No.13
ある恩師の思い出

― 出会い・無沙汰・再会・そして別れ ―


江 尻 正 員


江尻 正員(武高30会会員)
EJIRI, Masakazu

 1952年武生第一中学校、1955年武生高校、1959年大阪大学工学部を卒業。同年日立製作所入社。中央研究所にてロボット工学・画像処理などの研究に従事。工学博士。2003年同社技師長を最後に退任。この間、人工知能ロボット、全自動半導体組立装置、気象衛星画像解析システム、自動現金取扱い装置(ATM)、新型郵便区分機などの研究開発を指揮。またイリノイ大・東大・東工大・早大・電通大・北陸先端大・福井大などの非常勤講師・客員教授や、国際パターン認識連盟の副会長・日本代表理事、日本ロボット学会会長などを歴任。機械振興協会賞、日本産業技術大賞、エンゲルバーガー賞などを受賞。アメリカ電気電子学会(IEEE)のライフフェロー。著書は、「人工知能」(昭晃堂)、「工業用画像処理」(昭晃堂)、「ロボット工学とその応用」(電子情報通信学会)、「Machine Vision」(米国 Gordon & Breach社)など多数。現在は、国際パターン認識連盟(IAPR)の諮問委員や、市の政治倫理審査会の委員を務めている。(茨城県つくばみらい市在住)



はじめに

 幸いなことに、私には人生での恩師が人一倍多い。勉学の場でお会いした諸先生をはじめ、その後の研究者生活で知遇を得た国内外の学界の先生方である。でももう殆どは他界され、今では私の心の中だけに実在する。ここでは、多感な青春時代を過ごした母校武生高校で、私たちの若い血潮をたぎらせてくれた一人の恩師について、思い出を綴ってみたい。


文集「鬼手佛心」の記事

 この恩師とは、南校舎での高校生活で初めて出会った1年4組の担任 斎藤敏男先生である。私たちにはとても新鮮で、正義感溢れる先生として映り、いつしか深くその人柄に引き込まれて行った。授業では人間としての基本哲学を教わり、課外活動では剣道の精神に触れさせていただき、休日には日野川での鮎獲りに連れ出してくれたりした。後年、先生が尊敬されていた福井循環器病院初代院長の文集「鬼手佛心」(1996年)に手記を寄稿されたが、その中にどういうわけか私のことも書かれている。以下はその一節である。

……彼からの平成7年の賀状に、国際会議での活躍ぶりが述べられ、「今年はスエーデンから招待を受けて、6月に英語で講演の予定です」と添え書きがされている。とてつもない巨木。私にはもう何も見えない。その彼が、私に対しては、高校生当時そのままの姿勢で接するのである。ある年、同窓会に出席できないまま、担当していた教え子一同に一文を贈った。翌日、早速彼から電話が掛かってきた。「先生お元気でしょうか。贈って下さったあの手紙、私が戴いてよろしいでしょうか。家宝にしたいんですが。」 …… (後略)


寄せられた一通の手紙

 この同窓会とは、平成6年(1994年)に芦原温泉グランディア芳泉で開催された第5回30会のことで、このとき斎藤先生から、旧1年4組のメンバー宛てに一通の手紙と清酒が届けられたのである。この家宝にしたいという手紙には、先生から見た私たちへの思い出が書かれていて、私個人としても気恥ずかしい内容が含まれてはいるが、あえてここでその全文を紹介する。
旧1年4組の諸君、元気かね。

@ 謝ることしか能のない担任
 「今日も掃除がしてありません」、「朝、私の授業への出席者が大分少ないんですが」、「私、先生のクラスの授業にはもう行きません」、「何かあったんですか」、「宿題を出すと江尻が真っ先に、わあっ難しい、とても出来んわって言うんです。すると他の者が一斉に江尻に出来んものは僕らに出来るはずがないと騒ぎ立て、とても手に負えたものではありません」、「昨日直したのにまた壊してしもうた」。指導部・学科主任・校務員たちから次から次へと苦情が持ち込まれ、その都度「済みません」と頭を下げる以外にあまり能の無い新任早々のクラス担任であった。出欠調査、学校からの伝達まで殆ど江尻君の手を煩わせた。こんな担任でも皆よく慕ってくれた。
 朝礼の出席者が少ないという指導部からの連絡を受けて巡視をすると「おーい、斎藤先生だ」という声がして、今まで隠れていた者が続々と姿を現す。当直の夜はいつも宿直室が満員。12時近くになっても帰ろうとしない。「親が心配しているから」というと「今日は親の了承を得ています。先生心配しないで下さい」という。こんなに慕われ、担任の冥利に尽きる。

A 溢れる友情
 「先生、福ちゃん、盲腸炎なんです」。私が病室を訪れるときは決まって数名が先に見舞いに来ていて、友情の花は病室に薫り、快方に向かってからは、授業内容が逐一伝えられているようであった。

 「○○君(筆者注:ここでは名を伏す)は滅茶苦茶な生活をしているんです。両親は僻地赴任で妹と二人暮らしですが、自分で養っていた豚(筆者注:級友の話では、実際は山羊だったらしい)を殺して食べる始末なんです」。欠席の多い友人を案ずる言葉にも友情が溢れていた。そしてこれが私の家庭訪問の契機となった。

B 個性豊か、クラスはあらゆる点で抜群
 その後あれほど多彩なクラスをみたことがない。各人は自己の天性に従って高校時代をよく生きた。一同は江尻君をクラス代表に選出。彼は病死した妹(筆者注:先生の思い違い、実は弟で事故死)の写真を常に胸のポケットに納めながら将来為すあるを期した人物で、とくに企画力・実行力に勝れていた。だがいわゆるガリ勉型ではなく、また豪傑肌でもなかった。しかし卓越した包容力・指導力を備えていた。我が1年4組はすべての面で優秀だったがガサツのきらいがあった。それを看取して百人一首をクラスに普及させるなど、彼の配慮は高校生の域を脱していた。そして一同はよく彼を助け、彼のもとに団結した。クラスは常に生き生きとしており、あらゆる面で抜群であった。

C 秋の体育祭
 断然トップを走っていた前川君は2位との差があまりに大きいままに振り向き振り向き、ついにラインをオーバーして失格。こんな椿事にも拘わらず、競技は全校45クラス中第1位。応援の作り物は全校第3位、しかし1学期の体育の成績は全クラス中最下位。2学期の職員会議で「体育祭第1位の体育成績が全校最下位とは納得できない。学科成績が劣るとも到底考えられない。体育は一体どんな採点をしているんですか。掃除をサボることと因果関係があるんですか(体育の先生は掃除の係りを担当)」と抗議。第2学期の体育の成績は平均で30点近く良くなったと記憶している。

 「先生、先生のクラスはよく勉強するんですね。今度のテスト、他のクラスより平均点で30点も良いんです。私、先生のクラスへ行くのが楽しみになりましたわ」とは、先に「先生のクラスにはもう参りません」と抗議したI先生の後日の言葉。(筆者注: 実は、もう一人の恩師、数学の石橋智恵子先生のこと。当時は不本意ながら多大のご迷惑をお掛けした)。

 諸君の高校生時代、それは教育の、また社会の大変革のあとを受けて、民主主義追求の気風旺盛なときであった。物質的には今ほど豊かではなかったが、諸君は「活気ある良き高校生活」を生きたのではなかろうか。そして私は「最も恵まれた担任」であった。

 先に述べた前川君ももうこの世にはいない。教え子が鬼籍に入った知らせを聞くほど辛いものはない。愛する旧1年4組の諸君、自愛されるよう心から祈る。粗酒一献。……


初めてお宅を訪問


 しばらくしてこの斎藤敏男先生が、私に会いたがっておられるとの情報が、級友の萩原與市君からもたらされた。早速彼と連絡を取り合い、何人かの級友とともに福井市の先生のお宅に伺うことにした。

 それまでは年賀状と、私の執筆した論文・随筆・著書などを時折送る程度で、ここ30年近くお会いしたことがなかった。前の年の電話では、元気な声で「私は江尻君に会うまでは死なんからな」と笑いながら言われていた。こう言われると、先生の長寿のためにもあまり早い機会に会うのは遠慮しようという気持ちが多少出てきたりして、いつもながらの忙しさに紛れ、無沙汰が続いていた。この冬体調を崩されたとのことで、剣道で鍛えられた身とは言え、少し弱気になられたかなとも推察し、初めての訪問が実現したわけである。

 玄関に迎えに出てこられた老師の満面の笑みを30年振りに見て、40数年前の高校時代のいろいろな出来事を一気に思い出し、胸が熱くなるのを覚えた。早くして奥様を亡くされ、3人の娘さんを男手一つで育て上げられたという経歴からか、先生の温顔の背後には、揺るぎない不屈の精神がたぎっているように感じられた。一人暮らしで、かなり不自由な生活と拝察されたが、血色も良く健康そうに見受けられ、一安心した。


 剣道家らしく、宮本武蔵の五輪の書から命名された「五輪の庭」は、先生自身の手に成る石庭で、泰然自若の趣があった。先生は、その中にも動と静を見るのだと熱く語られた。越前焼の壷をこよなく愛され、部屋に並べられた無数の壷の一つひとつには、先生の好まれる人々の名が付けられていた。時折この部屋で壷と向き合い、会話をされるという。


 ところがその中に、一つだけ異質な金属製の壷が置かれ、花が活けられていた。私が学位取得の記念として30年も前にお贈りした壷で、その前には、私が折に触れお送りした手紙・論文・著書などが整然と置かれていた。師が弟子を見つめてくれる愛情の深さを改めて知り、感涙を禁じ得ず、それまで長い間無沙汰をしていたのが悔やまれたものである。級友たちとも合議し、次回の会合日も設定したが、その日を待ちきれず、この年の夏、今度は妻を連れて先生宅を訪問し、再度歓談することができた。

 そしてこの後に戴いた妻宛ての葉書には、「二人お揃いでお越し戴き胸に応えるものあり、早速枚方在住の長女に話しました。少しでも長く引き留めたい本能からでしょうか、喋りまくってご免なさい」とあった。

 そしてまた、私が送った別の手紙に対しては、「江尻君からの便り、生きていて良かったと、いつもそんな感動を与えてくれます。早速長女に報告。お父さんは仕合せですねと、家族にまで喜びを与えてくれます。繰り返し、繰り返し読みます」とあった。


恩師との別れ

 ある日、級友の斎藤星次君から手紙が来て、「先生の具合があまり芳しくない。我々もその時を覚悟しておく必要がある」との連絡。ほどなく再度手紙で「身内の方から、先生に万一のことがあればどうしたらいいか分からず困っているとの相談があった。そのため娘さんたちには、先生から何かを言われても『はいはい、分かりました』とお答えするよう指示し、いざというときには山口一善君に連絡すれば彼がちゃんとやってくれるから安心するようにと言い、山口君にもこのことを頼んで了解を得た」とあった。彼は心配になって山口君と二人で病院を訪ねたが、意外とお元気な時間帯もあって少し安心したし、娘さんとも会い、万一のときの相談も完了したとの連絡を受けた。


 この斎藤敏男先生の逝去の報が入ったのは平成16年(2004年)2月に入ってまもなくのことだった。脳梗塞がもとでかなり前から入院を余儀なくされ、その後リハビリに精を出されていた。福井大学での講義などで帰郷する機会に、何度か病院に見舞い、元気な姿を確認してはいたが、忙しさにかまけてしばらく無沙汰であった間にこの訃報に接し、愕然とした。

 早速、雪の福井へと向かい、級友たちと一緒に通夜に列席させてもらった。その席で先生の近所の方というご婦人から「江尻さんですか」と声を掛けられた。「生前、先生から江尻さんのこと、一杯聞いて知っています」とのこと。少し気恥ずかしい感じではあったが、先生が私を応援してくれていた熱い想いを知って感動した。


 この通夜の際、遺言により、翌日の葬儀は献花だけの型破りなものとなるらしいことを初めて知った。葬儀の正常な進行が危ぶまれたので、級友と相談し、翌日までに3通の弔辞を準備することとした。私は列席者の最初に弔辞を読ませていただき、次いで斎藤星次君、山口一善君と進み、大阪在住の松谷善雄君からファックスで送られてきた弔辞も山口君が代読した。すべての弔辞が終わった後、先生の遺言に従い、お通夜のときと同様に皆で武生高校の校歌(旧制武生中学校校歌)を霊前で歌わせていただいた。

 実は生前に、葬式にはこの校歌を流せとの先生のご指示があり、そのため私たち級友は、先生のお宅に伺ったときに先生も交えて皆で合唱し、テープに録音していた。しかし、いざその日を迎えると、その録音テープがどこに保管されているのか誰も分からない。結局は、他の参会者に事情を説明し、列席した同窓生だけで合唱するという前代未聞の葬式になった。その昔、先生の宿直の夜に皆で学校に集まり、ストームと称して、先生と一緒に夜の校舎を高歌放吟して廻った情景が沸々と思い起こされた。

 葬式のあと、先生の長女 月安和子さんへの手紙に、改めてのお悔やみの言葉に加え、先生との幾つかのエピソードを書き綴った。その返事には下記のようにあった。
「先日はご丁重なお便りを戴きまして大変有難うございました。早速父の霊前に供えさせていただきました。同封いただきました資料なども私たち姉妹3人で読ませていただき、驚いております。私たち娘には大変厳しく頑固でしたが、江尻様のご活躍を話してくれるときの、普段は見たことのないような笑顔で得意気に語る姿が、今では懐かしく思い出されます。父の健在のときには分からなかったことを、今いろいろと知って、私たち出来の悪い娘たちも大変誇りに思っております。墓所が決まりましたらお知らせ申し上げます。暑さ厳しい折、どうぞご自愛くださいませ。」
 そして斎藤星次君からの手紙で、先生が前々年の夏に予定されていた会合を心待ちにしておられ、入院前にどうやら記念の品を準備されていたらしいことを知った。程なく手元に届いた桐箱には、3人の娘さん連名の手紙が添えられ、「父の残した品々を整理しておりましたところ、皆様方へお届けする積りで準備していた越前焼の壷が残されていました。父の遺志を叶えてやりたいと思いますので、ここにお届けさせていただきます」とあった。さらに生前に書かれていた先生の挨拶状も添えられていて、そこには日野山麓の祖母の家で過した少年時代の思い出とともに、「越前焼は百姓の生活に密着した文化、ベト(筆者注:越前地方の方言で土、泥土のこと)の文化である。この越前焼を私は、自分を見る思いでこよなく愛してきた。今まで心温かく接して下さった方々に、この小品を真心込めて贈ります」とあった。



墓前での対話

 1年後、墓が完成したという月安様からの連絡を受け、ある日、大阪での用件を済ませた後、一人で枚方の霊苑に向かい、ひときわ目立つ立派な墓を見つけた。生前の先生ご自身による「大宇宙」と揮毫された懐かしい筆跡がそこにあった。何がしかの花と線香を手向け、ひとしきり会話ののち、そっと立ち去った。後日、月安様から手紙を戴いた。そこには
「わざわざお時間を割いて父の墓参をして下さいましたこと、感謝の気持ちで一杯です。父も久し振りにお会いできまして大喜びをし、目を細めて微笑んでいる様子が目に浮かびます。きっと嬉しさと懐かしさ、またご活躍の様子をお聞きして、大感激だったと想像しております。江尻様は私たちにとって父の生きてきた証だと思っております。どうぞお身体に気をつけられ、益々ご活躍されますよう祈念しています」
とあった。
 また斎藤星次君からは「先生の墓石と碑文字の写真、有難う。広々とした墓苑に大宇宙の文字が映え、娘さんたちの父を憶う心が綺麗に表現されているように感じます」とあり、「それにしても、我らの級長、墓参りに行かれるなど、やっぱり尊敬してしまいます」との言葉があった。彼は今でも、ときたま私のことを、高校1年生のときのままに級長と呼んでくれる。でもこのところ会う機会がない。


おわりに

 思えば斎藤先生は、研究者としての私が窮地に陥ったときなど、原点に立ち返って新しい一歩を踏み出す勇気、困難な課題に果敢に挑戦する勇気を思い起こさせてくれた心の恩人。先生の葬儀のときの私の弔辞の最後の部分をここに再掲し、改めてご冥福を祈りたい。(筆者注:弔辞の全文についてはここを参照)。
「斎藤先生、天国でも五輪の庭を造って下さい。私たちもいずれはそちらに行きますので、そのときにまた皆で集まって、そのお庭でわいわいやりましょう。」
 そして私たちもすでに傘寿の歳。お会いできる日もそう遠いわけではない。