誰もが初めは素人だ
― 窮して学んで身につけて ―
武 田 道 雄

武田 道雄(武高30会会員)
TAKEDA, Michio
1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校を卒業。1957年臼井メリヤス製作所入所。1961年8月に臼井繊維工業(株)に改組し、更にジェレンク(株)に商号変更。1971年8月同社取締役経理部長に就任。1976年8月同社統括本部副本部長兼経理部長に就任。1977年7月オニツカ(株)、(株)ジィティオと合併して、(株)アシックス(東証一部上場)となり、取締役に就任し、経理部長、管理部長、情報シム部長などを歴任。1982年4月同社監査役(常任)に就任。2001年6月同社顧問となり翌年退任、現在に至る。この間、(社)日本監査役協会理事、関西支部幹事などを歴任。研究報告書「監査役のための『情報システム監査チェックリスト』と逐条解説」を共著。この間、システム監査学会にも所属。(奈良県奈良市在住)
まえがき
私が今日までに経験した一部を披露し、こんなことを経験したから、「今の武田がおるんやなー」と感じ、更にそれなら俺も私もと感じてくれる人がいてくれることを期待して、この回顧録を書こうとパソコンに向かった次第です。
ただ現代は、我々が経験した時代とは余りにもかけ離れている(あるいは進んでいると言っても良い)時代であると感じられるかも知れません。それはそれで、そういう環境を踏まえた判断をお願いしたい。因みに私は、スポーツ用品業界一筋の現役時代を送って来ました。
私の仕事は
ある日オーナー(社長です。でも会社組織ではなく、個人企業でしたので)から、明日から会計をやれと言われて、慌てました。まったく会計の「カの字」も知らない者にとって、何をどうしたらよいのか、まったく先も周囲も見えない瞬間でした。
先ず、先輩がやっていた仕事に関係する書庫の中身、伝票綴り、会計帳簿などを広げて仕事の手続きを頭に入れるところから始めました。少し仕事の順番だけが頭に入ったところでしたので、会計をしろと言われても、何処から何処までが会計と言うのかも知らない者の頭の中は、何の整理も出来なかったことを今でもよく覚えています。さて、どうしようか、と悩んでいた時に思いついたのが、武生高校商業科の手鹿先生に会うことでした。会って経緯を話し、指導を受けようと学校へ出掛けました。その時の先生の言葉で、「商工会議所で簿記の勉強会を俺が担当して開くから、直ぐ申し込みをしろ、必ず出てこい、それからだ。」でした。これが、「経理とシステム作りの武田」のスタートラインでした。
経理の勉強
解らないながらも、何とか3ケ月が経ちました。その間、講義時には必ず一番前に座って聞きました。そして、先生の言葉を毎回一つだけでも耳に残す習慣を身に付けました。その中の幾つかが今も脳裏に残っています。
* 自分の経験だけで判断するな。
* 必ずその時、その問題の背景と文書を読め。
* 文書は多種多様だぞ。
* 会計だけでは駄目だ。経理の勉強もやれ。
* 経理は、経営管理を略したものだ。
* 経理が分らなければ経営はできないぞ。
でした。使っている伝票と台帳すべてを集めて、伝票のフオーマットも内容も一新しました。試算表も初めて作成し、先生に見せました。
次の先生からの課題は、「試算表に出てきた勘定科目全ての内容を定義せよ」でした。そう言われれば、過去に使われていたものを我流解釈でそのまま使っただけだったのです。これは私にとっては大変な仕事でした。
会社設立
確か、昭和36年ぐらいだったと記憶していますが、オーナーが居所を大阪に移していました。そして昭和37年8月、大阪市天王寺区上本町3丁目に法人を設立しました。
それまで、オーナーは武生から年に8〜9度ぐらいは大阪へ出張していましたが、大阪での法人化までは、我々は想像していませんでしたので新時代の幕開けを感じました。そういう事態になってはじめて、大阪から帰ってくるたびに同業他社の話を多く聞いたことを思い出しました。当然のように、我々の何人かは転勤をする羽目に追い込まれ、その準備も急ぎました。
大阪本社の本格的稼働
私が大阪へ移動したのは、北陸豪雪のあった昭和38年です。男性社員5〜6名で、雪の中を染色工場へ染め上がり生地を取りに行き、自動車を車庫に入れ荷卸しを済ませた後は、また積もった雪で動かれない町の中を、雪を掻き分け帰宅した覚えが甦ってきます。その雪の始末を終え、後輩に仕事を引き継いだ5月初旬でした。
経理関係のみならず、生産、販売以外の仕事も増加し、若人の確保も大変な苦労でした。大阪では採用できず、何年も武生高校へ通い、先生に後輩を推薦してもらいました(その後輩達も今や定年でリタイヤしている時代です)。何とか、在阪の大学へも足を運び、会社の宣伝もし、学生の確保も軌道に乗り始め、本社としての業務も整ってきた時、思わぬ話が飛び込んできました。
取引銀行の一つ、当時の三菱銀行から、社員の給与計算を銀行のコンピューター(淀屋橋に近い大阪支店にありました)を使って計算し、新たに開設した社員の口座に振り込めば本社業務の合理化になるし、銀行も取引先が増え、かつ口座の獲得にもなる。取引先拡大の候補にもランクされているので、何とか考えてほしいとの申し入れがあったのです。
これが武田にとっての、コンピューターとのお付き合いの始まりであり、会社業務のシステム化の第一歩にもなったわけです。
業界初のシステム化への道
先ずは社員番号の設定と給与構成のコード化でした。これを受けて、商品の開発と宣伝部長を兼任していた同僚の提案から、業界初の商品の品番化をしました。当社は商品も会社も会社業務も、業界トップを走っているというイメージをとにかく前面に打ち出そうとの提案に同意し、部長二人が先頭に立って走りました。商品だけではなく、カタログも伝票までも変更し、イメージチェンジに取り込むことにしたのです。
当時のスポーツ用品業界は、品名での商売でした。これを品番化しました。日本語で表示していた商品を、ローマ字と数字で全てを表示したわけです。色はJIS規格表示です。
次は、在庫の80〜85%を管理していた配送センターの在庫管理の、CPU(中央演算装置、すなわち計算機のこと)の導入による合理化でした。それと共に在庫品のロケーション管理です(我々の商品は素材、形、サイズ、色ごとの管理です)。季節により商品在庫数が大きく増減し、在庫期間も長短化します。
これらの効率化で、在庫品の効率と資金の効率と更にスペースの効率化を成し遂げました。特に当時のCPUとして、バッチ処理には桁外れに弱いがオンライ処理には非常に強いメーカーの機種を導入したことも、成功の一因でした。もう経理面からの視野だけでは、仕事が出来ないところまで来ました。
人、物、金、これに情報が加わり、経営状態を判断し、コントロールする道が見えるように、CPUシステムの設計、設定変更、グレードアップも果敢に行いました。これらを通じて学んだことは、
* 理解しないところに選択はない。
* コミュニケーションを良くすること。
* しかし ALL FOR ONE の精神を持つこと。
でした。
業界初の合併を行う
昭和50年に入ると、社長から極秘情報として「3社で合併する。相手は、オニツカ(株)と(株)ジィティオだ」と言われ驚きました。しかし、何日間か冷静に社長の動きを振り返って分りました。
業界にはオーナーの勉強会(確か、正和会と称したはずです)があり、相当前からオーナー同士が集まりいろんな角度から経営の勉強会をしていました。その上、公式会合の後までも、いろいろと話し合いをしていました。3人のオーナーはそのメンバー同士でした。この話し合いの終着駅が合併だったのでしょう。
ここで触れておかなければいけないのは海外進出問題です。海外進出の初挑戦として、ロスアンゼルスに開設していた駐在員事務所をベースにして、現地法人をオハイオ州に設立しました。公認会計士の監査を受けるために、国内はもちろん、海外にある子会社にも監査に行き、内部統制制度の良否はもちろん、親会社との連結決算に含めるかどうかの判断も必要とのことで同行したわけです。国内の監査法人と提携していた当時のPMM監査法人との打ち合わせと連携で、オハイオ州デイトンまで足を延ばしました。同じスポーツウエアーと雖も、社会が変わると変わるものです。また、倉庫にしてもオハイオ州の冬を考えた造りでした。商売のやり方も変わっていました。
当時の世界のスポーツ用品業界は、アディダス、プーマなどが一流メーカーと言われており、中でもアディダスは世界的に総合スポーツ用品 メーカーとして君臨していました。これに立ち向かうには、日本企業のスポーツ用品製販の総合化と海外進出に向け、早急な合併しか道はない、との結論しかなかったのでしょう。その上、「お前が経理部門の合併推進員をやれ」との命令でした。
企業の生い立ちはもちろん、考え方、仕入れ生産、販売、在庫管理など、すべての業務に関して、考え方が違えば、当然やり方も違うわけです。すべての仕事に3通りのやり方があったわけです。これを如何に早く統合して、統一するか、その上に3社ばらばらのシステムも統一しなければなりません。あっという間に合併期日の昭和52年7月21日が来ました。
合併実行
新会社の発足です。私は、取締役経理部長としてのスタートでした。あっという間に6ヶ月が過ぎました。そこへ、国税局から特調(特別調査)が入りました。合併3社の、個体としての最終の税務調査でした。
これが私にとっては、またとない勉強のチャンスでした。何が……と思われるでしょう。調査に立ち会うことで3社それぞれの会計処理の内容が手に取るようにわかるからです。税務上の問題も多くの違いが判りました。
システムの統一に欠かせない材料の提供が多くあり、やっと経理システムを軌道に乗せ、会計監査、税務調査も何の心配もなく受け、53年には海外での外債発行(USドル建て転換社債)、54年には国内での増資もやり、56年4月からは情報システム部長に就任し、前任者から引き継いだCPUシステムと経理の整合性の確認が取れ、ほっとしました。
4つの配送センターの業務とシステムの統合を終えてやっと業務の統一化が進んだと見るや、昭和57年の株主総会で監査役に就任することになりました。
ここまでの仕事で学んだこととは、改めて
* 自分の経験だけで判断するな。
* 必ずその時、その問題の背景と文書を読め。
* 文書は多種多様だぞ、ということ。
* 理解しないところに選択はない。
でした。
監査役時代と商法の勉強
経理と情報システム関係の担当時代は、経理の勉強と、情報システムの進む方向と会社と業界の進むであろう方向を見極めることに、心血を注いでいました。
国内会計監査、海外会計監査などにも多くの時間をとり、監査立ち合いなどで、やって来たことの有効性を確認することもやって来ました。
そのためには、公認会計士とも意見を交わし、国税局へも何回も出かけ事象ごとに処理の確認に行っていました。
でもこれからは、立場は違う。先ずは、取締役の職務執行の是非を判断する立場になった。そのため、合併前からお世話になっていた鮫島弁護士に再度お世話になることとなりました(合併後は、会社の顧問弁護士になって頂きました)。法務省で、民事局長をされ、現役時代には民法の鮫島と言われた先生で、役所の本棚には、今も先生のノートが保管されていて、民事に関する情報源であり、かつ合併に関しては、誰もが相談に通っていたという先生でした。
昭和60年4月18日に開催した定時株主総会では、なんと11時間36分という、当時国内第2位の長時間総会を経験しました。いわゆる特殊株主の質問責めにやられたのです。
先生との事前打ち合わせで、君は「やることはやっているから、何でも答えよ」と言われていたので、安心感をもって望んでいましたが、本当にやっていることは言える範囲で何でも答えたら、途中でぴたりと監査役に対する質問はなくなりました。当時の監査役は、会計経理のことには詳しくない方が多く、質問もその方向へ多く出ていたようでした。そのベースで私への質問も来ていたようです。監査役には答えられない質問を、選んで質問していたようです。
その質問に私が全て、すらすらと回答するものですから、攻撃的なヤジも出来ません。ですからもうどんな質問をしても、株主としての存在をアピール出来ないと思ったのでしょう。すっかり質問は来なくなりました。
この状況から、先生が考え出したのが、「一括上程、一括審議」と言う総会運営のやり方です。この提案も、口に出されるまでは、国内の多くの法学者・弁護士に相談され、悩んだ末に我が社に提案されたことを聞きました。(最近聞いた処、監査役経験者では、武田が、存命で最長総会経験者の記録者だそうです。懐かしい……)。
それからも、商法改正があり特殊株主の存在がなくなり、法的な規制も具体的に強力な規制が出来ましたので、我々が経験したような事態はなくなりました。
では、社内の仕事に関しては如何だったのか?
監査役としての仕事の一つが、私が執行部 時代にやって来たことの検証でもありました。
取締役時代にやって来たことが生きていて、業務として続いて行われているからです。何とも言えぬプレッシャーでもありました。特に、海外の子会社を含めた子会社への会計監査への同行立ち合いでは、海外の役員への質問よりも、私の方への質問の方が厳しい時も多くありました。若い会計監査人にすれば、私に聞いたほうが、本質の回答を期待できると読んでのことだと思って、回答した覚えもあります。
監査役に就任と同時に、日本監査役協会にも入会しました。前述のような経験から、当時の関西支部の所長から役員就任の要請がありました。本部の理事、支部の幹事に就任して、「中堅企業監査研究会」に参加し、更に並行して、昭和61年3月には「システム監査研究会」を設立しました。
この研究会は、城西国際大学の上園忠弘教授(博士、元IBM)に顧問に就任頂き、ご指導いただきました。このシステム監査研究会では、良く似た経歴の他社の監査役も何人か居られ、協力して「監査役のための『情報システム監査チェックリスト』と逐条解説」なるものを、16年4ヶ月の歳月を掛けて改訂を繰り返し、ようやく完成しました。平成14年10月の全国監査役会議で公表したところ、反応も大きく、監査役の監査業務の向上に寄与出来ました。実はこの年の前年に、私は監査役を退任し、顧問に就任していました。
後輩に贈る言葉
このように、国内外を問わず、総務・経理(税務関係を含めて)の業務改善から情報システムの構築、あるいは内外の子会社設立、運営管理まで、幾多の仕事に関わり通して来た人生では、本当に仕事を各方面から見て検討し、将来を見据えた業務の在り方に悩み、勉強してきました。でも、その背景は、世界情勢と経済環境も含めて、恵まれていたことに尽きるのでしょうか。運が良かったのでしょうか。良く世間では、運50%、努力が50%と言われるようですが、私は、運30%、努力70%と思いやってきました。でも、感謝の気持ちを込めて言えば、
* 私は本当に恵まれていました。
* 時の運に恵まれていました。
* 人の縁にも恵まれていました。
* 僚友達の存在も大きかったです。
一方では、一人の仕事からみんなの仕事にしよう、と頑張りました。
この間に学んだことは、言葉にできないほど数多くありますが、敢えて脳裏に残っている教えを幾つか記しますと次のような言葉です。少しでも若き後輩の目に留って参考になれば、これに越したことはありません。
* 出来た組織に入るだけなのか?
* それ以上に変える仕事はないのか?
* いまの仕事は、これ以上に変える必要はないのか?
もう一歩進めて言い換えれば
* 言われていること以外に、自分で何をするか
です。それを苦痛と感じるかどうかが、一流になるかならないかの分かれ目です。どんなに大きな会社組織でも、管理職以上の地位にあるものは、中小企業のオーナー的発想と判断が要求される時が多々あるはずです。ピーター・ドラッカーのこんな言葉もあります。
* 現状を把握しなければ、未来は語れない。
* 人間は、自分が望む未来の大きさに合わせて成長する。
* 計画とは、未来に関する現在の決定である。
* 総ての偉大な成功は、地味で面倒なことの積重ねの上に成り立っている。
あとがき
若い方々には、どんな仕事にも臆することなく、門を叩き、聞くべきことは何でも聞き、担当する仕事に対し何か一つでも、プラスアルファを付ける人生を歩んで頂きたいものです。どうか、何事にも目を背けず、読み書き算盤の基本はもちろん、海外へも目を向け、能動的に動く日本人になって頂きたい。最後は、判断は自分自身。それが出来る材料を身に付けて、人生を切り開いて欲しい、と念願している次第です。

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