No.25
終りが来る前に

― 懐かしい日々を振り返って ―


高 森 旬 子


高森 旬子(武高30会会員)
TAKAMORI, Hirako

 旧姓山本。1952年王子保中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年株式会社 東レ 金津工場に入社し、実業団バレーに打ち込む。1961年結婚、後に京都に移住し、1971年、子育てがほぼ終った時点でママさんバレーを再開。以後、今日まで、健康増進も目的に趣味のバレーを継続中。他にも、家庭料理を作るのが趣味。(京都府宇治市在住)



 

幼少時代の私

 私の生まれた故郷は、今は合併し武生市さらには越前市へと変わりましたが、以前は日野山の麓の南条郡王子保村中平吹区でした。親の期待を裏切って女の子ばかり6人も生まれ、私は四女でした。大きな赤ん坊で生まれる前から父が「今度こそは男の子」と待ち望んだようですが「がっかり」だったようです。でも大きくて元気な子で、小学校に入学した時から6年生まで、並ぶ時はいつも一番うしろでした。

 子どもの頃は、朝に夕に日野山(標高795m)を眺め、風呂を沸かす雑木を山へ姉妹で取りに行きました。越前富士・日野山は遠くから見ると美しい姿をしています。小・中学校へは自宅から徒歩で約5キロ。さらに高校へは武生まで汽車通学でしたが併せて12年間、往復約10キロ。紫式部も詠んだ四季折々の日野山は今も私のお宝です。

 当時はきれいだった日野川のことも、時折まぶたに浮かびます。夏は水遊びのほか、夏祭りのための昆布巻き用の昆布を洗ったり、合歓の木の葉をシャンプーがわりに使って頭を洗ったりしていたものです。川からの帰りの道の草むらに、青大将がトグロをまいていたのに気付かず、足で踏んでびっくりして一目散で家に逃げ帰り、足を見たら歯の跡がV字型に付いていて、血が滲んでいたこともありました。

 小学生の頃は外を飛び回って男の子と遊ぶのが大好きで、私も男の子の穿いているパンツが穿きたいと思い、自分のパンツの紐を抜いて穿いて、母から厳しく叱られたりしましたし、そんなこともあってか姉たちには異端者扱いされたものでした。


祖母の思い出

 
今思うと、幼い時から小学校の6年生まで、祖母と一緒に寝起きをして、夏は、私の寝相が悪いと蚊帳の外に放り出されたりしました。お蔭でその後、寝相はよくなりました。庭の草むしりでは、青苔を剥がさないようにと、指の間に挟んでそっと抜く事も覚えました。

 春には、草餅を作るのに必要な蓬摘みも子供の仕事でした。祖母は行儀作法には厳しく、どんな仕事も、自分は最後まで手出しをすることなく、仕事を与えた子供にさせました。私も、多分、泣きながら仕事をしていた時もあったと思います。

 祖母が老衰で床に就くことも多くなって、身体を家の者に時々動かしてもらって寝ていました。腰の所に床擦れが出来て、血が滲んでとても痛そうでしたが、黙って耐えていたのだと思います。自分の死期を悟ったのか、母から「おばあちゃんが呼んでいるよ」と告げられ、枕元に座ったら「お前に頼みがある」と言いました。私が「何?」と聞いたら、屋敷の草取りを頼むと言われました。6年生の私は「はい」と言いましたが、「出来るかなぁ……」と不安になったものです。それから間もなく、祖母は喉に痰が詰まって息を引き取りました。当時では高齢の80歳でした。几帳面で厳しいことを言う人でしたが、勉強嫌いの私でも、祖母から教えてもらったことはたくさんあり、しかも大事なことばかりだったと今は思っています。


中学・高校時代

 中学校に行くようになると、少しは女の子であることに目覚め、放課後は体育館でのバレーの練習に参加していました。教えてくださる先生は小、中学校の男の先生たちでしたが、夏は上半身裸で下はパンツ一枚という出で立ち。私達は皆、同じ女性扱いで「ふみ子」「ひらこ」と呼び捨てにするほどの楽しいバレーでした。

 武生高校に入学すると、同じクラスにスポーツなら何でも出来て中学生の時からバレーボールをやっていた平崎君子さんがいて、仲の良い友達になれたことは幸いでした。一緒にバレー部に入部しました。体育の時間でのボールの遠投などはズバ抜けた飛距離を出す人でした。高校を卒業するまで一緒で、二人とも汽車通学で帰る方向は違いましたが、私が汽車に乗るのを見送って自分の帰る電車に乗る人でした。

 当時、放課後の体育館は、「部活」がいっぱいでなかなか使えず、私達は中庭に出て、ネットを張って石灰で線を引いて、自分たちでコートを作ったものです。県の大会に出場は何とかできても、勝つことはあまりなかったように思いますが、いま思うと、あの時の「部活」に打ち込んだことが、その後の私の長い「バレー人生」を育むきっかけになったと思っています。


就職と結婚とバレーボール人生

 高校卒業時は顧問の先生のお世話になって、福井県坂井郡金津町の東レ 金津工場に入社しました。チームメートの平崎さん、成田さん、私(山本)の3名が一緒でした。会社の仕事が終ると猛練習の毎日でした。春に大阪府立体育会館で開催された都市対抗大会に入社後初めて出場し、開会式での入場行進のとき、プラカードを持って入場したあの感激は今も良い想い出です。当時の強豪チームは、何と言っても日紡貝塚、現在のユニチカで、あの大松監督率いるチームには、河西昌枝さんらの凄いメンバーがおられました。

 東レ 金津チームも全国実業団の試合にはいつも出場し、一流選手のプレーを見て、自分も努力したいと思いましたが、チームに優秀な後輩が沢山入部したのを機に退部しました。職場の一年先輩で、机を並べて仕事をしていた今の主人高森が静岡県三島市の東レ轄H場に転勤になったのを機に、私は退社し三島に行って高森と結婚しました。日野山ならぬ富士山を毎日眺め、きれいな伏流水の流れる川の傍の借家住まいから新しい人生がスタートしました。

 のちに高森は幾度か転勤があり、大阪に転勤になった時、宇治市に家を持ち移り住みました。子どもの手が少し離れるようになった1971年頃から私のママさんバレーが始まりました。最初に誘われて始めた時は昔とル−ルも変るなど不慣れなこともありましたが、永い間競技から離れていた者には、毎日が新しい刺激に満ちた楽しいひとときでした。その内、新しい人も加わるなど、自分のできる範囲でママさんバレーチームを作り、バレーのお蔭でたくさんの友達もできるようになりました。

年齢に応じた五十路のチ−ムも出来、私は70歳を過ぎてもママさんバレーの現役でした。今にして思えば中学から高校にかけて夢中になってボールを追いかけ、練習に明け暮れたあの時の「汗」のたまものと感謝しています。写真のトスを上げているのは、65歳の時のものです。


   


傘寿を迎えて

 思えば私の人生、東レ鰍ナ出会ったバレーの師 高森との夫唱婦随のおしどり人生だったと思います。傘寿を迎えたいま、私の日課は、なるだけ早く就寝、早く起きて夜明け前の静かな朝、自宅のまわりの誰も歩いていない道を歩きます。大きな池の周りを一周して約40分。帰って整理体操をして朝食の支度をします。

 「歩くこと」は、誰にでも出来ることで、夜明けの美しい日の出前の空を眺めたり、毎朝、夜明けの明星が見られたりと、私の大好きな「朝のひととき」です。

 そして、もう私自身も、今、あの当時の祖母の年齢を迎えました。

 奔放な少女時代を経て、その後、今まで少しは誠実に人生を歩んでこれたろうか……と自省していますが、果たして祖母と同じようなことを孫たちにしてあげられたかどうか? 少し怪しく思っています。

 でも、まだ遅くはない。これからでも、私が受けた「おばあちゃんの智恵」を、孫たちに少しでも多く残していきたいと思っています。

「おばあちゃん、ありがとう……」。
心からの感謝をこめて……、
終りが来る前に……。