No.14
私の一茶考・良寛考

― 江戸時代後期に花開いた文芸 ―


大 坂  弘


大坂 弘 (武高30会会員)
OSAKA, Hiroshi

 1952年花筐中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年4月日本専売公社に入社。1998年日本たばこ産業(株)退職。俳句は60歳から始める。句は白魚火に投稿、この間、磐田市長賞を受賞。作品は合同句集「槙」に掲載。現在は磐田句会、袋井句会に出席し、句作りを楽しんでいる。(静岡県磐田市在住)




はじめに

 1600年、関ヶ原の戦いが終ると戦国時代が終わりを告げ、平和な時代が訪れた。戦争に明け暮れた人々も、生活は落ち着き文化の興隆も盛んになった。これは徳川政権が学問や文学を奨励したことも、その一因となっている。林羅山が朱子学を、中江藤樹が陽明学を広め、歌舞伎・人形浄瑠璃が起こり、庶民の間で俳句・短歌が流行し、また物語・小説も盛んに読まれた。  


俳諧の勃興


 この時代、細川幽斉が歌道を、松永貞徳が俳諧を広めた。松尾芭蕉、与謝蕪村は俳諧を芸術の域にまで高め、多くの人を惹きつけた。封建的身分制度のもとでは、人々は拘束され自由を奪われていたが、文学は心を開放する。俳句や短歌を作り、同好者が集まり、これを鑑賞して楽しむことで、身分を越え、同じ人間として自由に意見を交流することが出来る。これが中世的身分制の崩壊に繋がっていく。自我の確立はこうして文学から深耕されてきた。江戸末期に、彗星のごとく現われた一茶と良寛は、近世から近代への橋渡しをした文人である。


小林一茶について

 小林一茶(1763〜1827)は宝暦13年5月5日、信濃国柏原にて生まれた。江戸時代後期の俳人で通称、小林弥太郎という。3歳で母を失い、8歳のときに迎えた継母とは不和で、15歳のときに江戸へと奉公に出ていつしか俳諧をたしなむようになり、小林竹阿・溝口素丸に師事。享和1年(1801)の父の没後、継母と遺産を争い、その後和解により遺産は二分される。52歳で妻帯、子も生まれたが妻子ともに死去。後妻を迎えたがすぐ離別し三度目の妻を迎えるなど、家庭的に恵まれず、文政10年(1827)、類焼の厄に会い、土蔵に起臥するうちに、文成10年11月19日、中風を発し死亡する。

 一茶は、庶民的で率直、飄逸な性格が作品に独特の人間臭を与えている。作品は「おらが春」ほか多数あり、句は2〜3万句に及ぶという。「今迄は踏れて居たに花野かな」。溝口素丸のもとで修行した一茶が、46歳の頃に詠んだ句である。「今までは人が歩いて踏まれてばかりだったのに、そのことが嘘のように、秋の花が咲き乱れる野となった」。花野は秋の季題であり、春野ではなく秋野を指していたところに淋しさが滲み出ている。もちろん自分自身を回想している句でもある。

 「雉鳴いて梅に乞食の世也けり」、一茶29歳の頃の作品で、「寛政3年紀行」に記載されている。当時は江戸にも田舎にも乞食がいたるところにいたという。春になれば余計目立つ。「梅が咲き雉が鳴いて春が来た。『おこもさん』もぞろぞろ動き始めたわい。それにしても多いねぇ、乞食の世だねぇ」。一茶は乞食を単に景色の中のものと見ているわけではなく、自分もその一人として見ているのである。「秋の風乞食は我を見くらべる」。街角の乞食が自分と我を見比べて、どっちが乞食らしいか、といった面をしてやがる、という句である。「寛政3年紀行」は一茶45歳くらいのときに書かれたものといわれているが、「一茶」の謂れについてこう書かれている。「西にうろたへ東にさすらふ、一所不在の狂人有。あしたには上総に喰ひ、夕には武蔵にやどりて、白浪のよるべをしらず、たつ泡の消えやすき物から、名を一茶坊といふ」。

 一茶の数多い句の中から、代表的な句を以下に挙げてみる。

       我と来て遊べや親のない雀
       南天よ炬燵やぐらよ淋しさよ
       春たつや菰もかぶらず五十年
       やれ打な蠅が手をすり足をする
       目出度さもちう位なりおらが春


良寛について

 良寛(1758〜1831)は、橘屋(屋号)の長男として越後国出雲崎に生まれた。父、橘新之助(俳号以南)は出雲崎の町名主で23歳。母は橘庄兵衛の娘のぶ、24歳。俗名を橘栄蔵といい、良寛という名は、22歳の時、所用で出雲崎に来た円通寺住職大忍国仙の授戒によって出家し、大愚良寛の法号を授けられたことによる。

 相馬御風(詩人・評論家・新潟県生まれ)は、「国を隣にして生まれ、65年間も同世に生きてきた良寛と一茶が、生前ついに一度も遭う機会を得なかったことは、むしろ不思議である」と述べている。

 一茶が柏原に帰住したとき、良寛は56歳で国上山の五合庵にいた。一茶の記録に良寛の父以南のことは出てきても、良寛については一切触れられていない。一茶は、権威には近寄らない癖があった。良寛は、能書家として、また歌人として知られてきた。そこを一茶は拒んだのではないか。まして良寛は禅坊主である。俗気の多い一茶が良寛に逢うのを拒むのは当然のように思われる。

 良寛の履歴を少し述べてみよう。良寛が生きていた時代、徳川幕府体制が弛み始め、全国各地で騒乱・暴動が頻発するようになってきた。当時の主な出来事を幾つか拾えば、田沼意次老中となる(賄賂の横行)、天明の大飢饉、松平定信の倹約令、平賀源内の獄死、伊能忠敬の全国各地測量、本居宣長古事記伝を書く、上田秋成の雨月物語など大改革・大異変が続き、一方で秀でた文学が生まれた。

 良寛7〜15歳の頃、三峰館にて勉学し、このころ書道・歌道を修業した。18歳の頃、自ら剃髪して全国を放浪する。22歳で出家し、良寛と呼称し、玉島の円通寺で修行する。28歳、大而宗龍に教えを受ける。38歳のとき父以南が京都で自殺。39歳円通寺を辞し帰郷し、約10年住所不定で各地を転々とする。48歳で国上山の五合庵に定住。59歳で国上山の乙子神社境内の草庵に移住し、以後10年定住する。69歳のとき国上山を離れ島崎の草庵に入る。70歳のとき30歳の貞心尼が初めて良寛を訪問。73歳の7月15日、盆踊りに出て徹夜で踊り通し、体力を極度に消耗する。74歳の1月6日没。

 「炊くほどは風が持てくる落葉かな」、良寛60歳くらいのときの句と思われる。五合庵に居た時の句であろう。秋ともなれば落葉が落ち始め、山のいたる処に落葉がいやというほど積もっていく。拾いに行くほどのこともない。我々凡人は、雪が降ったらどうなるかなどと、要らざる心配をする。しかし良寛くらいになれば泰然自若として一切を仏に任せるという境地であろう。飯を炊くのに必要なだけ拾ってくればよい、拾わなくても風が運んでくれるではないか。この句はそういう心境を述べたものであって、実際にそういう生活をやっているのではない。秋になればやはり薪の用意をしておかなければ冬は越せないだろうし、味噌くらいは買いだめしておかなければ生きては行けまい。

 しかし良寛は、基本的にはその日暮らしである。他人の善意を受けて生活をするというのが信念である。僧侶はそういう生活が本来の生活である。ところが実際の寺院は、信者から財の寄進を逼り、これを備蓄し、高利貸までやっている。良寛はこれを嫌って住職になることを拒んで放浪者となった。

 貞心尼が初めて良寛を草庵に訪ねたのは、良寛70歳、貞心尼30歳(1827)のときであった。貞心尼と良寛が師弟関係を結んだ期間は3年余。しかしこの短い期間が、良寛にとっても貞心尼にとっても最も充実した輝かしい時期でもあった。貞心尼は良寛没後も長く生きた。死んだのは明治5年である。良寛は能書家であり、歌も大変旨かった。貞心尼は良寛との交流で多くの良寛の書や文を持っていたが、良寛死後、それらは友人知人に分け与えられたという。死に臨んで最後に唱和されたのが、
 「生き死にの境(さかい)離れて住む身にも避(さ)らぬ別れのあるぞ悲しき」貞心。(生死の迷いの闇から離れて住んでいるはずの仏者の身にも、どうしても避けられない死別のあることが、悲しい)。

 「裏を見せ表を見せて散る紅葉(もみじ)」良寛。(裏を見せたり表を見せたりしてひらひらと軽やかに散っていく一片の紅葉のように、貞心尼よ、騰々として天真に任せよう)。
 この句は一般に良寛の句のように思われているが、そうではない。これは良寛が死に臨んで自然に口ずさまれた言葉で、別れを嘆き悲しむ貞心尼への思いやりの言葉である。

 良寛と貞心尼は、当初は歌道を介しての師弟関係であったが、良寛70歳とはいえ、当然恋愛関係へ移行したであろう。そしてそれが純化されて、純愛というか聖愛というか、人間関係で最も美しく尊い関係になったものと思われる。

 手毬突く良寛、日本人として最も親しく愛されてきた坊さん、代表的な日本人の一人と言えるのではないだろうか。現在でも忘れてはならない人であると思う。


おわりに

 最近、俳句や短歌をやる人が少なくなっている。これは日本の伝統的文化の衰退であり、非常に残念なことである。俳句は17文字、言葉を五七五の三節に分けて、その中に季語を一つ入れておくというだけのシンプルなもの。季語は春夏秋冬と正月の五つに分かれているが、生活の中で識別できるものゆえ、難しく考えないほうがよい。とにかく作ってみることを勧めたい。