No.11
若き日の懐かしい思い出

― 間一髪で間に合って今がある ―



上 田 順 也


上田 順也(武高30会会員)
UEDA, Junya

 1952年北新庄中学校、1955年武生高等学校を卒業し、法政大学経済学部に入学、馬術部で活動。翌1956年日本大学工学部に入学し建築学を専攻。1960年に卒業し、音響機器勤務を経てユニコン設計に入社。1965年にUターンし、福井の(株)アルス建築事務所に勤務。1971年に(有)上田順也建築設計事務所を設立し現在に至る。受賞歴:1997年日本建築学会優秀作・中部建築賞(鯖江市健康福祉センター)、1999年中部建築賞(鯖江市スポーツ交流館)、2005年日本建築士会連合会長表彰(於全国大会)。(福井県鯖江市在住)




 早や晩年となりました。若かりし高校時代を振り返ると、いろんな出来事が蘇り、懐かしい想いが胸に去来します。その幾つかをここに紹介することにします。

 珍しく雪のない16歳の冬のことです。風邪熱でうなされ寝ている場合ではないと、顔も洗わず、半里ほどの南越線北村駅へとひた走り、間一髪、電車に間に合いました。車中、日野川鉄橋を過ぎた頃に、目眩(めまい)で目が霞み、次第に朦朧として視界が暗くなり、そのあとは記憶がありません。

 気が付けば、武生高校(北校舎)の保健室。先生が「北新庄中学の友人たちが此処へ運んでくれました」と。当時の友人たちには本当にご迷惑をお掛けし、申訳なく、また大変お世話になりました。お蔭様で高校入学試験は、保健室にて受験することが出来ました。

 思えばこれが、その後の私の人生にとっての大きな第一歩でした。このときもし、熱を押して駅に駆けつけなかったら、もし電車に間に合わなかったら、もし中学の友人たちが近くに居合わせなかったら、その後の私は、まったく別の人生を歩んでいたのかも知れません。

 3年1組の夏、晴れて野球部が甲子園出場を決めました。学校も町の中も盛り上がり、ホームラン列車の臨時仕立てで、応援団として参加する事になりました。車窓を開けて暑さを凌ぎましたが、米原駅での停車時間が長く、喉が渇いたのでビールを求めてホームに。戻って来ると、既に汽車は出発したあとでした。

 駅舎で事情を話して証明書を書いてもらい、次の名古屋発の汽車に乗りましたが、中京商業高校の応援団で通路も満員。我慢の末、ようやく大阪に着き、ちょうどラッシュアワー中を電車に乗り換えましたが、下駄履きのランニングシャツ姿をジロジロ眺められ、もう朝から脂汗となりました。到着後、覚悟はしておりましたが、寛大にも無罪放免となり、試合結果は新宮高校に惜しくも敗れました。

 日頃下校のとき、北吾妻町の奥山俊一さん宅へはよく遊びに行きました。2階の彼の部屋には、自作のアマチュア無線機器などがところ狭しとばかり並んでいて、暇があると交信する様子を見ていました。彼は今も続けているそうです。音響にも拘り、当時、一般には12インチのスピーカーは珍しく、ダンピングの効いた音色で身体に伝わりました。

 私はその影響を受け、徹夜で雑誌の製作用回路を真似て、並四ペントードを自作しました。これが始まりで、後に在京中、秋葉原のパーツ専門店へはよく通うようになりました。

 当時、教室での隣の席は、気骨のある内田正次郎さんで、時々「赤旗」を熱心に読んでいました。好奇心で横目で見ていましたが、たしかスターリンの死後、マレンコフ首相の時代であったことを微かに思い出します。私が鯖江へ転居したのが昭和43年、それ以来、時々彼に会いますが、今は「赤旗」など見た事も聞いた事もないほど、変化しました。おそらく彼自身も、若き日の一時期の好奇心からだったのでしょう。彼は雄弁家で、リーダシップもあり、3年生の前期には生徒会長を勤め、特に前述の応援団には情熱を注ぎました。

 授業風景をひとつ。3年1組の担任は、独特の風貌で威厳のある数学の岩永照夫先生。ところが大の愛煙家で、教室でニコチンが切れると禁断症状気味で、我慢出来ずに火を付けるなど、何とも言えぬ風情のある先生でした。

 黒板に過去の大学入試問題を書き、「誰か出来るか?」と問いかけ、自信のある者は手を上げて黒板に向かいますが、段々とハードルを上げ、誰も手を上げる者が居なくなると、最後に江尻正員さんが指名され、彼の出番となるのが常でした。

 彼のホームページを見るとさすがです。日本ロボット学会会長のほか、イリノイ大学などの客員教授や講師を務めたり、また専門著書も多数あるなど、現役時代に活躍をされた上、更に退任後も社会貢献に余念がありません。

 さて私自身は、大学卒業後、何故か横道へ曲った末、1971年に事務所を設立。業務の変遷について言えば、それまでコンピュータには無縁でしたが、オイルショックの1973年に、驚異的だった電電公社のDEMOS(Denden Multi-Access Online System)を導入。テキスト入力鑽孔テープを電話回線で送信し、一括処理してセンターから計算結果をプリンタで受信するというもので、事務所では構造計算専用で約1/10くらいに時間短縮出来ました。

 ところがパソコンなるものが出現し、此方へ転換しました。最初は処理速度が遅く、タバコを咥えて待っていました。また最初のCADは玩具同然。スタッフからは所長の道楽だと揶揄されました。しかし徐々に進化して今では一般化し、これが無いと仕事になりません。

 今まさに現役中ですが、この文集の執筆であの頃のことをとても懐かしく思い出し、これでまた明日からの元気に繋がります。
 ― 以上 ―