No.26
私 の 履 歴 書 (抄)

― 商社マン謳歌の半生と故郷の生家 ―


瀧 波 英 之


瀧波 英之(武高30会会員)
TAKINAMI, Hideyuki

 鯖江市生れ。1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校、1961年京都大学工学部建築科を卒業。同年住友商事株式会社に入社。1994年同社を退社。現在、武生高等学校同窓会関西支部長。(大阪府茨木市在住)




1.学生時代

 1936年(昭和11年)、福井県鯖江市に生まれ、惜陰小学校を卒業後、事情あって武生一中に2学期から越境入学しました。少しでも背が伸びるようにとバスケットボール部に入り、3年生の時には放課後はバスケット、夜は受験補習勉強と、熱心な佐々木先生にしごかれました。お蔭で県大会では、強豪小浜中学を破って初優勝。主将・古市君、副将の私で優勝杯を手にした時、「成せばなる」の自信が芽生えました。また2年生の時には、県の英語弁論大会に岩端さんと二人が一中代表に選ばれ、1位が岩端さん、私が2位になったこともありました。

 高校1年生の時、自習時間が出来ると、二刀流剣道の達人・京大卒の佐久間(斎藤)先生にお願いし、旧制三高時代の話を聞くのが楽しみでした。2年生の担任・吉田先生は東京工業大時代、全日本代表にも選ばれた有名なサッカー選手で、旧制五高時代の寮祭のことなど、木刀で机を叩きながらの話は非常に迫力があり興奮して聞きました。途中で三菱化学に復職されたので、学生の心に大きな空白が出来たのは事実です。また数学の岩永先生には、難問の出題と回答の添削をして頂き、理系志望者にとっては非常に有難い先生でした。戦後、貴重な人材が一時期田舎の高校の先生をされたことで、私たち教え子の将来にも大きな影響を与えたと思います。

 そして私の人生を決めたのは矢張り父の一言でした。中学時代、夜中に吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいたら父に叱られ、「勉強すればシェークスピアが原文で読めるのだぞ」と言われました。また、高校時代、失業中だった父に「職業は何を選んでも良いが、大学進学だけは理系にしろ。自然科学を修めれば人文科学を理解するのは容易だし、失業しても再就職しやすい」と諭され、不肖の息子でしたが、唯一これだけは「父の教え」を守りました。
 
 私は郷土の若者に話す機会が有ると、必ず一つのエピソードを披露することにしています。中学時代から「現役で東大へ入り、将来ノーベル賞を狙う」と言っていた親友、菅沼 彰君のことです。彼は何時も、普通列車で18時間半もかけて上京するのを皆で笑ったことがありました。その時彼は静かにこう言いました。「みんな若いんだ。5時間以上も本が読め、その上急行料金もかからない。300円のアルバイトが出来たのと同じだよ」と。東大助教授を経て東京理科大教授となり、志半ばに教壇で倒れた彼が、若き日、教室の隅で寸暇を惜しんでコンサイスを開いていた姿が、私たちの目に焼き付いています。

 受験に失敗した私の青春は、1955年(昭和30年)19歳の春、現役合格者も浪人も呉越同舟、蒸気機関車に引かれた夜行急行列車に乗り、直江津経由で13時間半かけ、翌朝上野駅に着いた時から始まりました。

 縁あって早大近くの会津出身子弟の宿舎「会津青雲寮」に入り、浪人1年目は受験勉強に没頭しましたが、2年目にもなると、受験勉強より赤坂離宮内の国会図書館へ通い、古今泰西の名画を見、名作を読み耽りました。故郷を出て2年間、読書と散策に明け暮れ、何時の日か名画・名作の舞台を訪れたいという潜在意識が芽生えたのは自然の成り行きでしょう。それが芸術の香りのする「建築」を専攻させ、世界を股の「商社マン」を選ばせたのかも知れません。

 親友の古市・北川君とは、2 年間励まし合いました。東京を去る日、古市君の下宿で彼の弾く「アルハンブラの思い出」を聞き、北川君が下宿していた姉さん宅では、自ら命を絶った彼の遺影に手を合わせ、「馬鹿野郎」と叫びたいのを堪え、微香を背に駅に向いました。小雪の舞う中を東京駅まで涙ながらに歩き、都落ちの気持が拭えぬまま大阪行き夜行列車に乗りました。

 満21歳の1957年(昭和32年)3月、残雪の散らつく京都駅に降り立ちました。その夜、阪大の小原君と同志社大の斎藤君が、歓迎の宴を設けてくれました。

 暫くして、斎藤君の知り合いの居酒屋の女将の妹と出会い、やっと京都に落ち着く決心がつきました。2回生になった時、女将は私を貧しい苦学生と思ったのか、週2回豪勢な夕食付きで、中学生の息子の家庭教師にしてくれました。北白川の下宿から哲学の道を逍遥しながら、週2回「永観堂」畔の屋敷町に通いました。数年後社会人になってからも、祇園では女将の妹を指名し、宴が終われば二人で「権兵衛」の素うどんを取り、ビールで乾杯し、カラオケするのが常でした。恒例の都おどりは、毎年、地唄の名手である彼女の音頭で古都に春が訪れます。2年間の失った青春を取り戻すべく、青春謳歌に励む日夜逆転の日々が続き、単位不足で卒業も覚束ない状態でしたが、「留年させるのは税金の無駄使いだ」との教授会でのN教授の一言で卒業出来ました。


2.人生悠々商社マン謳歌

 1960年夏、「住友商事」の門を叩きました。面接の社長以下幹部は、建築専攻の学生が場違いな商社の門を叩いた事に非常に興味を持ったようです。1961年大阪機械部に配属され、「住友金属」担当となりました。戦後海外からの引き上げ社員の受け皿会社として「商事」を作った「住金」は、住友グループの中核企業で、その担当になれるということは超エリートコースのはずでした。

 本章は、日本の高度経済成長期とバブル期を突っ走った、一人の商社マンの物語です。

[第1話] 大酒豪の誕生(二川ダム物語)

 
有田川上流に和歌山県営二川ダム建設のため、由良川上流の京都府大野ダムから、住友重機・神戸製鋼などの機械類を移設する商談にタッチしました。駆け出しの見習いが、初めて和歌山県の担当者と大野ダム視察に行った際には、大雪で2日間、近くの宿に閉じ込められました。

 県の課長、係長、担当者はいずれも国立大の土木科出身で、おまけに3人とも大酒飲みでした。私が京大の建築卒と知ると、役所にも行かず商社マンになったのは非常に珍しいと身内のように可愛がられ、雪籠り2日間に飲んだ酒の銚子は約180本(10升)でした。帰社後、上司や同僚から呆れられ、本来下戸の私に、大酒飲みのレッテルが張られた次第です。


[第2話] 泡と消えた楼閣(オ―タワ―物語)

 これからのモータリゼーションに対処するには機械式立体駐車装置が不可欠で、阪急より商事も手がけるよう勧められ、我が国初の20台収容メリーゴーラウンド式立体駐車場「オ―タワー」を東梅田阪急の駐車場に納入しました。しかし設置1年後の1963年夏、シャフト切断により格納20台の車が破損する大事故が発生。その事故処理に、入社3年目の駆けだしは只オロオロするばかり。阪急の担当課長の被害者への誠意あるテキパキした対応と部下の采配を目の当たりにし、深く教えられることが多くありました。営業20年の間に何度か修羅場を踏みましたが、この時の事が非常に役に立ちました。

 この方は後年、阪急の総帥になられた方への帝王学の指南役を務められました。


[第3話] 大尉の娘(クリストロア・女子修道院物語)

 1964年、東京オリンピックの話題で明るい年が明けました。当時、サントリーのビール進出のためのホップ工場を岩手県に建設する工事を商事が請け負っていました。仕事を終えて帰阪すると、医者から療養を勧められ、西宮市上野が原の療養所に入院しました。シスターからの入院中の注意事項説明では、「病棟周辺は『蝮が原』と云われる地ですから、戸外での奥さんや恋人とのデートは厳に慎んで下さいね」と、意味深な忠告でした。部屋に案内され持ち物点検の時、最初にシスターがバッグから手に取ったのはプーシキンの「大尉の娘」。背のすらりとしたシスターは笑顔で「あら、私も陸軍大尉の娘だったのよ」と。本が縁で意気投合しました。入院3カ月で退院出来ましたが、以後3年間は残業も出張も禁止でした。

 後年、病院の建直しの時、格安でエレベータを納入しました。商談成立のお礼にと、修道長の許可を得てシスターのため一席持ちました。大尉の娘曰く「天麩羅がいい、名神高速もドライブしたいわ」。当日、ピクニック籠を持った若いシスター2人を引き連れ、修道尼の服姿で現はれたのには吃驚しました。名古屋の高級てんぷら屋から始め、夕方、サパークラブ「御薗」に入った時には、一瞬バンドが止み、皆の眼が一斉に我々に注がれたものです。


[第4話] 万博地域冷房(千里一夜物語)

 1965年(昭和40年)9月、国の威信をかけた一大プロジェクト、「日本万国博覧会」の開催が,大阪府吹田市「千里丘陵」に決まりました。

 マスタープラン作りは、京大・西山教授、東大・丹下教授を中心に、東大・京大の建築学科が総力を挙げて臨むことになりました。しかし関西財界から「西山は構想だけ。後は丹下がやれ」との声が上がりました。共産主義的な西山さんの政治的立場や言動が敬遠されたようです。

 1968年、西山基本構想の万博の目玉「地域冷暖房事業」を三井物産・三菱商事・丸紅・住友商事の4商社によるジョイントベンチャーが行うことに合意しました。我が国初めての3000 冷凍トンのターボ冷凍機を代表的メーカー6社に性能発注し、その冷凍機からの高圧冷水を、地下に埋められた直径1 m、総延長24qのパイプで各施設やパビリオンに送るという、世界最大規模(3万冷凍トン)の万博地域冷房事業の建設・運営をする事になりました。

 高度経済成長の真只中、オリンピックに続く万博は、後進ながらも近代国家として国際的な威信を高めようと、戦前果せなかった悲願の実現、「国威発揚ここに極まれり」の感が有りました。プロジェクトの若きリーダーの一人として携わり、盛大な万博終了祝賀会の席に届いたのは、病院から息子の死を知らせる電話でした。私にとって天国と地獄、正に痛烈の一言に尽きる3年間でした。



[第5話] 契約は契約(ハイデルベルク物語)

 1972年36歳で課長代理になった時、貝塚の紡績会社が廃業して血液検査研究所を作りたいとの話が有りました。血液検査装置はストックホルムのAGA社の製品で約3億円。当時の為替レートは360円、日銀の外貨割り当てが必要で代理店から当社に持ち込まれた商談です。担当の部下を出張させたところ、迎賓館でのワイン歓迎会の席で、当日の打ち合わせ録にサインを求められ、酩酊状態でどうやら契約書にもサインしたとの事。取引申請もしないフライイングのため、上司の管理責任は免れません。その上、建築確認申請もしておらず、責任者の私がAGA社まで、契約・納期の遅期をお願いに行く羽目になりました。気の重い出張でしたが、ヨ―ロッパは初めてだったし、「京都哲学の道」のオリジナルのドイツのハイデルベルクも是非訪れてみたいと思い、予定を早め憧れのこの大学都市を2〜3日心行くまで散策しました。

 ストックホルムではAGA社の用意した森と湖水に囲まれたホテル・フォレスタのスイートで優雅に北欧の白夜を満喫しましたが、日本的浪花節は通用せず、契約は契約なりと280万円を支払う羽目になりました。後日、相手が血液検査装置を契約空港羽田ではなく、価格の安いエヤロフロートを使って新潟空港に搬入したのを知り、大人気ないとは思いながら契約は契約なりと、違約金280万を取り戻したのは言うまでも有りません。


[第6話] 一町医者の夢(兵庫医大物語)

 総額100億円超の兵庫医科大学及び付属病院建設プロジェクトは、軍医としてラバウルで終戦を迎えた一町医者の無謀とも思える壮大な夢でした。建設許可には相当額の自己資金が必要で、銀行、ゼネコン、商事で分担しましたが、その半分に見合う担保は、「阿弥陀が池大黒堂」の提供になるものです。

 財務局長は、理事として、認可交渉と建設資金のお目付け役に銀行から派遣され、商事も医療設備担当や現場責任者を常駐させました。財務局長は大学の先輩であり、建設担当の鹿島の所長の娘さんは商事の社員である関係から、非常に人間関係がよい現場でした。

 第1期工事が完成した時、院長夫妻の希望で、若き日の南洋の激戦地をジャカルタの駐在員にアテンド(世話案内)させました。感激した院長は、彼を事務局長に欲しいとの話も出ました。


[第7話] ウオッカにご用心(ババリア物語)

白鶴酒造の敷地に「メゾン白鶴」(最高級マンション)を作ることになり、目玉設備として「ごみ空気輸送装置」を設置することを検討しました。予定した国内メーカーはまだ実績がなく、ドイツのKUKA社と技術提携して製造するらしいことが判明したので、ドイツでの実績を見,技術提携も念頭に、関係者5人による調査団を派遣することにしました。私が団長で、将来ある4つの部門の若手の視野を広げる目的で、初海外出張に連れて行ったようなものです。

 ドイツ鉄道でケルン、ブレーメン他に下車して空気搬送施設を見学しながら、ババリア地方のKUKA社本社があるアウスブルグまで、のんびりした視察旅行でした。迎賓館の私に与えられた部屋で挨拶草案を纏めている時、デュセルドルフから通訳の源田君が到着しました。彼は源田空将の甥で、現地採用されて正社員申請が本社に来ており、今回、人物鑑定をして来いと言われていました。彼は「挨拶草案は不要です。あなたが話したいことをお話し下さい。私が同時通訳しますから」との頼もしいナイス・ガイ。当然正社員OKです。

 迎賓館での歓迎会はウオッカ3杯で、不覚にも眠ってしまいました。気がつくと源田君だけで、皆はサロンでの二次会中とのこと。KUKAの会長はこう言ったそうです。「ウオッカ3杯で酔う男とは契約しない」と。本来なら首ものです。


3.おもろい人生

 1977年、大阪電気施設部・総合設備課長に就任。いわば一国一城の主になった訳です。当時、商社は課単位の独立採算制の「のれん街」のようなもので、予算さえ達成しておれば、かなりの接待費も使え、才覚さえあれば、新規商売分野ヘの進出も自由な柔軟な組織でした。

 1981年、20 年間勤めた営業部隊から機電業務部次長・大阪駐在(営業部門のお目付け役の関西探題)になりました。特に業務部は内外の関係先との情報交換・収集が主業務で、バブル期と相まって、ゴルフとパーティーに明け暮れたと言ってもいい8年間でした。日本は1980 年代から90 年代にかけて、日本国中未曽有のバブルに沸きました。束の間の幻想であったにせよ、国民1億総中流意識を持った幸せな時代だったのかも知れません。思えば「おもろい」人生でした。

 しかし1988末、胃の全摘手術を受けることになり、翌年には機電業務から建設不動産本部に移りました。1994年春には、両親が立て続けに亡くなりましたので、その秋退社しました。

 1995年(平成7年)になって、武高30会の関西の同志と「武高同窓会関西支部」を立ち上げました。以来、幾星霜、昨年2015年(平成27年)の10月25日には、支部創立20周年記念総会を開催できました。同年10月30日(金)の福井新聞(コラムこちら関西)が要旨を下記のように伝えています(担当記者:上嶋啓芳氏)。
 「武高同窓会関西支部の総会が25日、大阪市中央区のホテルで開かれた。三田村同窓会会長、片野武生高校長、奈良越前市長ら来賓11人も駆け付けた。瀧波支部長が『地方創生の機運が高まり、都会在住の我々は一層、故郷に関心を持たなければならない。お互いの交流の輪を広めて関西から、母校、ひいては地元越前市の発展につなげていきたい』とあいさつ。記念講演で奈良市長が『ふるさと越前市は、いま』のテーマで、越前市となって10年の出来事を振り返り今後の課題と取り組みについて説明された。」

   


4.故郷の生家

 話題を変え、生家の話に移ります。「昔ながらの格子造りの商家風母屋と白壁の蔵は、街の貴重な風景なので出来るだけ現状のまま残してほしい」と、当時の鯖江市 区長会会長から要望されたことがありました。生家の母屋(切妻造切妻屋根平入町家)は129年前(明治20年)に「呉服店」を創業した時に建てられ、江戸時代は藩の御用商(両替商)だったと言われています。

   


 高度成長期に道路は拡張され、電柱も消えて奇麗な通りに生まれ変わったのに、なぜか閑散とした感じで、生家は町内で唯一古色蒼然とした姿をさらす羽目になっていました。母屋と蔵を囲み、笏谷石を載せた黒塀越しに松が街路に影を落とし、街ゆく人に安らぎを与えていたのも今は昔。時の流れは松も塀も消し、駐車場に変わってしまいました。茶室を改造した数寄屋風離れ「楽松亭」からは南光寺の鐘楼と白壁の蔵越しに「響陽渓、西山公園」が望め、訪れる人に暫しの静寂な時を与えてくれます。此の離れは終戦まで、1897年(明治30年)に設置された「陸軍歩兵第36連隊」の歴代連隊長の宿舎にもなっていました。

   


 旧北陸道沿いに甍を連ね「鯖江のご本山」と地元の人に親しまれている「誠照寺」(誠照寺派本山)の門前町は、昔から寺町と呼ばれ、その一角に生家があります。我家は200年以上続いた旧家で、私が7代目の当主に当たります。

 2006年、この生家が、「ふくいの伝統的民家」に認定され、長年受け継いできた住まいに対する新たな愛着と、大事にしなければとの意識を喚起させてくれました。2011年春,鯖江市教育委員会から文化財に登録するよう打診され、家族、親戚は将来維持出来るかどうか不安なので反対しましたが、独断で申請しました。

 その秋、福井工大の吉田教授を中心に、多米講師、学生等による調査、実測が行われ、翌年、鯖江市文化課の前田さんの尽力により文化庁に申請され、武内調査官が調査に来宅しました。

 2012年(平成24年)9月23日、母屋(洋館を含む)、数寄屋風離れ座敷、道具蔵、大蔵が国・登録有形文化財になり、翌年公的補助を受け、2014年、母屋と蔵の外壁の改修が完了しました。代々受け継いだ住まいは単なる無機質な建造物ではなく、時代の栄枯盛衰を見つめながら、家族や町の人々と共に歩み続けた歴史の生き証人といえます。皆さんのお蔭で蘇った故郷の生家が、多少でも町のお役に立てれば幸いです。
 「楽松亭」亭主敬白