私 の 百 名 山
― 中年暴走登山族と言われたことも ―
平 野 敬 之

平野 敬之(武高30会会員)
HIRANO, Yoshiyuki
1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校を卒業。同年名古屋の印刷工場に就職して印刷技術の修行の後、1958年郷里に戻り、家業の印刷業に就く。有限会社ヒラノ印刷代表取締役。この間、福井県印刷工業組合副理事長、武生商工会議所議員、社会福祉法人たけふ福祉会・社会福祉法人わかたけ共済部監事を歴任。(福井県越前市在住)
はじめに
子供の頃、近くの山へよく遊びに行った。村国山や、おむすび山と呼んでいた山での栗ひろいやアケビ取り、吉野瀬川の源流を尋ねて川上の山へと分け入ったことなど、すべてが幼い頃の冒険心を満たしてくれた。
両親が始めた家業を継ぐため、武生高校を卒業してすぐ名古屋に行き、そこの印刷会社で3年間修行してから武生へ帰って来た。当時は登山と云っても、大学の山岳部や、登山家と呼ばれる特別な人たちが行くところであると一般に思われていた。そんな時、大学2年生であった弟が山へ登ろうと云い出した。
白 山
初めての登山らしき山は白山であった。中学1年の弟も含め、3人で朝早く武生駅を出発、勝山駅まで電車を乗り継ぎ、石川県白峰村までバスで行った。登山口までは徒歩で行く。
7月下旬、まだ梅雨は明けておらず、降ったり止んだりの霧の中をゴム合羽にズック靴と、今なら吹出しそうな格好で甚之助小屋を過ぎた。誰一人登る人もなく、霧で登山道もよく分からず、心細くなって途中から引き返すハメになってしまった。夕方ようやく一の瀬の集落に戻り、木賃宿の五衛門風呂に浸かってやっと生きた心地がした。何の山の知識もない、大失敗の初登山であった。
その後は仕事も忙しくなり、結婚、青年会議所活動などで山へ行く機会もなくなっていた。ただ小学生の息子をつれて、春は山菜採り、夏は岩魚の手掴み、秋はワサビ取り、冬は日野山や鬼ヶ岳の頂上からビニール板で雪の上を滑り降りていた。自分が楽しんでいたのかも知れない。彼は今でも、よく遊んだなぁと思い出しては笑っている。そろばん、習字以外には学習塾のない時代だった。
そして車社会が到来し、道路も良くなり高速道路も開通し始めた。林道も整備され登山口まで車で行けるようになった。いよいよ山が近くなってきた。楽しい山、感激した山、苦い思い出の山など、私が登った「私の百名山」の幾つかをここに紹介しようと思う。
唐松岳
登山用品も品質が向上し、先ず、重いけれども革の登山靴、むれない雨具、折たたみ杖等々を揃え、山好きの妻を伴い、北アルプス唐松岳への1泊2日の山行を計画した。天候にも恵まれ、山頂近くでは雷鳥にも会い、初の山小屋泊りを経験した。
立 山
立山は交通の便がよく、北陸高速道 立山インターチェンジで下り、富山電鉄の立山駅からケーブルとバスを乗り継いで標高2,450
m の室堂まで簡単に行くことができる。室堂からは、ここを起点に、経験の浅い人もいろいろの変化に富んだコースが選べる。運がよければ子連れの雷鳥一家に会えることもある。最高峰の「大汝」往復も健脚の人なら日帰り可能で、高山の雰囲気を楽しめるお勧めの山。私は小学生の孫と登った。
立山室堂→黒部ダム
観光客には、立山山腹のトンネルをトロリーバスで抜け、ケーブルウエイ、ケーブルカーを乗り継ぎ、黒部ダムから長野県大町に至る「立山黒部アルペンルート」がある。その前半を、紅葉を眺めながら歩くコースがある。室堂で静岡から来たという6名の男女のグループに声を掛けられ、一緒に連れて行ってほしいと頼まれた。ロープウエイの乗客が手を振ってくれる絶景の紅葉の中、木道の脇に新しい熊の糞を見つけたが、驚くといけないので、妻と二人、そ知らぬ顔で通り過ぎた。無事ダムまで案内し、お礼を云われた。山岳ガイドになったような気分で愉快な山行となった。
立山室堂→五色が原→黒四ダム
室堂から一ノ越まで行くと一ノ越山荘があり、頂上へ登る道の反対側の山荘の横を進む。富山大学立山研究所の前を通り、獅子岳を目指す。
眼下に「ザラ峠」が赤茶けた立山カルデラ崩壊面と共に見え、峠を隔てて「五色が原」の全景が一望できる。ザラ峠は戦国時代、府中三人衆と称された富山城主 佐々成政が、家康に救援を求めた「冬のザラ峠越へ」で有名なところ。ザラザラの道を下り、標高2,500 m の台地 五色が原へ上る。苦しいが上れば一面のお花畑が迎えてくれる。
一泊する五色が原荘は、背後に万年雪の雪渓があり、温泉がある数少ない山小屋である。翌朝は3時間半で黒部湖の奥、平ノ小屋に着いた。ここからは、湖面より30 m 程上の湖の周りの登山道を、黒四ダムまで3時間半の道のり。
途中、崖崩れで道が中断しているので一たん湖面まで下り、再度崖道に戻ると、今までに見たことのない大きな山猿が道の真ん中でこちらを向いている。上へも下へも逃げられない山道でジッと睨み合いの2分間、ようやく崖を上の方へと去ってくれた。油汗と冷や汗を掻いた山行となった。
称名滝→八郎坂→弥陀ケ原
日本一の落差(350 m)がある大滝「称名滝」を木の間隠れに眺めながら、絶壁の八郎坂を登る。崖崩れや落石のため何年も通行不能であったが、ようやく通れるようになった。その年、友人夫婦と我々4人で登った。猿の餌となる野生のぶどうが実る崖道を上ると、そこは弥陀ケ原、湿原に木道が作られていて、室堂から上りにも下りにも使える美しいコースであった。
剣 岳
峻険ながら誰もが一度は登って見たいと憧れる山。もう20数年も前になる平成2年10月上旬、この山に挑戦した。山小屋は冬支度の最中で、その年の最後の営業日であった。
土・日曜とも快晴との天気予報を信じ、朝3時に出発、ケーブルには乗らず室堂直通バスで向った。夕日に染まりピンク色に輝く剣岳を見ながら剣山荘に泊った。夜半激しい風雨が小屋の二重窓をたたき続けた。明け方には小降りとなったが、6時半、行ける所まで行ってみようと冷たい雨の中を出発した。天気予報通り8時頃からは低気圧が通り過ぎ、真青な青空が見え出した。気温もグングン昇り、鎖場も腕力と脚力で登り切った。頂上からは富山湾から北アルプス主峰槍ヶ岳まで360度の素晴らしい展望が開け最高の山行であった。
以来、この山の魅力にはまり、何度かここを訪れた。
不帰のキレット
NHKテレビで百名山の番組が始まると、人気のある山は多くの登山者で山小屋も満員。そこで、あまり人の来ない険しいこの山に目を付けた。白馬山荘に一泊し、杓子岳、白馬鑓ヶ岳を越え、天狗のコルからキレットに入る。妻と命綱で体を結び、鎖を頼りに幾つかのピークを越えた。ピークに立つと突風で吹飛ばされる危険があるので、跨いで通過するというヒヤヒヤの経験であった。唐松岳の頂上から振り返って見ると、かなり足が震えた。
夜又ヶ池
小学生の頃から近所の悪童たちと山へ行き、蛇がいれば捕まえてマムシ屋へ売り、バケツいっぱいの川魚は養鶏所の餌に買ってもらい、アイスキャンディ代となった。祭の夜店で買ったヒヨコは夜も明けぬうちにコケコッコーと近所迷惑になったくらいだから、武高のクラブ活動は生物クラブに入った。
同期に今庄出身の奥野 宏さんが入部して来たが、私は肺の病気のため一学期で退部してしまった。後年、夜又ヶ池に何回か登っているうちに、彼が今庄中学の校長で、池の固有種である「夜又ゲンゴロウ」の研究をライフワークとしていることと、環境庁からの委託で絶滅危惧種の保護増殖事業に携っていることを知った。
以来、池の環境保護を目的に活動中の「夜又ヶ池パトロール隊」に参加し、年に数回登っていた。
12, 3年前のある年のクリスマスの日、同じパトロール隊の友人と二人で30cm程の雪の中を登った。池の周りは50cmくらいの積雪であったろうか、それでも5,
6名の登山者がいた。
年が明けて成人式の日、朝から晴れていたので、その友人と共に、また池まで出掛けた。途中、足を滑らせ100 m 余り滑落して左肩が脱臼、左手がブラブラとなってしまった。友人が下山して救助を求めたが日も暮れて来て、ついに県警のヘリコプターのお世話になってしまった。初めてヘリコプターと救急車に乗り、1週間で退院は出来たが最悪の山行となった。
敦賀三山
敦賀三山の一つは、西方岳と云い、敦賀半島中央部に在って若狭湾と敦賀湾が左右に見える山として、県外の登山者もよく訪れる。二つ目は敦賀の南西に在る野坂山。もう一つが岩籠山(いわごもり)でこの山も楽しい。敦賀の国道8号線疋田の奥を谷川に沿って登る。
谷川の両側は急俊な崖で、谷川を何度か徒渉を繰返し進むと、大小いくつもの滝や城の石垣のような石積みの砂防ダムが7, 8ケ所ある。
実はこの谷川で一度大失敗をしている。友人と下山の折、豪雨に遇い、谷川はたちまち腰までの濁流。足をとられれば即、激流に流され、滝つぼに転落死の場面。草の根をつかみ、崖をよじ登って難を逃れた。全身ズブ濡れで尾根を伝い駐車場へ戻った。カメラと携帯電話は使用不能となり、「中年暴走登山族」と云われたが、今では懐かしい山行の思い出となっている。
おわりに
山には一つ一つ特徴があり、また、四季によってその表情はいろいろと変化している。何回登っても新鮮に感じる。白山、槍ヶ岳、日野山も、そのような思い出深い山である。
多くの山の友人たちとの出会い、感激と失敗の連続の50年に近い山との付合いも、最近は肺ガンで肺の一部を切除したため息が続かないが、また、ぼちぼち近くの山へでも登ってみようかな、と思っている。

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