No.18
我らが少年であった時代とは

― 高校時代の思い出 ―



斎 藤 星 次


斎藤 星次(武高30会会員)
SAITO, Seiji

 旧姓神門。1952年王子保中学校、1955年武生高等学校を卒業。1997年福井大学教育学部2部終了。同年大野郡和泉村小学校教員となる。1960年武生市公立小学校・中学校の教員となる。1970年福井大学附属中学校の教員となる。1975年県立高等学校の教員となり、1987年から約10年間、武生高校に奉職し、1997年定年退職。その間、1963年斎藤悠子と結婚、1男を設けるも妻は1997年に他界。以後、義母と暮らし、現在は老老介護の身。(福井県鯖江市在住)




敗戦前後の状況

 1945年の夏休み、小学3年だった私たちは、大日本帝国が負けたことを知ったが、大人たちが大騒ぎするほどの大事とは思わなかった。私たちの暮らしが悲惨だったことは、それ以前から、またそれ以後もずっと続いていたからである。

 空襲の被害もなかった丹南地区は、割合のどかなものであったが、大阪から父の故郷の旧王子保村に疎開してきた私は「都会のお粥腹」と軽蔑され、小学6年を終えるまで何かにつけていじめられた。

 敗戦直前の昭和20年4月に、大阪の梅田から逃れる時、その地下鉄の構内には、うす汚れた少年少女たちが群れているのを見たが、彼らがその後どうなったかは知らない。ただ私は幸運にも両親に伴われて、安全な田舎に逃れることができたのである。その後の10年間は貧乏な暮らしが続いたけれど……。


戦後の貧しさ

 戦後の貧しさについては、日本中がそうであったと言うけれど、貧乏の中味については人それぞれに違ったのは言うまでもない。新制中学を終えて、高等学校に進学できたのも、勉強ができたからではなく、貧しい中からどうにか進学させてやろうと考えた両親のお蔭と言うほかはない。正直、私よりはるかに勉強もでき、本人も進学する気満々だった人が、中学の担任の説得も空しく、そのまま工場に働きに出されると言う例はたくさんあった。特に女子にそれが多く、東京だか大阪だかへ女中に出され、2年もしないうちに自殺してしまった人もいた。

 高校以前の小学校3年から中学卒業までの6年間の思い出と言えば、いつもひもじい思いをしていた事と、足元は下駄と草履で、冬季に靴下なんぞは無くて手足はいつも冷たかった事くらいであろうか。


高校生活

 高校入試はアチーブメントテストと言われるもので、内容は一つも覚えていない。当時武生高校には、普通科・商業科・工業科・家庭科(女子)・定時制・池田分校などがあり、全日制は、定時制と校舎を共用していた。

 昭和27年(1952年)の4月に私達は入学したのであるが、当時の母校は南校舎(旧武生高女の建物)に1年と2年の普通科の一部が学び、北校舎(旧武中、現東小学校)に2年の大半と3年が学んでいた。その為、入学式・卒業式・体育祭・文化祭・生徒総会などの行事があると、その都度南校舎の連中は、本校の北校舎まで、その間2キロあまりをぞろぞろと歩いて行かねばならなかった。

 入学したばかりの私は、そういう集まりの中でも生徒総会というのに、本校から3年生が青竹を持って、1年生を狩りたてるようにやってくるのに腹をたてて、逃げ帰ってしまった。後で3年生からリンチをくらうという噂が広まったが、鼻っ柱の強かった私は「来るなら来てみろ」と構えていたけれど何ともなかった。

 私は、先述した通り大阪から疎開してきた一家の一人であり、両親はそれぞれに体験したことのない農業をやり始めたばかりであった。従って私は、我が家にとっては重要な労働力であった。私に限らず、農家の出身者は誰もが農作業をやったし、15〜6歳ともなれば皆一人前の働きをした。

 しかし、我が家の場合、全員「にわか百姓」であったため、その苦労は並大抵ではなかった。ブヨに噛まれて顔を腫らして田の中を這いずり回っている母の姿を思えば、学校行事なんかさっさとサボって母の手伝いに田んぼへ出掛けることなど、私にとっては平気のきわみ、何の苦も無いことであった。

 当時は、戦時中の暴力的な制裁とかリンチなどの名残りもあった学校生活であったので、生徒同士のいざこさに殺気立った雰囲気になることも多々あった。

 先輩の中には、日野河原でナイフで決闘して、警察沙汰になった者もいたらしい。幸運にも私の3年間には、そういうことが無かった。これは私が臆病であったせいでもある。鼻っ柱の強い割には、そういう災難を避ける術に長けていたということか。

 
柔道の思い出

 家での農作業の手伝いに忙しい毎日であったが、高校の3年間は柔道の練習に明け暮れた。1年のときは、学校の部活動に参加せず、当時武生署と鯖江署の警察で柔道の師範をしておられた永田礼次郎先生の元で指導を受けた。

 この永田先生は、終戦まで秋田県の横手中学校の師範をしておられた方で、中央大学在学中から、講道館にその人有りと知られた有名な人物である。ご子息に私より2年先輩の永田優一郎さんがおられ、そのほかの先輩方と共に武生署・鯖江署の道場で稽古をやった。同学年には、谷崎・前田・田辺・山口(敬称略)などが居て、ぞろぞろ永田師範の後にくっついて二つの警察署の道場で稽古をやった。

 2年になって、橋本亮二先生が武高に赴任して来られ柔道部の指導をされることになったので、永田師範の説得に従い、谷崎以下の5人がごそっと入部した。因みに橋本先生は北大の柔道部の猛者であり、県大会の優勝者でもあったから、警官と組んでも負けなくなって、いささか天狗になっていた我らを、まるで赤子の手をひねるが如く投げ飛ばして鍛えて下さった。そのお蔭で武高の柔道部は対外試合でも負けなくなった。当時県下で最強だったのは敦賀高校だったが、武高は準優勝するまでになった。練習は厳しかったが毎日は充実していた。

 楽しかった思い出としては、2年と3年の夏休みの学校での合宿があった。期間は1週間ほどで、練習はつらかったが、その期間中、家庭科の山口妙子先生の率いる女子生徒の仲間が、炊事・洗濯の世話をして下さった。普段、登下校時や校内などで女生徒とすれ違うことがあると、決まって彼女たちから「汚い」とか「臭い」とか呟かれる我々の、本当に胸躍る時間であった。わけても彼女たちの手になる食事のなんと美味であったことか。あんなに旨いトンカツやカレーを食したことなどはかつて無かった。豊頬の美少女たちのお給仕付きで……。

 因みに柔道で強かったのは2段の谷崎と初段の前田の二人である。彼らは公式試合で一度も負けたことが無かったはずである。後に続く、田辺、山口、私も初段の試験に合格して、対外試合などで5人の黒帯がずらっと並ぶと、なかなか壮観なものであった。

 
忘れられない担任 斎藤敏男先生
 
― 先生の思い出 @ ―

 高校3年間で習った先生方の中で、当時心から尊敬し、卒業後もその念が変らなかった先生は、そんなにはおられない。中でも入学当時、相当野蛮な悪童の多かった1年4組の諸君の人格形成に大きな影響を与えて下さったのは、担任の斎藤敏男(旧姓 佐久間)先生である。

 この先生の人となりについては、この文集において、当時の級長の江尻君が詳しく記している。それと多少重なる点もあるだろうが、私もここに、幾つか想い出を記してみたい。私自身、この先生と同じ職に就いた関係上、教育界の事情を知るに及んで、斎藤敏男先生の如き、自身の昇進とか名聞とかに全く関心を示さなかった人も珍しいと言える。

 余談ながら、教育界に関係の無い人から見れば、優れた先生とは管理職とか教育行政職とかに携わる人物というふうに錯覚するかも知れないが、教育者に不可欠な要素としての高潔なる人格、教え子に対する溢れる程の深い愛情(=絶対に子ども好きであること)、豊かな知性、真理や真実に対する謙虚な態度などの点において、誰よりも勝っている人々が彼らであるとは言い難い。むしろ、それらの徳目にいちばんかけ離れた存在に見える人物が、その地位についているが故に、問題が多発するのでる。

 江尻君も斎藤先生との思い出の中で書いていたと思うが、生徒の自主性とか自発性のようなものを尊重しておられ、彼らの成長にとって不必要なもの、あるいは疎外するような強制については、すべて無視するような担任であったと思う。

 その例を一つ挙げるなら、学年当初の集会の時、47名が整列する筈の1年4組の列には、級長の江尻君以下10数名しか並んでおらず、残りの生徒は集会をサボって近くの寺院の境内で三角ベース野球に熱中していた。

 当時、担任の斎藤先生は、校長・教頭・生徒指導部長などに、面目を失う程その責任を追及されたに相違ない。しかし、遊び呆けて帰校してきた連中に対して、小言一つ言わずニコニコ顔で出迎えて下さった。この事情を後で知った我らは、以後の集会に遅れなくなった。ただ、それらの集会のほとんどは、我らにとって退屈でつまらぬものばかりであったが……。

 ついでに言うと、1年4組の連中の愚行の数々は言うもはばかられるものばかりであったが、斎藤先生は、そんな我々に一度も怒鳴ったり、罵声を浴びせたりされたことは無かったと思う。いつも温顔でニコニコされ、生徒の名前を呼ぶのに、大方の先生は呼び捨てであった時代に必ず「○○君」と敬称をつけておられた。

 余談だが、私も生涯、子供たちを呼ぶのに必ず敬称をつけた。先生の真似である。

 
あの時代に家庭訪問
 
― 先生の思い出 A ―

 道路に舗道なんか無い時代。武生市内の中心部のみがコンクリート道であった時代。交通手段は汽車・電車・沿線バスという時代。斎藤先生は、昭和27年の夏休みのほとんどを使って、47名の生徒の住むところに自転車で訪問された。その行動範囲は、武生市内、北日野、南日野、北新庄、王子保、湯尾、今庄、神山、白山、粟田部、池田、河和田の各地区へと、丹南地区のほとんどである。

 河和田の生徒宅への途中、パンクしてしまった自転車を曳いて汗だくで歩いて来られたので、家人が泣いてしまったという話もある。今日のように、生徒を管理指導するための家庭訪問というのではない。自分の担当する生徒のところに行きたいという一念のみである。その生徒に会ったからといって特に何をするのでもない。

 いちばんよくしたのは水泳である。近くの川の流れに、シャツとズボンを脱いで、下着のままジャブジャブと入って、小魚を手づかみしたりして遊ぶのである。生徒以上に、本人は少年に戻って遊ぶのである。近所に仲間がいれば誘って大騒ぎするのである。田舎の少年にとっての夏休みの大部分は、毎日農作業の手伝いである。しかし、先生の来られた日のみ遊べるのである。あれは楽しかった。

 
破天荒な授業風景
 
― 先生の思い出 B ―

 斎藤先生の担当科目は「一般社会」であった。今日の「現代社会」と「公民」がそれに相当する。新制高校で新設された科目であるせいか、大抵の先生は教科書を解説するのが普通であった。なお、ついでに言うなら、当時も今も、高校の授業と言えば、教科に関係なく大抵は教科書の内容を説明したり、初歩的な演習をさせたりするのが関の山である。実技を伴う科目は別として。

 ところが、我らの斎藤先生は、教科書は読んでおけばよろしい、と言うことで教室では「小六法」を中心に新憲法について授業を進められた。そして、何より眼の洗われる思いをしたのが、教室を飛び出して郷土の歴史の足跡をたどるというものであった。

 出目満照の屋敷跡、千代鶴国安の池、天明天保の大飢饉の供養碑、奥村良筑、笠原白翁、渡辺洪基、土肥慶造、斎藤修一郎などの生誕地を巡るというもので、郷土出身の偉人や先達への尊崇の念が、ともすれば失われがちとなる社会の流れ(敗戦による歴史的なものへの軽視)に抗するというような大袈裟なものではなく、ひたすら郷土の先人への愛を涵養せんがためのものであったろうと推測する。

 自分が高校生であった時の学校で習った知識内容を、卒業後数10年経っても鮮明に覚えている事など、滅多に無い。雲散霧消してしまうのが普通である。ところが、筆を執っている私は、あの頃の事をこうして何も見ずに記すことができるのは、いったいどういう事なのか。


「自由と規律」から学んだこと
 
― 先生の思い出 C ―

 斎藤先生が我々に必読せよと薦められたのに、「小六法」のほかにもう一冊あった。それは池田潔(当時慶応義塾大学の先生)著の「自由と規律」(岩波新書)というものである。数々の愚行の我々に対して、慈父の如くであった先生のお薦めの本である。その大好きな先生が読めという本であるから我らは先を競って書店へ駆けつけた。

 そして一読、眼が洗われるような思いがした。知性を高めることの意味、努力して人格を陶冶することの意味、本当のスポーツマンシップとは、卑怯とか卑劣とかいわれる行為が人格の形成に如何に許されないことか、等々。田舎の悪童に過ぎなかった我々の精神と知性にどれほどの好影響を与えたか測り知れないものがあった。その実態については、これも江尻君の記述に詳しいので省く。


あとがき

 武高の3年間の生活の中で忘れがたいこと、懐かしい思い出などはたくさんある。

 斎藤先生の小六法・校外授業・自由と規律・剣道・家庭訪問。級友たちと出掛けた山・川・海。市内の飲食店で食したうどん・中華そば・カツ丼。比較的安かった新東宝の映画館。その他、次から次へと脈略も無く思い出せる。

 そして、そのどれもがピカピカと光りつつ、友の顔や姿を伴って現われては消えてゆく。親友の幾人かは鬼籍に入った。私もすぐ後に続くのは間違いない。しかし、今暫くの生を大切に生きたい。この思いは健在する友も皆同じであろう。諸兄姉よ、御身ご大切に。