「下宿生活」の思い出
― 青春時代の貴重な体験報告 ―
飯 田 昭 夫

飯田 昭夫(武高30会会員)
IIDA, Akio
1952年上池田中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年 名古屋国税局に勤務。1970年静岡市で税理士を開業し、本年で開業45年となる。現在、アイクスグループ会長、アイクス税理士法人代表。「最高に信頼される相談相手となる」を経営理念とし、静岡市の本社のほか、東京(浜松町)・大坂・山陰(米子)、石垣島に支店を持つ。社員総数110名。趣味はテニス・ゴルフ・囲碁(7段)・書道など。著書には「新たなる出発」(1996年、日プリ、アドバ)がある。(静岡県静岡市在住)
はじめに
私は高校時代、学業成績はそんなに優秀ではありませんでしたし、生徒会活動にもあまり関心がありませんでした。今、思い出される事は、学業とは全く関係のない「下宿生活」です。
下宿生活の発端
私の生まれは、今立郡上池田村(現、池田町)、当時は村から武生に出るには、バスで片道小1時間も掛かりました。それも、1日4往復しかなく、朝1番のバスに乗っても、学校の始業時間に間に合わなかったのです。従って、池田から武生高校に進学する者は、武生にある親戚の家に身を寄せるか、下宿生活をするか、のいずれかでした。
私が武生高校に進学するまで、4歳年上の兄が福井師範学校に在学中で、福井市内で下宿生活をしていました。私が武生高校に入学したことで2人が別々に下宿生活することは不経済なため、福井と武生の中間にある鯖江に下宿先を探し、兄は福井に私は武生にそれぞれ福武線で通学生活をすることとなりました。
鯖江での下宿(1年目)
下宿先のS家は、既存の家を移動させる「曳家(ひきや)」という珍しい仕事をされていました。いわゆる土建業の一種で、家は大きいですが下宿部屋は2階の納屋でした。天井張りが低く、立つと、頭が当たる状況でした。窓は小さく、夏は蒸し暑く極めて寝苦しかったものです。それでも、ここでの下宿生活は、兄が卒業するまでの1年間と分かっていましたので我慢しました。
その頃、兄は失恋をしていたのか、毎晩のように、Guy Mitchell の「My heart
cry's for you」のレコードをかけていました。おかげで、私はこの曲を丸暗記し、今でも口ずさんでいるのです。
S家の隣の貸家には、S家の親戚の戦争未亡人と娘2人が住んでいました。姉は兄より少し年上で妹は兄より少し年下で、とても品の良い美人姉妹でした。
夜になるとS家に風呂をもらいに来ました。その母娘達が終わった後に私たちが風呂に入る順番となっていたのですが、どうかしますと、彼女達が浴衣姿で帰るのと、私たちが階下に下りて風呂に入りに行くのとですれ違うことがあり、挨拶を交わすことがありました。すれ違い際、とてもいい匂いがしました。何かドキドキして、度々会えることを願っていたフシがありました。
武生での下宿(2年目)
2年目になると兄は卒業するため、武生で1人下宿生活をすることとなりました。兄が探してくれた下宿先のH家は静かな住宅地で、老夫婦と、同じ武生高校の1年先輩の息子とその姉の4人暮らしでした。
私の2階の下宿部屋の隣には、H家の親戚の新婚夫婦が間借りしていました。若い高校生が隣部屋に居たから、彼等夫婦はさぞかし気を使ったに違いありません。私はあまり気に留めませんでしたが、記憶に残るのは、彼らはとても仲が良く、夜になると毎晩レコード、Patti Pageの「I Went To Your Wedding」の曲を掛けていたことです。おかげで私はこのCDを買い、今でも車の中で聞いているのです。
武生での下宿(3年目)
3年目になると、いよいよ自分で下宿先を探すこととなりました。3月の土日になると下宿先探しをしました。学校に近い所で、外から見て「これは」と思える家を見つけると、勇気を出して戸をたたいてお願いしました。幾日も何件も探し回っても、そう簡単には見つけられませんでした。
ここでは、幸いにして最後に決まった状況を紹介します。
それは、N町で閑静な場所でした。あまり大きな家ではありませんでしたが、立派な佇まいで、玄関の脇には大きな松の木と木戸のある家でした。
「こんにちは、僕は武生高校生で今年3年生になります。1年間でいいですから下宿させていただけませんか?」。出て来た誠に品の良い妙齢なご婦人は、にこにこしながら「学生さん、私の所は事情があって下宿させてあげることは出来ないけれど、前の家のおばちゃんに聞いてあげるわ。ちょっとおいで。」とM家を紹介してくれました。
前の家のおばちゃんというのは、これがまた誠に粋で、チャキチャキの江戸っ子風でした。小柄でしたが丸髪を結って和服姿、火鉢を前に長いキセルでタバコを吸っていました。
私の顔を見るなり、頭のてっぺんから足の先までジロジロ眺めて「学生さん、あんたの名前は何ていうの?」、私は「飯田です。飯田昭夫といいます」、すると「おばちゃんの所は貧乏だから、ご飯に梅干しという日もあるけど、それでもいいかい?」、私は「大丈夫です。お願いします」、と深々と頭を下げました。おばちゃんは即座に入学許可ならぬ下宿許可を下してくれました。
ところが、実際に下宿すると息子のように可愛がってくれ、朝食には私だけ特別に生卵を付けてくれました。おかげで3年生の卒業時には、私の人生の中で最高の体重70 kgを記録したものです。
ここM家の家族は、老夫婦と、私と同い年のT嬢の3人暮らしでした。このおばちゃんは、大の美空ひばりファンで、武生でひばりの公演がある日は朝からそわそわしていました。
私の下宿部屋は2階、風呂とトイレは1階でした。
夏、試験勉強をしていた夜中に、階下のトイレへ行った時、当時は冷房設備もない時代でしたから、階下で寝ているT嬢が戸を開け広げ、布団を蹴りのけて、太股を丸出しにして寝ている艶めかしい姿が目に入り、自分の部屋に戻っても、とても試験勉強どころではありませんでした。甘苦い思い出のヒトコマです。
このおばちゃんとは、以後、親戚同様のお付き合いとなり、高校を卒業して実家に里帰りする時には、池田の生家に帰る前に必ずおばちゃんの所に寄り、近況報告をしたものです。今、おばちゃんは亡くなりましたが、同い年のT嬢は健在で、会うと今でもあの「真夏のトイレの夜」のことが思い出されるのです。
おわりに
多くの下宿人を置く、いわゆる下宿を商売にするケースと違い、全くの民家で下宿人は私1人で、そこの家族と同じ生活をします。おかげで、食物の好き嫌いは全くなくなりました。中学卒業後、未だ世間を知らない多感な時、この貴重な経験は、私の人生の中で得難い宝物となりました。
≪後日談≫
M家を紹介してくれた、くだんの妙齢なご婦人は、実は「お抱えの」お妾さんでした。ダンナがいつ帰ってくるか分からない中、例え退屈していたとしても、若い高校生を一緒に住まわせる訳にはいかない訳で、これは立派なお断り「事情」でありました。

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