甲子園の思い出
― 野球に打ち込んだ青春 ―
武 田 祐 一

武田 祐一(武高30会会員)
TAKEDA, Yuichi
旧姓斎藤。1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年、プロ野球球団東映フライヤーズ(現在の日本ハム球団)に入団、捕手として活躍。1957年同球団を退団。以後、郷里にて実業家として活動し、眼鏡枠の製造関連の家業に従事。現在、株式会社
タケダ 取締役。(福井県越前市在住)
まえがき
今回、武高30会傘寿記念文集の執筆依頼を受け、私にはやはり、若かりし頃の野球一筋の思い出を語るのが一番相応しく、また武高30会の歴史の一端として記録に留めることは私の義務のようにも思えました。そのためここでは、私の野球人生の端緒となった中学時代のことから話を始め、甲子園出場を果たすまでの経緯などを書き留めたいと思います。過去に執筆した幾つかの文を統合して、ここに再執筆を試みます。
中学時代
武生第一中学校に入学した昭和24年は、終戦の痛み・悲しみから幾分落ち着いたころで、各種の運動部の中では野球部が際立って活動していた時代でした。野球を唯一得意とした私は、何の迷いもなくすぐ入部しました。
当時は、グローブも今日のような皮製のものではなく、私たちが使用出来るのは布製でところどころに綻びがあるような粗末なものでした。スパイクもなく、素足を覆うだけの布ズックを履けることが、私たちには精一杯の贅沢でした。またバットやボールも数が少なく、バットが折れると釘やゴムテープで補修して使用し、練習が終わると、散らばったボールを部員も先生も父兄も暗くなるまで捜し回って集めたものです。
当時校舎は建築中で、1年生の時は間借りの武生南小学校で授業を受け、放課後は西小学校のグラウンドで暗くなるまで練習をするという毎日でした。夏に武生高校が初めて甲子園への出場を果たしたことに深く感激し、私も甲子園の土を踏んでみたいという思いが募り、当時の監督であつた春田先生、コーチの神門先生の熱心なご指導の下で、それまでにも増してただひたすら猛練習に励み、苦しみに耐えてがんばっておりました。
中でも一番の思い出は、やはり昭和26年、3年生の夏に行われた県体オープン戦の準決勝です。小浜中学と対戦し、猛暑の中、延々30回の熱戦でも勝負がつかず、汗にまみれて無我夢中で闘った長い試合のことは、今も頭の片隅から消え去ることはありません。この年、武生市の体協より最高栄誉賞を受賞し、また、10月の県選抜野球大会では優勝を勝ち取りました。
高校時代
一中での3年間の野球体験を経て、武生高校の野球部に入りました。1年生の中頃から捕手としての定位置に付き、以来数多くの対抗試合や大会に出場しました。2年生の春の知事杯争奪野球大会では勝山精華、丹生を破り、決勝では強敵若狭を破って優勝。しかし全国大会の県予選では、高志、乾徳を破って準決勝には進出したものの、宿敵若狭に敗退し、甲子園への夢は破れました。しかし秋の知事杯戦では、準決勝で若狭を、決勝で敦賀を破って優勝しました。
そして3年生、春の知事杯戦では準決勝で敦賀に大敗を喫しましたが、全国大会の北陸予選に出場でき、富山の強豪滑川を6対1、準決勝では敦賀を10対7で破って雪辱を果たし、決勝では勝山精華を6対1で下して、武生高校としては5年ぶり2回目の甲子園出場の切符を手にしました。部員一同、大喜びしたのは言うまでもありません。
甲子園出場
1954年(昭和29年)8月13日、いよいよ第36回全国高等学校野球選手権大会が甲子園で開幕しました。開会式当日の私の感動の日記の一部をここに再録します。これは武生高校野球部百年史(平成19年11月23日発刊)に掲載されたものです。
「いよいよ今日から大会が開幕。朝7時に起きる。どうも落ち着かない。朝食を済ませ、8時半にユニホームを着る。生れて初めてつける背番号。牧野は1番、田中は6番、ぼくは2番。お互いに背中を見せ合いながら嬉しそうに騒いでいる。宿の玄関で谷口監督に記念写真を撮ってもらう。10時から晴れの入場式。われわれは高松商校についで8番目に入場。球場をいっぱいに埋める観衆は約8万。感激に胸をはずませながら“甲子園の土”を一歩、一歩力強く踏む。君が代の吹奏とともに、青空にくっきり浮かぶ国旗と大会旗のはためきが印象的。いろいろ世話になつた先輩諸氏の顔が次から次へと浮かんでくる。そしてやさしい母の顔が…。今日こそが“わが生涯の最良の日”である。」
念願が叶い、北陸代表として、また全国23代表校の一つとして出場した夢の甲子園大会で、運命の初戦、8月16日がやってきました。好投手と名高かった前岡投手を擁する強豪の新宮高校(紀和代表・和歌山県)と初対戦し、健闘するも5回と6回に各1点を失い、2対0で惜敗。私自身は9回裏の土壇場の最後の打席で遊撃手強襲の安打が打て、結局3打数1安打。最後の一打で4番打者の責任が少しだけ果たせたようにも思い、負けはしたものの、清々しい気分で甲子園を後に出来ました。
半世紀後に思う
そして今、郷里での伝統工芸に関わる家業に携わりながら、ときどき昔のことを懐かしく思い出しています。幸い中学時代から体力にも恵まれ、自分の好きな野球に一心不乱に打ち込めたことが、青春時代の熱い思い出として、半世紀以上、実に62年が過ぎた今も、深く心に残っています。
毎年、夏の甲子園大会が開催されると、遠い昔に、憧れの同じ土の上で戦った思い出が蘇り、心が騒ぐのを覚えます。私たち、当時の野球部ナインは全員が、谷口監督のもとで甲子園に出場したいという強い思いを持って連日猛練習を続け、福井・北陸の強豪を打ち破り、夢を実現することが出来ました。甲子園での奮闘をTV観戦するたびに、今の球児たちもおそらく、私たちと同じような熱い思いを心に抱きながら戦い、いずれそれを思い出としてそれぞれの新たな人生を紡いでいくのだろうなと想像します。
とくに私には、幸せなことに、当時早稲田大学の捕手として活躍されていた浜本先輩が、帰郷の際にグラウンドに指導に来られ、この先輩の豪快なバッティングや堅実な守備を目の当たりにして、とても感激したものでした。この先輩を目標に、少しでも近づきたいと頑張ることも出来ました。夢の甲子園に出場したことで、プロ野球の東映フライヤーズからスカウトされたことも、私の最高の思い出となり、良き先輩、同じ夢を追った良き同輩や後輩たちに、今でも心から感謝の気持ちで一杯です。とくに牧野投手とは、実に長い歳月にわたり、一緒に夢を追いました。彼の女房役として、スピードボール独特のシュートボールを、小学・中学・高校・プロとキャッチング出来たことを、大変幸せに感じています。
また、同期の武高30会の皆様の心温かい声援は、当時のままに今も胸に蘇ってきます。皆様が私たち当時の野球部員を、「母校の代表として立派に戦った」、「同期世代の英雄として大きな夢・希望・勇気を与えてくれた」と高く評価してくれているのを知り、嬉しく思っています。
現在のように、物の有り余る時代からは想像も出来ないとは思いますが、貧しく苦しい中から、部員全体が夢と希望を持って心を一つにして協力し、励ましあいながら歩んできました。後続の若い人たちにも、是非、夢と希望を持ち、強い心を養って頂きたいというのが、執筆を終えるに当っての私からのメッセージです。

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