田舎の小さな国際交流
― わが人生を彩った交流物語 ―
萩 原 與 市

萩原 與市(武高30会会員
HAGIWARA, Yoichi
1952年武生第二中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年 堺市の福井商店に勤務。5年の奉公を経て武生に戻り、家業の越前打刃物卸問屋を継ぐ。この間、海外のペンパルとの文通、愛犬との山歩き、北アルプスの登山などを楽しむ。また卓球・マラソン・水泳も趣味とし、毎夏、友人たちと敦賀湾横断遠泳大会を敢行。マスターズ大会では50m自由形で県新記録も。1995年世界体操選手権では通訳ボランティアを務めるなど、自称:街の国際交流員として趣味の英語を活かし、当地を訪れる外国人との相互理解に貢献。また、夫婦で写真の趣味にも打ち込み、時折、撮影旅行を楽しみつつ現在に至る。(福井県越前市在住)
戦後の時代
「ギブミーチョコレート!」……これが外国人に私が発した初めての英語だった。頃は1945年(昭和20年)、確か小学3年のときだった。世界中を巻き込んだあの大東亜戦争がようやく終って、暫くしてからのことである。
「これからは英語の時代や! しっかり勉強しとかなあかんで……!」。母が言ったこの言葉が今も私の脳裏に強くこびりついている。雑誌には、「一口ポケット英会話手帳」なるものがおまけとして添付され、街中に氾濫していた。3歳年上の姉が、それを買って来て私にくれた。私は早速、ギブミーのくだりを一生懸命丸暗記したものである。そして、これを使うチャンスを虎視眈々と狙っていた。
街には、信越化学というコークス、カーバイドなどを作る大きな軍需工場があって、捕虜のGIたち(アメリカ兵など)がかなり働かされていたが、終戦の8月15日を迎えると、彼らは一斉に解放された。時をあけず米軍の飛行機から、近くを流れる日野川の川原にパラシュートで救援物資が投下され、彼らはピカピカの軍服、マドロス・パイプ姿に変貌して、街の中を格好よく、颯爽と歩き出した。
そんなある日、近くの表川で魚獲りに夢中になっていた私は、すぐこのGIを見つけ、急いで近寄り、声を張り上げたものだ。「ギブミーチョコレート!」。そのGIはガキの小僧を見下ろし、すぐさま胸のポケットから、見たこともない分厚いチョコレートを取り出し、1枚私に掴ませてくれた。この出来事が、私の長い英語人生の始まりとなった。
中学・高校時代
時は経ち……私の中学の頃からか、洋画全盛になり、私も含め、若者たちの多くは、あのエリザベス・テーラーやゲーリー・クーパーたちの虜になってしまった。彼らの美麗さ、格好良さ、何よりも、日本とは雲泥の差のある西洋社会の豊かさに心から憧れ、深く傾注して行った。これが私を英語の世界にのめり込ませる大きな要因の一つになった。
その頃である。進駐軍武生司令部でGIの通訳をされていた丹 春雄先生が、武生高校に赴任して来られた。即、先生の目に留まってしまい、県下英語弁論大会への出場を勧められ、発音の特訓を受けた。お蔭で第2位の栄誉を得ることができたが、この受賞も、私の英語人生への強い後押しになったのはほぼ間違いない。
1952年、高校1年のとき、ヘルシンキでオリンピックが開催された。このときの日本選手団に、私たち郵趣会は一人ひとり手紙を託した。私は運よく、金髪の美人、エバ・レフトーネンさんに届き、以来彼女とは何年間も文通が続いた。交わした手紙の数は300通に及ぶだろうか。好きな英語だったから苦痛には思わなかったし、この文通で、私の英作文力や、交流の仕方などが養われたものと思う。「鉄は熱いうちに打て!」が実感される結果となった。
ALTたちとの交流
中年期になる頃、福井県の各中学・高校には、補助英語教員(=ALT)が他県に先んじて盛んに配属されるようになった。ちょうど高度成長期でもあり、新しく出来た武生のゴルフ場にも、金髪のうら若くて可愛い娘さんたちが大勢やってきた。彼女らは水泳が大好きで、仕事終了後、毎日のように私たちのプールにやってきた。腰が痛かった私も、毎日のように通っていた時期であった。おのずとそこで会話するようになり、私の英会話にも磨きが掛かった。
その中の一人で、オーストラリアから来ていたシャロンさんに、私たちが毎年企画している敦賀湾遠泳大会に出てもらい、こぞって完泳したことがあった。このことが深い絆となって、メルボルンへ帰った後も親密な交流が続いた。その後、家族を引き連れてわが家へと、挨拶がてらに立ち寄ったことがあり、名物の「おろし蕎麦」や「会席料理」なども堪能してもらった。
ALTの中にニュージーランドから来ていた優しい女性がいた。彼女とは、私のよく行くレストランなどでよく出逢い、いつの間にか親しくなっていた。しかしあるとき、勤務上のストレスからか、急に体調を崩して入院。仲良かった私たち夫婦は、ALT担当主任から援助を頼まれ、帰国するまでの2年間、ケアをし続け、帰国時には溢れる涙で別れを惜しみ、「日本のお父さん、お母さん!
アリガトー!」と日本を去っていった。今もって手紙には「日本のお父さん、お母さん」と書かれ、涙が滲んでいる様子が感じられる。
アンクル・ヨイチ
交流してきた人たちの中には子供たちもいた。1998年、米国ディズニーランドへの一人旅をしたときのこと。小学2年のマディちゃんという可愛い子どもとその親に出逢い、そこで撮った写真を帰国してから先方に送った。これがきっかけとなり、思いがけずも、彼女の通う南カリフォルニア・コンコルディア小学校の日本語教室(40余名)の生徒たちと親しく交流するようになった。「アンクル・ヨイチ、アメリカへ来てください!」と、日本語交じりの可愛い手紙や贈り物が、ダンボール一杯に送られてきたりした。その中の一人は、今では美人に成長し、先日写真を送ってきた。
2011年3月11日の東日本大震災のときには、度肝を抜かれるような話があった。「日本は今、放射能が危ない!
私の移り住んでいるモロカイ島(ハワイ)へ移って来ませんか?」と、メールが来た。前述のマディちゃんの母親からである。日本では考えも付かない、スケールの大きい厚意、愛情である。丁重に、かつ、心からの謝意を申し述べたことは言うまでもない。
もう一人のALT
イギリス出身で、武生でALTをしていた大変聡明で美人のソフィー・バレットさんについても、ここで書き綴っておきたい。彼女も、休日にはジム通いをしてバイクを楽しみ、健康増進に精を出していた。私はプール、自然と廊下で出逢い、いつの間にか親しくなっていた。中秋のある快晴の日に、武生の西方にある険しいことで有名な「鬼ヶ嶽」の登山に誘うと、二つ返事でOKが出て、私の友人ら4人で山頂を目指した。山頂にある山小屋に備えられた登山者ノートに、彼女はこの登山の「思い」を書き留めた。実に素晴らしい文章であった。(編集部注:この紀行文についてはここを参照下さい)。
彼女は、当時、鯖江市を中心に開催された世界体操選手権での実況放送を頼まれ、帰国の予定を1年延ばし、この大役を終えてから、夫と手を携えて米国ボストンへと旅立って行った。今は可愛い子にも恵まれ、幸せな日々を送っていることを付け加えておく。
交流で思うこと
私は、生まれ育った田舎町で、こうして人生を送ってきた。その間、数えればきりがないほどの交流があった。その中でいつも感じることは、外国人はこちらから話しかけると真剣になって話し相手になってくれること、明るくて心が広いことである。また一番強く感じたことは、彼らには「ふた心」がないということである。
田舎に生まれてもうすぐ80年、出世とはまったく無縁の人生ではあったが、子どもの頃に好きになったアルファベットをずっと愛おしみ続け、たくさんの交流をしたこの体験は、何物にも換え難い宝物と思っている。この種の交流には、体力はあまり必要としないので、これからのわが家の老々の環境の中においても、是非続けてみたいと望んでいるところである。

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