人生は二山 ! 旅の空から
― 歩けば風の色がみえてくる ―
畑 中 一 一

畑中 一一(武高30会会員)
HATANAKA, Kazuichi
1955年武生高等学校を卒業。同年株式会社熊谷組に入社。1997年まで在職、神戸支店副支店長。1997年、関連会社アーキベスト関西支店取締役支店長。1999年1月に早期退職し「平成の伊能ウオーク・朝日新聞社他主催」の本部隊員として参加。日本列島を2年間延べ11030
kmを完歩。この体験を活かし英国他海外ウオーク実踏を経て、日本ウオーキング協会、公益財団法人大阪府レクリエーション協会に所属、ウオーキング指導、講演、講座、執筆他を行っている。専門講師、主席指導員。健康ウオーキング指導士、生涯学習1級インストラクター、大阪府健康21推進会議委員。高知県産業振興アドバイザー、読売新聞わいず倶楽部・ウオーク部アドバイザー、越前市ふるさと大使、大阪福井県人会幹事長他。2013年9月
大阪府知事より体育功労賞を受賞。(大阪府大阪市在住)
1 楽しみながら歩けば…
“楽しみながら歩けば風の色がみえてくる”。この爽やかなフレーズは、朝日新聞の辰濃和男さんが「天声人語」に書かれたもの。私共JWA・日本ウオーキング協会が、お願いして使わせて頂いている。この地球に人類が二本の足で立って歩きだしてから約500万年。「二足直立歩行(bipedalism)」が、人類に限りない進歩をもたらした。しかし20世紀に入ってからの急激な技術革新やモータリゼーションの台頭は、便利で豊かな暮らしをもたらしはしたが、その一方で失ったものも決して少なくない。物質文明や機械文明が人々を豊かな幸せに導く上で万能ではないことを教えてくれる。国・厚労省のスローガン「健康日本21」は、心身の健康をめざし「21世紀を歩こう!
」だ。21世紀は「歩く世紀」。不肖私も、14年このかた、毎年10月の体育の日に「越前市健康21ウオーク」のお世話をさせていただいている。
2 郵便配達のこと
私は生まれつき病弱だった。もう80歳に近いが検診で撮るレントゲンには、幼児期に患った小児結核の痕が左肺の下部に白く残っている。私が5歳の春、食糧難と近づく戦火の足音からの避難もあって、私達一家は京都から父の親戚を頼って南条郡王子保村今宿(現 越前市)へ疎開した。早速、武生駅前の林病院へ通うようになり高久(たかひさ)さんという年配の先生に4〜5年お世話になったように思う。高久先生いわく、「薬で病(やまい)は治らぬ。ボン(私)が自分で治すんじゃ。雨の降らぬ日はぼちぼち歩いておいで…これが一番の薬なんじゃ」と。月に二度の診察日は学校を休み、母と一緒に往きはバスで、帰りは約5 km、天気のよい日は武生〜王子保間、国鉄の線路を歩いて戻ったものだ。単線の線路の脇道は頻繁に列車が通ることもなくのんびりと歩け、春には「つくし」や「よもぎ」を母と採りながら帰ったことを懐かしく覚えている。初めは心細く辛かったが、先生に弱音も吐けず、言われるまま辛抱に辛抱を重ねた。たしか4年生の時、先生が転勤(?)となり、挨拶に伺ったときに母と私に真顔で「歩くのが体に一番良い…大人になっても煙草はいかん…白墨を使う仕事もいかん…ボンには郵便配達が一番よい…雨の日も風の日も毎日歩くからな…」と言われたことを今でもよく覚えている。何を貰ったか薬の名前はとんと想い出せないが、この「郵便配達」のことは、のちのち、私の「生きる」座標軸ともなっている。
3 武高時代と測量実習
こうして薬の効果か、歩く習慣か、それとも母の私への一途の想いだろうか…、ようやく体も人並みに近づきだした1952年4月、武生高校普通科に入学した。当時、私の住む近くに一年先輩で工業科に通う山下繁さんがいた。山下一家は満州から引き上げられ、最初から迷うことなく県庁か武生市役所への就職を考え工業科を選ばれたと聞いた。学業のかたわら母君が勤めておられた保育所でアルバイトをやりながらオルガンを習い、公民館が主催の「レコードコンサート」にも時々連れて行ってもらった。この山下先輩との関わりが更に深くなったのは、先輩が土・日や夏休みに測量機具を担いで測量の実習に行くのを知り、夏休みに一度、「面白いぞ、手伝わないか?」と誘われた頃からだ。戦後ようやく国が始めだした農業構造改善・土地改良事業で、土地の原図や台帳づくりの仕事の一部を学校が県や市、町役場から引き受け、生徒の学習にと始め出した頃だった。今は見慣れた風景だが、山裾に曲がり這うようにして段々につづく棚田や曲りくねった川や道路。この地形を変え、農作業の機械化、経営効率を高める新しい「区画整理」事業。今から約400年前に豊臣秀吉が行った「太閤検地」以来の農地改革による「農地整理」がようやく始まった頃だった。
手伝ううちに測量が面白いこと、体が丈夫になること、裕福でないわが家で学資を自分で稼げることに気付き、進学をめざして入った普通科から、一年生の期末に工業科へ転科した。当時、京都へ進学が決まった二歳上の姉からは、この転科を厳しく責められたが、「郵便配達」のことがあるのか、母からは何も咎められなかった。現在と違いまだ車の少なかった当時、土・日は5 kgほどもある測量機械他を担いで遠方の宮崎村まで歩いて区長宅で一泊、翌、日曜に現地測量をみっちり行い、学校に戻り実測図を仕上げた。卒業の年には正規の実習で補うほどに依頼の仕事が増え、納めた成果品の成果から、コツコツと積み上げるルーチンワークの大切さを学んだ。
4 県境のダムサイトで
1955年4月に熊谷組に入社した。最初の赴任地が武生から東へ約40 km。大野から南東へ約25
kmの山奥、岐阜県との県境の西谷村(当時)で、福井県が行う真名川総合開発のダム工事だった。大野から車でデコボコ道をノロノロと眞名峡の上流へ約2時間余、ダムサイトは、電気も道路もない野生の猿が棲む険しい山峡だった。これまで家を離れたことのなかった弱虫が…尻尾を巻いて里に逃げ帰るか?
それともここに残れるか? この僻地で過ごすこれからの約3年余。厳しい選択を迫られる18歳の春だった。
大野市から重量資材を大量に運ぶ道路や橋の補強や新設。大容量電源の引き込みなどの始まる準備工事と並行し、県境に連なる山嶺の三角点からダムサイトへの基準点(ベンチマーク)の移設測量が最初の仕事だった。この仕事はこのプロジェクトの生命線。移設ベンチマークの緯度、経度、標高に万一誤差があると、このダムから下流に広がる発電や利水計画に大きな障害が生じることになるのだ。
私達はチームを組み、岐阜側からと大野側からダムサイトまで位置(緯度と経度)・標高を移し、許容誤差の範囲内で基本測量を終えた時、チームで喝采したが、武高時代の実習が大いに役立った。
この測量チームに国から福井県に派遣されたNさんと言う技師に何かとお世話になった。恐らくは新米の私の挙動が、危なくて見ておれなかったのだと思う。急ピッチで準備工事が進んで谷間に電気や電話が通じ、日に2回ほどバスが通い出し、私設郵便局ができ、冬季の越冬マイナス20度にも耐える事務所や宿舎が建ち並び、ダムサイトが昼夜、稼働し始めたころ、毎日の現場の測量や、日毎にダイナミックに変わってゆく現場の姿に、躍動感、達成感を感じ始めたものだ。そして毎日の測量業務が、遥か150年前の1800年、「我が国の測量の父・伊能忠敬による日本全土の実測にさかのぼる」こと…この気の遠くなるような事実を現場から学んだ。
2年目に入った頃の5月だった。ダムを造る「堤体コンクリート」の昼夜にわたる打設が本格期に入りだした頃、夜勤の当番(監督)で偶然、前述のN技師と一緒に朝まで過ごしたことがあった。プラント(工場)からクレーンでダムサイトに運ばれてくる大量のコンクリートの品質や現場での打設が仕様通り適正か?を発注者(県)と施行者(熊谷組)で監督を行うのだが、2年目から私も「教えて貰ってこい…」で、久々の夜の出会いとなった。県境の山峡。夜空に輝く星と月を眺めながら気さくに「元気で頑張っているじゃない?…」と話しかけられ、1年前のベンチマーク移設のことや「よいコンクリートとは…」などなど、仕事の話から次から次へと話題が移り、真夜中の夜食を二人で食べ「中原中也」、「芭蕉」から「小林多喜二」などへと話が広がり、空を見上げると月がもう西へ傾きかけていた。真夜中の星月夜、「ゴッホの名作・星月夜」のような夜が、こうもさせるのか…。30代後半(?)のこの方は、一瞬、詩人では…と想うほど。「渓流(たにがわ)で冷やされたビールは、青春のやうに悲しかつた…」で始まるあの初々しい「中也の渓流」をとつとつと話されるN技師に、心の奥にコツコツと集められた宝物を垣間観た想いがした。
そして夜も白む明け方の夜勤明け、「畑中君。この大きな自然の前に人間は小さく弱いもの…。でも“弱さ”を持てることは“財産”だと思うよ。この“弱さ”を自覚するとき、初めて人は強くなれる…怪我だけはするなよ…私はこの真名川が順調に動き出したので次の任地へもうすぐ行く」。当時の私を見透かしたように言われた「一期一会」の旅人の言葉。後年、年を経るにつれ「目から鱗が落ちる」想いのこの言葉は、「郵便配達」とはまた違った意味で、当時から60年近く過ぎた今も私の中で鮮やかに生きている。
5 峠に吹く風
私の住む大阪府の東に奈良県、南には和歌山県があり、県境には北から南へ約100 kmほどの間に、生駒山(642m)、二上山(517m)、葛城山(959m)、金剛山(1125m)、紀伊葛城山脈(955m)と山並みが続いている。この県境に連なる山と山の鞍部には大小併せて13ヶ所ほど、大阪から奈良、和歌山に通じる街道と「峠」がある。古くから交易の道や信仰の道として栄えてきたが、山を隔てた国や村が一本の道でつながり、気候や風土、歴史や慣習など異なる文化がゆっくりと時をかけ育まれ現在に至ったのだろうか? 街道の「峠」に立つと何となくこんなことを感じさせてくれるから楽しいものだ。「峠」に立ち、歩いてきた道や集落や川、これからの行く手を見渡し「平面的な地理・座標」を眺め、これに高さの軸を加え「鳥」が空から地表を見るように「俯瞰」すると、それは「3D」、3次元の世界。さらに歴史とか年代の時間軸を加えると、そこはもう濃密な4次元の世界となる。わが国の国宝や重文の約6割が集まり、古代より王朝が永らく続いた4次元の世界を眺めていると飽きることがない。
私がときどきウオーカーや団体を案内する「伊勢街道」の「暗峠(くらがりとうげ)」は、生駒山頂の南約2 kmに位置し標高455m。「伊勢街道」の基点・大阪上町台地、玉造神社から伊勢までは170 km。「暗峠」は24 km地点にある。いまは電車で「伊勢詣で」だが、およそ100年前までの「お伊勢参り」は、クリスマスの頃に玉造を出立し、5〜7日かけて大晦日前に伊勢に着くのが習わしだった。「暗峠」から見下ろす八尾市、東大阪市他の大阪平野の標高は約10mで、今から1000年ほど前には、ようやく湖から干潟へと移行した時代。一方、奈良側に目を向ければ標高100m前後のゆるやかな盆地がつづき、「暗峠」に立つと誰の目にもこの違いが判り、奈良に王朝ができる訳が理解できる。
峠で想い出深いのは、2004年の春、第三次・歴史街道「中山道・536 km」を東京・日本橋から京都・三条に向けて歩いた時のこと。「中山道」にも標高1000m以上の峠が4ケ所あるが、なかでもこの時の東京から三番目の「鳥居峠(標高1197m)」越えは印象的だった。4月2日に東京・日本橋を出立、11日目の4月13日、朝、北の奈良井宿を出立、南の上松宿に向け28 km。信州の春は遅く峠の入口、北の登り口ではまだ残雪があり、微かに陽のあたるところでは梅が咲いていた。ゆっくり残雪を踏みしめ鳥居峠へ。心地よい峠の風が温まった体をほどよく冷まし、谷の水で喉を潤おし、つづら折りの道を下ると南斜面に雪はなく、麓では桜の小さな蕾が開花を待っているではないか…。何とも、まさに春の椿事、同じ日に峠を分けた北と南で妙なる自然の摂理を体感できた印象深い日だった。
6 奥の細道を歩く
私の好きな人物のひとりに俳人・松尾芭蕉(1644〜94)がいる。1689年の春、「日々旅にして旅を栖(すみか)とす」と、江戸の深川から身を隠すようにして「みちのく」へと旅立った。私は俳句について全くの木偶の棒だが、しかしなぜ、輝く名声と多くの門人と袂を分かち、身分を捨て、再び戻ることのない「自分への旅」をめざしたのか…。もう一つ、なぜ、最初が「みちのく」だったのか? そこのところは長い間の関心事だった。
そんな折り1999年の冬から2年間・日本一周「伊能ウオークの旅」に、願ってもない参加のチャンスが訪れた。この機を逃してはならじと会社に無理を申し退職を早め、1999年1月、厳寒の冬から春にかけ「みちのく」の自然へと出立。芭蕉が歩いた道と交差する福島、宮城、岩手、秋田、山形へと「歩く旅」は、さながら歴史の道を歩く旅。歴史の交差点を訪ね歩く想いだった。旅の途中で、ふと気が付いたのだが、芭蕉は唐の杜甫や故事をよく知っていることだった。藤原三代栄華の跡、平泉の高館では「国破れて山河あり…」「笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ…」と記し“夏草や兵どもが夢の跡”と詠み、秋田の象潟(きさがた)では「雨の象潟を恨むが如し」と記し“象潟や雨に西施がねぶの花”と詠んでいる。西施とは唐の美人。現在とは異なり情報の少ない時代、並々ならぬ西国への想いは不思議と言えば不思議。後の1694年、長崎への旅をこころざし大阪で発病、御堂筋・花屋で客死した。でも、なぜ、芭蕉は西へ…?。
“あかあかと 日はつれなくも 秋の風”は、なにわの上町台地、夕陽が丘、大江神社に残る芭蕉の句碑。秋の夕日の沈む頃、ここに立つと私も「芭蕉」を身近に感じる時がある。
7 海の細道を読んで
芭蕉の研究でも知られる気鋭の俳人・長谷川櫂氏が2011年1月から約1年、ご記憶の方もあろうが、読売新聞夕刊に「海の細道」と題し「奥の細道」以降の芭蕉を描いた連載が始まった。長崎への旅への途中、大阪で客死したが、芭蕉の本当の目的地は「唐の国」だったのでは?との大胆な発想から物語は展開する。行く先々の芭蕉が詠んだであろう場所で作者が詠み、「海の細道」を旅する異色の作品だった。10年前の「みちのく」平泉や秋田の象潟での冷めやらぬ思いもあり興味深く読んだが、遣唐使船や平氏・清盛も好んで通った瀬戸内海は昔も今も海の動脈。ところどころで小島や四国にも立ち寄り、前述の4次元の世界へと読者を引き込み、西へ、さらに西へと向かう吟行は「奥の細道Part-2」の趣もあり、「旅とは何か…」を探る紀行の楽しみは尽きない。御堂筋で倒れた芭蕉は、郷里の伊賀上野でもなく、江戸でも京都でもなく、琵琶湖のほとりの小さな寺に埋葬をなぜ望んだのか? その昔、杜甫(712〜770)も、相江の川を漂う船で客死した。芭蕉の遺体を義仲寺に運ぶには船で淀川を遡らねばならぬ。とすれば、杜甫のように船に横たえられ水を漂うことになる。“旅に病んで 夢は枯野を 駆け巡る”、それは死を前にした芭蕉の「遊び心」ではなかったか…と、つづくのだ。
8 ウルマンがめざした人生の旅
青春とは人生のある期間ではなく
心の持ちかたを言う
年を重ねただけで 人は老いない
理想を失うとき 初めて老いる
歳月は 皮膚にしわを増すが、
情熱は失えば 心はしぼむ……
サミエル・ウルマン 『青春』より抜粋
今から34年前の1982年7月、当時、東洋紡の社長だった宇野収氏が日経新聞のコラム欄に上掲のウルマンの詩『青春』を紹介されるや、大きな反響を起こしたことがあった。これが縁で謎のウルマンのルーツ探索へと、一企業の部長だった作山宗久氏と宇野収氏との情熱が実り、1985年アラバマ州バーミングハムの小さな図書館で詩集の「原本」をついに見つけた熱いドラマを、今でもよく覚えている。マッカーサー元帥も戦場で常に持ち歩いたという『青春』。
ウルマン(1840〜1924)は、ドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人。父母と米国に移民、永住の先が南部アラバマ州だった。バーミングハムで金物商を営むかたわら後年社会事業にも熱心なユダヤ教徒。ウルマンは人生の後半、詩の創作に興味をもち60代後半から、幌馬車で小さな旅に出て夜の星や空を眺め詩を創作し、親しい友人に贈り届けたという。彼の80歳の誕生日を記念し親しい友人達が、ウルマンから届けられた詩を持ち寄り自費出版したのが真相のようで、ウルマンの詩は世に出ることもなく静かに語り継がれ時を経た。それが戦後、海外では雑誌「リーダーズダイジェスト」、わが国では前述の日経コラムで紹介され、一般の人々のみならず、起業家、経営者に大きな反響を呼び起こした。
当時、私は一企業人として和歌山県に赴任、昼夜を分かたず飛び廻っていたが、60歳の誕生日に、ウルマンにあやかり、好きな詩編と好きなバッハを収めたCDを友人に届けたものだ。『青春』をはじめ、ウルマンの詩は、年齢にかかわりなく「生の継続」を呼びかけ、「実りのある人生」とは…「豊かな収穫」とは…何なのかを私たちに問いかける。あれから20年、44年間の企業人生をどうにか終え、幾つかのボランテイア活動に関わることになった。幼い頃から全てに弱かった自分を省みて、後年「旅」の多かった暮らしは、怠惰な私を何かと励ましてくれた。
人生は二山(ふたやま)。一つ目は多くの方に助けられ越えることが出来たが、二つ目はこの先どうなることか。峠や山、谷もあろうが急ぐこともあるまい。できれば少しゆっくり「旅」を続けたいものだ。
終わりに、あの『青春』はさておき、ウルマンの「人生行路の贈り物」を記して稿を閉じる。
| 人生航路の贈り物 |
| Valentines on Life´s Highways |
| by Samuel Ullmann |
| |
| 私はいばらのない道を求めない |
| 悲しみが消えよとも求めない |
| 日のあたる毎日も求めない |
| 夏の海も求めない |
| 輝く陽光と |
| 永遠の昼のみでは |
| 大地の緑は |
| しぼみ消える |
| 涙の水がなければ |
| 歳月を通じて |
| 心の奥底は |
| 希望のつぼみを閉じる |
| 人生のどんなところでも |
| 気をつけて耕せば |
| 豊かな収穫をもたらすものが |
| 手の届く範囲にたくさんある |

|