No.20
巣立ちへの親にもまさる深遠な影響

― わが師わが友に感謝する ―



杉 田 光 二


杉田 光二(武高30会会員)
SUGITA, Koji

 1952年武生第二中学校、1955年武生高等学校を卒業。1957年1月下関に転地療養。三菱造船の下請けで働くも偽装倒産で失業。商業新聞店で7年間勤務しつつ日中友好の事業に傾注(但し1975年中国が資本主義へと変質したため運動から撤退)。1966年秋より人民言論『長周新聞』に40年余勤めた。呆け防止に読書と語学、借地2坪の菜園が趣味。(山口県下関市在住)



〈その一〉武高入学 ― 劣等感の罪と罰

 親友2人は勝山精華高校で半労半学、級友の半数は進学せず社会人として働いている。私は彼らに引け目を感じた。入学の喜びも夢もなく学習意欲も湧かず、数学の授業中も先生の目を盗み後ろ座席のU君と五目並べに興じて叱られた。「おい、どのクラスの級長も殆ど一中やぞ」と彼に言われて気が付いた。なるほど理科数学も一中出身者はよくできた。もともと私は算数が不得手ではなかった。だが二中3年で、数学M先生がどうしても好きになれず数学嫌いになってしまった。私は熱田先生指導下の文芸誌『潮』の仲間に加わった。後に著名な美術評論家や雑誌編集長となった優秀な連中がいた。文学少年気取りの私共には数学のできる生徒を軽蔑し優越感に浸る傾向があった。そのためか高校に入り国語の授業だけは退屈しなかった。1年での授業中「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ(啄木)、妻と親しむって、チューくらいしたのかな」と微笑んだ先生。化学では元素記号を「リーベブックの譜、名も(上)がるシップ・スクール」と暗記させられた。2年の幾何授業で「校庭を横切った生徒が咎められ『先生、三角形ノ2辺ノ和ハ他ノ1辺ヨリ長イです』と弁解、『よーし』と厳罰を免れた」など歯切れ良かった教師の口調が懐かしい。私は脱線話には興味津々、化学式やサイン・コサインはチンプンカンだった。誰も答えぬ沈黙をE君が破った。自分ひとり回答するのを恥じるかのように、はにかんで起立した。私は遠くから眺めて思った「自分らと異った特殊な物質(エレメント)でEはできている」と。ある日トイレで隣り合わせになった。「えっ、E君でもオシッコするんかい!」と真顔で言うと、彼はやや首をかしげて不快な顔ひとつせず端正な頬に笑みさえ浮かべた。私は自分の数学嫌いが二中生徒共通の宿命だと思い込み、高校3年間に一中出身の誰とも親しくなれなかった。生来の勉強嫌い、劣等感のせいで良き友を自ら遠ざけてしまい、今なお後悔している。高校時代に受けた恩師と友人の影響は決定的であり、当時を点描し、謝意が伝われば幸いである。
 

〈その二〉20世紀 ― 私の歴史時代認識

 「オレは第二次大戦での敗残者、不正義の戦を阻止しようとせず命を惜しんで逃げ隠れした。教師面してここに立つ資格はなく、君たちが眩しくて仕方がない。こんなオレからでも得るところがあればむしり取り、屍を踏み越え雄々しく進んでくれ」――最初の国語授業で神門四郎先生は、腸から絞り出す嗄れ声で自己紹介した。『広辞苑』を2ケ月かけて読んだ先生。時には「昨夜眠ってないんだ。オレの描いた絵を巡って芸術に階級性が必要かどうか浅田さんと論争になった」とか「おーい誰か虎の巻に何と書いてあるか教えてくれ」などと赤心をさらけ出した。軍国主義の烈風下に生を受け、牧歌的な幼・少年期もなく、敗戦後は物のない時期に育ち盛りを過ごした私たち、朝鮮侵略戦争があり1950年代、未来が一体どうなるのかを真剣に考えた。社会科は現代まで至らず終わった。あの天皇の詔で始まり終わった戦、原爆投下の狙いは何だったのか、竹・鉄のカーテンの向こうにどんな暮らしがあるのか、私は真の情報を求めた。しかし米占領軍による新聞検閲失効後も世論はマスコミの偏った報道が支配した。高3の夏、京大1回生3人が武生公会堂で「原爆展」を催し、説明員として参加、学ぶところが多かった。京大自治会の帰郷運動から誕生したが独自の発展を遂げ、活動的な青年を多く育てた地域サークル「草笛会」へ誘われた。クラシック音楽を聴き若き歌声を響かせ、芸術論、恋愛論、人生論に花を咲かせた。「サルが人間になる上での労働の役割」といった学説が私の目を開かせた。1級下の仲間とも知り合った。私たちは社会発展の法則を勉強しようと密かに同志を集め「親和会」の名称で学習会を計画、校内民主化を訴えてガリ版刷りビラを机の中や厠へも撒いた。生徒会長に立候補し落選。男子トイレから丸見えの講堂板壁にポスターを無断で張り、橿尾・生徒指導部長に呼び出され家庭訪問を受けた。もと在郷軍人の頑迷な父は「お前みてな恥さらしは中共へでも行きさらせ」と激怒。母は「世の中を良うする運動ったって、何もお前が先頭に立たいでも」と涙ぐんだ。職員会議で問題になり「ボクの猛反対で退学にはさせなかった」と教えてくれたのは演劇部顧問、大学を三つ出た知識人で、私が後に失恋し意気消沈していた時期、暗闇から救ってくれた。私にとって魂の技師だった神門先生の言葉は今も耳元で響く――「君たちは戦争の申し子として生まれたが、平和の使者として明日へ羽ばたけ」と。


〈その三〉課外活動 ― 悔い無き我が青春

 2年の秋、図書部長Tから「文化祭で『おふくろ』やるんだが、英一郎役がいない。ぜひ頼む」と口説かれた。3年での『麦踏み』演出は故N先輩、家業そっちのけで指導して下さった。彼の熱意に応えきれなかった心苦しさもあり、私は3月卒業記念に『末摘花』を演出した。体育祭では『女の園』替え歌「古き都に咲きし花の命は」をクラス全員で練習。級友らと樽で神輿を作った。さんばら髪の先生の顔(「明はん」は寛大だったが正に冷や汗三斗の晒し首)を担ぎ回って応援賞に輝いた。話を前に戻すと私は、声も容姿も素敵なT子さんを慕い夢中になった。彼女は一つ年上、就職しバスガイドに。私は恋文を立て続けに出し、彼女の実家の窓明かりに目を凝らし胸をときめかした。返事はなく、ある日、T子さん宛に出した手紙の束とともに彼女の父君から達筆の手紙が届いた。「貴君は未だ学生の身、愛だの生き甲斐だの空論を止めて学業に打ち込み、然るべき社会人となって正式に娘を迎えに来た暁には云々」涙で終いまで読めなかった。私は幼時からの喘息が悪化、受験にも失敗して下関へ都落ちした。還暦の折り偶然T子さんと再会した。二度目は博多でフランス料理をご馳走になり「私ね、貴方からのお手紙を一度も受け取っていないのよ。厳格な父が隠していたのね」と明かされた。思い起こせば、私の不勉強は少しも自慢にならぬ。「何のため誰のために学ぶのか」その認識が無いに等しかった。とはいえ学校は成績・点数主義の奴隷工場とは違う。師や友と固い絆で結ばれて人間形成する、かけがえのない自由の園。美しいもの、理想と真実への憧れを失えば人間失格だ! 63年前の私たちは純真そのもの、秋晴れの運動場で声を限りに歌った。「友よ香りゆかしき乙女ならずや 我もまた誠もつ男(お)の子ならずや さらば恋せよ自由の園に/峰吹く風よ吹きて悲しみの歴史ぞ変えん」 ああ 青春万歳、万万歳!


〈その四〉社会大学 ― 私の最高学府

 私は海が好きだし、この地の空気が体質に合ったのか発作も治まり、下関が第二の故郷になった。旅行社、運送会社など6カ所の面接試験を受けたが不合格。実弟が船乗りということもあって造船所下請けで働くことにした。もと炭鉱夫や貧農、沖仲仕、ヤクザ、シベリヤ帰り、朝鮮領事館員の放蕩息子、倒産企業主といった様々の人と出会った。本工社員の下働きで汚い危険な作業の連続、低賃金。「ここが辛抱できたら他のどこでも勤まる」と言う彼らが何を喜び、何を悲しみ怒るのか――私は日々教えられた。それは人民大学・社会大学と呼ぶにふさわしかった。貧困や失業・病苦のない平和な世の中を目指して役立ちたいと思うようになった私は、その頃、進歩的な地方新聞を購読した。社会の仕組み、お隣中国の社会主義建設の優位性、米国による中国封じ込め問題などに関心を高めていた。会社が破産と偽り別会社を設立した時には、不払い貸金2ケ月分獲得のため仲間と団結してたたかい、愛読紙の援護射撃もあって全額勝ち取れた。その後、日中友好の運動に携わる中で知り合った同志と結婚した。ところがソ連に続き中国も社会主義を投げ捨て、国際主義に背き資本主義復活の方向へ転じた。激動の半世紀、黒と赤の格闘する国内外情勢の制約を受けつつ私たちは生き闘ってきた。誰もがそうであるように私の半生もまた、一冊の本に収まり切らぬ山あり谷ありだった。このたびの文集発行により、自分がどんな歴史的時代にどう生きたかを顧みる機会を与えられ、有り難く思う。


〈その五〉潮風の歌 ― 後輩への挨拶

 関門海峡の岸辺を私は連れ合いと共に毎日散歩する。空模様も波も表情が常に変化していて、見飽きることがない。私が住む下関市南部(なべ)町、江戸期には北前船で賑わい西国一の港だった。萩本藩は馬関越荷方役所を設けた。高杉晋作も一時指導に関わり莫大な蓄財は幕藩体制打倒に貢献した。平家一門を海底に沈めて貴族社会を終わらせ、幕末に四国連合艦隊と戦い祖国の独立を守り抜いたこの海峡。晋作の卓越した指揮で奇兵隊は20倍もの幕軍を撃破し、明治維新革命の扉を引き寄せた。先の大戦で100万の兵士・民衆を大陸の死地へ送り出し、米軍により6000発の機雷を投げ込まれ、原爆投下の標的にもなった。いま海峡の潮は東へ西へ大河の如く悠然と流れ、対岸門司(文字)風師山の峰を仰ぎ見ながら潮風は、高らかに歌う――「21世紀を生きる君たち、祖国の華にも似た息子娘たちよ、ここを地獄の修羅場にするな。児孫に残そう、うるわしい硯の海を」と。