝行を説く仏教思想と相まって、私だけでなく広く人々の考えを支配している。

 『流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者』という仏の教えがある。恩愛を断つことの難しさと、真実を見つめ求める決意の中に親孝行もあり、愛してやまない『ふるさと』もあるように思える。とはいっても正直なところ何もわかっていない。理性と感情はバラバラで、自らの決断の裏で今なお迷い揺れているのが現実であった。


「ふるさと」を見つめると

 ふるさとを離れることを決断してから半世紀。時代も大きく変わっている。同じようにふるさとも大きく変わっている。有難いことに私の生まれ育った寺(実家)には有能な方が住職となり、寺門経営と檀信徒教化に当たって頂いている。「後の供養を頼むね」といわれた檀家の人もすでになく、私にはその方の後継者さえわからなくなってしまっている。その家も建て替えられて昔の面影もなくなっている。

 両親の墓参りをすると時間がかかる。お世話になった方々や、後事を頼まれた人々のことが蘇り、その人たちが眠る墓をめぐって手を合わせるのがこのところの慣わしとなっている。

 よく遊んだ思い出の川は暗渠になり、広い道路に沿って家やアパート・倉庫などが建ち、その間に田んぼが点在している。親戚を尋ねるとその周りには休耕田が目立つ。集落の家数も少なくなっていた。「百姓もおれで最後だな!」と呟いた主の言葉に胸が詰まった。その責任の一端は、ふるさとを離れた私にもあるのではないか?とさえ思われた。

 今日、職業選択も居住の選択も個人の自由との意識が定着してきた。子供たちに迷惑をかけたくないという親の考えと、経済的な豊かさも手伝って、親子別居世帯も増えている。

 「あの入江湾だけは残して欲しかった。昔を偲ぶ最後の土地だったのに!」。当地でも、ふるさとを離れた古老たちが、寺を訪ねて語る昔話である。昭和40年代、漁業の不振によって後継者がいなくなったことと、地域の活性化を図るためにと行われた埋め立て工事によって、地元の代表的景勝地で、子供たちの良き遊び場でもあったこの地がなくなっていったのである。もう半世紀も過ぎたのに、今なお、この話を持ち出されるのには困惑する。まさにふるさとを語る自分を見るようだからである。


 「今のこの景色が僕らのふるさとだよ。昔のことを言ったってしようがないこと。前を見つめて進むことが何より大事なのでは……」。若い人たちから言われて「そうなんだろうな!」と、渋々納得している今日この頃である。