ものづくり60年の挑戦人生
― 社会に役立つ夢を追って ―
早 川 豊

早川 豊(武高30会会員)
HAYAKAWA, Yutaka
旧姓真柄。1952年南越中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年、(株)日本ピーエスに入社。1980年までに、フレシネ―技士、1級土木施工管理技士、1級造園施工管理技士など、各種資格を取得。1986年北陸支店工事部長、1990年本社敦賀工場長、1996年7月
同社を定年退職し、早川建設有限会社を設立。2003年株式会社真建に社名変更し現在に至る(福井県敦賀市在住)
母と田畑で働いた少年時代
私は、昭和11年(1936年)7月、旧今立郡服間村領家(現在:越前市)の半農・半商の家に8人姉弟の4番目の二男として生まれた。
父は商売のため家を留守にすることが多く、私たちが小さい頃は、母が一人で農作業から育児、家事をやっていたように思う。
毎日を忙しく働く母の背中を見て、私も小学校の4年生の頃からは、兄や姉と一緒に、学校から帰ると農作業を手伝ったものだ。
土・日曜はもちろんだが、5月の田植えと10月の稲刈り時にはとくに多忙を極めた。母と兄弟が月明かりで夜の9時頃まで、ハサに稲束を掛けたあの当時のことが、母の姿とダブリ、なぜか今、無性に懐かしい。「親を想うとき親はすでに無し……」だが、今頃になってようやく、親が私達に残してくれた「大切なこと」に気がつく時があり、ふと心が痛むのだ。
武高入学と初めての電車通学
昭和27年(1952年)に武生高校(工業科)に入学した。領家から武生まで初めての電車通学はとてもうれしかった。当時は野岡駅まで自転車で約20分、野岡駅から武生新駅まで電車で約40分ほど乗って、1年生の時は更に南校舎(元の女学校)まで歩いて通ったものだ。自宅から南校舎までは、電車の待ち時間なども合せて1時間半(90分)は要したろうか。朝の通学電車は、沿線のあちこちから中学を卒業して初めて乗る高校生も混じり、満員の状況。新しい友達もでき、話に花を咲かせ、毎日楽しい通学は今でも良き思い出だ。
2学年からは武生新駅近くの北校舎に通った。ここで構造(力学)や、製図、測量など、土木に関する一般的な学科を学び、実習に励んだ。
測量実習のこと
武生高校2年生の夏休みに、1年上の先輩やクラスメートの一力光男君たちとチームを組み、福井県の委託事業で、九頭竜川上流の山奥、大野郡和泉村の民家に泊まり、三角測量の実習アルバイトに出かけたことがある。また、冬休みには宮崎村へ大勢で赴いて平板測量を行い、完成時には村の区長さんから「ご苦労さん」と酒をいただき、皆で祝杯を挙げて喜んだことがあった。そこまではよかったのだが、私は酒量の限度が判らず、酔いつぶれて前後不覚になり、朝まで区長宅の玄関先で寝てしまったことを後で知った。今なら到底許されないが、大らかなよき時代。今となっては懐かしい想い出だ。
「測量」という仕事や作業は、本来、外の仕事、つまり「外業」なのだが、ダムやトンネル、道路に橋梁など、「ものづくり」の計画と実施(施行)にはなくてはならない基本の作業。この実習で習得した「測量技術」が、のちのち、それぞれの職場で大いに役立ったことをクラスメートの誰もが異を挟まないところを見ると、いかにフィールドワークが大切かがよく判る。
今でこそ、測量専門の会社が各地にあるが、昭和30年(1955年)以前は測量という生業(なりわい)が、大都市圏は別として地方では自営できる状況下になかった。しかしその後1960年代から始まる国土復興のさまざまな計画と合わせ、測量の仕事が、その先駈けとして重要視され出した時代でもあった。そのことを県や市町村と掛け合って、私たちに「外業」実習の機会を与えていただいた担任の故・門脇 融先生に、深甚のお礼を申し上げねばなるまい。もう60年も前のことで定かではないが、たしか門脇先生は、終戦までは土木技術者として「満鉄」におられ、戦後復員されて武生高校に来られたと聞いた。髭を生やした独特の風貌で、「カンチャン」の愛称で生徒から大変親しまれたエンジニア。葬儀の時には薫陶を受けた多くの卒業生が集まり、斎場を埋め尽くしたと言う。
日本ピーエスに入社
昭和30年4月(1955年)に担任の門脇先生に勧められ(株)日本ピーエスに入社した。JR敦賀駅のすぐ東にあり、列車の車窓からもよく見える。「P・S工法」を採用した橋梁などの工事や、橋桁の製作や、コンクリート二次製品の製作販売が主たる業務で、1955年頃からP・S工法による橋梁工事などが大幅に増えだした。入社後、約30年間、工事施工部門に携わり、北陸支店工事部長、敦賀工場長として勤務、1996年7月に定年退職した。
※「ピーエス、P・S工法」とは?
建設業界、わけても橋梁の建設ではP・S工法による技術開発が著しい。P・S
(prestressed)工法とは、コンクリートに引張力の強い鋼線を埋め込み、引っ張り強度を高めた鉄筋コンクリートを使用する工法。このP・S工法は従来工法に比べて断面(重量)を少なくできると言う利点や、現地(現場)制作でなくとも、規格化すれば工場での大量製造(生産)が可能という利点もあり、1950年代から普及が広まった。
一例を挙げれば、明治の末期から、わが国土をくまなく繋いだJR(旧国鉄)の鉄路(線路)では、そこに敷かれたレールを支えたのは、バラスト(砂利)と「枕木」だった。この枕木としては、「栗材」に防腐剤を注入したものがこの100 年余り使われてきたが、現在は、新幹線や在来線、私鉄も含め、この「木製枕木」からP・S工法で造られた「PC(プレキャスト鉄筋コンリート)枕木」に変り主流となった。一度、JR の駅や私鉄、地下鉄の駅のホームに立ち、レールを支えている部材は何かをご覧いただくと、このことがご理解いただけるかと思う。
忘れられない工事施工のこと
工事部に所属時、各地で多くの工事を担当したが、忘れられない工事(現場)がある。
その1: 国鉄北陸トンネル「PC枕木」の敷設
1957年に着工し、1962年完成した国鉄・北陸線 敦賀−今庄間の延長 13.87 kmの北陸トンネルは、当時の最長トンネルであった。今庄−敦賀間をスイッチバックして大小のトンネルを幾つも潜り抜け、乗客の顔が煤煙で煤けるほどの難所が、この完成により解消された。それまでの杉津、新保経由の運行時間約90分が約65分も短縮され、約25分で敦賀−今庄間を結んで「北陸のカンフル、夢のトンネル」とも言われた。
また、この新トンネルのレール軌道に敷設される枕木には、長大トンネルでもあり、将来の維持管理の面も含め、国鉄で初めて「PC枕木」が採用された。幸い製造工場が現場と至近距離にあることもあって、PC枕木の製作と敷設工事を当社が受注することになり、私が「主任技術者」として担当し、現場に赴いた。新トンネルの中は、長大トンネルゆえに掘削当時は幾多の苦労があったやに聞いたが、完成後のトンネル内は作業条件もよく、ほぼ温度が一定。夏は涼しく冬暖かく快適で、順調に作業が進んだ。
ほどなくレールの敷設、架線や電気、計測器の設置が終了し、列車の試運転が完了。
1962年6月10日、晴れの竣工・開通式には、時の国鉄総裁、関係大臣、沿線の各知事や政・財界関係者らが、特別仕立ての祝賀列車に分乗し、敦賀〜福井までの各駅や沿線で盛大な歓迎を受けた。私も工事関係者の一人として、またもう一つは、国鉄で初めて「PC枕木」の納入製作に関わった「ものづくり」の一人として、歴史の1ぺ―ジに関われた感無量の一日だった。
その2: 中国自動車道「安佐北工区」
道路公団の中国自動車道「安佐北工区(広島市)」は、PC4社がそれぞれ受注し、私は「毛木高架橋工事(1983〜1984)の責任者として勤務した。最盛期の1984年2月、下請業者の宿舎が全焼する災害が発生。幸い負傷者はなかったものの、約1ヶ月間の工事遅延が必至の事態となった。安佐北工区は、大田川橋梁あり、山から山へと架かる高架橋ありで難工事だったが、他の工区との関連もあり、我々の工区だけが遅延することは許されない。
ここでPC4社の全員が一丸となって、このアクシデントを乗り切ろうと、残りの工期を資材や労務提供など、あらゆることを考えて力を合わせるとともに、各社各位の昼夜を分かたぬ尽力のお蔭で、何とか当初の工期内に全工区を完成することができた。一時は「だめか…」と思われた発注者からも喜ばれ、この時ほど「ものづくり」の喜びと感激を味わったことはない。久地サービスエリアの日本庭園内に記念碑を建てさせていただき、携わった建設人20名の名を刻んだことを今も忘れることができない。
その3: 見知らぬ土地で
私の仕事の管轄エリアは北陸、近畿、中国、四国が主だったが、九州、東北にも足を延ばしたことがある。その一つは長崎県の離島「対馬」へ行ったこと。1986年5月、出張で福岡支店に赴いた時、対馬で完成した橋梁の竣工検査に立ち会ったことがあった。検査を無事終えたが時化(シケ)で船が出港できず、工事の責任者の佐保井氏から「こんなことはめったにないので、ぜひ泊まって明日、島を案内したい」となり、止むなく泊まることにした。
翌日、早朝から車で島の最北端(上対馬町豊)へと案内してもらった。途中で日本雉(キジ)が道路を右から左へと悠々と横断するのを「お先にどうぞ」と車が待ち、「ここでは鳥や動物が優先なのです」と。対馬市から約50キロ、北端の豊地先は北緯34度41分。北の水平線上にうっすら見えるのは、韓国の釜山(プサン)だろうか? 地図で見ると釜山の緯度は、アバウト北緯35度。対馬市は北緯34度12分。とすると、ここからは対馬市よりも釜山の方が近い?ことを知って「何とも遠くまで来たものだ……」と、感慨深かった。
人生の岐路での新しい船出
人生80年のうちには、それぞれに何度か岐路に立つことがあるものだ。会社の勤務で悩みがなかった訳ではないが、これからをどう過ごせば良いのかと、あれこれ真剣に悩んだ時期は、平成8年7月の定年退職の日の前後だった。心をよぎったのは、
@ 年金で暮らし、趣味をもち、余生を友達と楽しく暮らそうか?
A 2〜3年ほど天下りして働こうか? あるいは他業種で働こうか。
B 日本ピーエスで培った技術力を生かし、協力業者として余生を尽くそうか?
などなど。まだ他にもあったが、結局、同僚とも相談し、また勧めもあって会社を設立することを考えた。そのことを専務と社長に相談したところ、「ぜひ頼む……」と言われ、会社設立の準備に着手。職員の募集や機材調達などの最小限の準備を整え、労務者を募集し、北陸支店から橋梁工事を受注。未熟ながらも1996年7月、船出をした。
最初の頃は順調だったが、これはお世話になった諸先輩から頂いた「餞(はなむけ)」というもの。世の中それほど甘くはなく、少し工事規模が大きくなると、喜んだのも束の間、労務者不足や未熟錬者が多くなって予定通り完成することが出来ず、客先から苦情を受けるなど、辛酸を味わう洗礼もたびたび受けた。2001年頃から少しずつ状況も安定し、客先に安心して貰えるようになったが、「道はまだまだ先遠し…」だ。
しかし、これまで培ってきた「ものづくりの楽しみ」へのチャレンジは、私の原点。この原点だけは常に心して、汗する楽しみを職員や仲間と共に、分かち続けていきたいと思う。
― 完 ―

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