故郷の思い出
― 母から学んだことが今に活きる ―
藤 枝 純 教

藤枝 純教(武高30会会員)
FUJIEDA, Junkyo
1937年浄土真宗出雲路派了慶寺の次男として生まれる。1952年武生第三中学校、1955年武生高等学校、1961年京都大学を卒業。1961年4月、日本IBMに入社し、1963年よりNYC本社勤務。1968年からシステム開発部長で、ワトソン賞や石川賞を受賞し、本社営業企画統括・システム開発(株)の代表専務を兼務。1984年セガ役員就任、CSK専務となる。以来12年間で24社のベンチャー企業を創設し、CSIや海外CSKほか代表役員6社、ベルシステム24他、
計15社の役員を兼務。その後、日本提案の“G7 GISジュニア・サミット1995”の事務局長に専任。また、1996年には
ReGIS Inc. を創設し、The Open Group 日本代表・会長、京都大学 ITアドバイザー、一般社団法人
CRM協議会 会長を兼務中。(神奈川県横浜市在住)
“思えば遠くへ来たもんだ”というテーマで、21世紀を生きる若者たちに、我々のメッセージを残そうという発案に共鳴し、ここに一文を掲げます。私は、まだまだ現在進行中で、グローバル情報社会研究所(株)
代表取締役社長、The Open Group日本代表・会長、一般社団法人 CRM協議会 会長、京都大学
ITアドバイザーに関する活動と了慶寺の寺族僧侶として、これからも生涯現役を目標に走り続ける所存です。
生まれた寺のルーツ
私が生まれた八王子山 了慶寺は、200年前までは、国高小学校から日野山に向かって南下し、県道と直行した地点から400mほど東に行ったところの八王子山という前方後円墳の丘の中腹にありました。以前は天台宗でしたが、400年前に浄土真宗に改宗し、火事のあと、押田町の村国山の東北側の山麓の高台へと引っ越してきました。
この浄土真宗 出雲路派 八王子山了慶寺は、伝説では、継体天皇の八人の王子が夭折したことに因んで建てられたと、祖父や母や村の古老たちから聞いていました。戦後の都市計画で八王子山は平地となり、今となっては、学問的に確かめるすべはなくなりました。
誕生と父母のこと
私が1937年1月の大雪の日の早朝、呱々の声を上げた時、玄関先にあった大きな寺の老松が雪の重さを支えきれず、根元から轟音と共に倒れたそうです。母は、兄の時とは違い大変な難産で苦しみ、必死の出産だったうえに松の大木を倒して生まれた私を、どんな豪傑になるのか、はたまた世の中を騒がす人になるのか、何とか人に役立つ人に育ってほしいとよく話してくれました。
父は昭和19年に招集され、台湾・フィリピンと渡って、20年7月2日に山砲中隊長としてフィリピンで戦死しました。戦後、母は小学校の先生に復職し、女手一つで、父出征時に生まれて200日の弟 昌文(元清水建設役員)、4歳の妹 達江(福井 順光寺 坊守)、6歳の私、9歳の兄 宏壽(了慶寺 住職)を全員大学に出してくれました。また、自らも2008年99才で成仏するまで、仏を信じ、未来を信じ、いつも明るく、誠心誠意、全ての人に(グローバル)、分け隔てなく(オープン)、尽くす心(顧客中心)を持ち続けました。
私が母から学んだことは、「人生は単に生きることではない。人の役に立つ生き方を見つけること。」でした。今後の日本が世界から求められる存在になるべき必須な戦略を、1995年以来、グローバル、オープン、そして顧客中心主義に置き続けてきたことは、まさに母の生き様の中から見出したものです。
福井の歴史
さて、そんな私を育んでくれた土地の歴史を概観してみます
第26代継体天皇(507年即位―531年在位)のころの越の国には、中国や朝鮮半島と交接があり、かなりグローバルであったようです。
また、紫式部が17歳のころ父の任官に伴って武生に1年ほど滞在していたとか、親鸞聖人の流罪の道であったとか、木曽義仲や朝倉の一乗の谷の戦いから、柴田勝家、お市の方へと続く栄枯盛衰の歴史があります。けれども子供の頃の私は、当時の日本のグローバル化の拠点だった三国港や、芦原や鯖江の海の匂いを感じ、九頭竜川の製鉄の火を見つめながら、世界に拓けた日本を支えるイメージを描いていました。
先祖の血脈を訪ねて
寺には400年の系譜があり、父方を辿ると越前府中の城主本多家の殿様の弟で、剃髪して五分市の本山の管長に入籍した方の「本多家の血筋」を受けているようです。一方、母方の系譜は、森の祐善寺(岡崎家)から嫁いだ母英子の祖母が、風巻の寺から祐善寺に来られた小林静境の娘で、幕末福井藩松平春嶽の若き参謀、橋本左内(安政の大獄で吉田松陰とともに処刑された)の母親は、私の母(藤枝英子)の母(岡崎勝枝)の母の妹だったと何度も母から聞かされてきました。橋本左内は、14歳で“汝、幼心を去れ”と『啓発録』を認めた秀才で、蘭学を修めました。そういう血を引く母の口癖は“国のために役に立つ人になれ”でした。
小・中学校の頃
小学校から大学までを通して勉強に関しては3歳上の兄と全部同じ学校なので、私にとっては、宏壽兄が常に目標でした。小学校は全学年主席、中学校も3年間野球部で猛練習、寺の手伝いをしながらも、勉強はトップを譲りませんでした。国高小学校5年生のころ、福井放送でラジオ放送のドラマ“東尋坊”のシナリオ応募があり、賞を頂いた記憶や、書道や短歌、俳諧の真似事などにも参画して楽しんでいました。熱心な先生がおられたお蔭だと思います。
戦前戦中は、小・中学校側が級長を指名していたのが、戦後、中学1年生から選挙になり、女性に人気がなかった私は選挙に負けて級長になれず、非常に恥ずかしく思ったことを覚えています。
いずれにしても福井県自体が教育に熱心だったのは伝統的だったのかもしれません。
武生高校生活
最もショックだったことは、国高小学校・武生第3中学校で成績トップだった私が、武生高校での入試試験の序列が数百人中30番だったと先生から言われたことでした。野球部・柔道部に入ろうと思っていたのをやめて、後半から追い上げ、2年生前期でトップグループを捉えるところまで行き、ハッピーにフルスピードで走りました。
高校の同期クラスメートのなかでは、昔から、椿君と滝波君との付き合いが一番濃く、次に、広田君、寺田君、梅田君、武田君、水落君らが続き、今回の編集では、江尻君らに厄介になりました。
最近の東京の30会では、ほとんどご無沙汰ですが、毎年多忙さが増し続ける私の国際的な活動(327回目の海外出張)で、関東支部長の小田君にはいつも不義理ばかりです。物故者も毎年増え、もう一度会っておきたかったというケースも多く、その中の一人、故 菅沼君は随分前になりますが、腹を割って話を聞いてあげたかった。早い別れは、誠に残念なものです。
芸術系では、故 土田雲峰先生と馬場先生にはお世話になりました。中学時代からの友人、東谷君、大川君、故 日置君らとも付き合いを続けました。
兄から京大でのドイツ語の教科書を貰い、高2の時にはゲーテの詩などを原書で読み、1年下の故 伊藤久能さん、故 宇野公子さんらとは読書会をしたり、短歌や詩を書いて楽しく付き合ったものです。
寺の行事と大学生活
私は、釈浄憲として法名を頂き、11歳から得道をして以来、兄と共に亡き父の後の寺を守ってきました。兄が持病で休学した時は一人で経典を読み、檀家参りのほか、春の永代経と秋の報恩講の際の御組合のお寺への出仕の仕事もあって、中学時代から高校にかけては、勉強が終われば野球の練習、それが終わってから自転車に法衣を積んで檀家周りというスケジュールで、母を助けて150% 稼働していました。
兄が全快して京都大学に行ってしまうと、ほぼ全責任で寺の仕事と学業をこなしましたが、それはそれで充実し、楽しいものでした。私は、どちらかというと運動は万能で、性格は明るく、オープン、積極的、親分肌ですが、兄は、内向的、行儀がよく、緻密で厳格ということで性格は正反対でしたが、二人の仲は大変良く、高い信頼関係で結ばれていました。
私が高校3年になったとき、翌春の大学受験をどうするかを母と相談しました。私が卒業してストレートで大学へ行ったとすると、兄が3回生と4回生の2年間は、私も兄も寺にいない体制が続き、母としては寺のオペレーションがつらいし、弟はまだ11歳だから、卒業後2年間は東京や京都には行って欲しくないと言われましたが地元の大学に入る案は拒否しました。
その間、兄は完全に健康になり、私も翌年春、京都大学の試験をパスし、兄は4回生、私は1回生で、この1年はどちらかが都合をつけて寺に戻って行事に臨みました。京都大学時計台がすぐ傍の東山1丁目の下宿で、アルバイトをしながら、毎日、兄と2人で過ごした京大生活は、一生に一度の最高の思い出です。
IBM・CSKを経て独立
京都大学 文学部を卒業後の私のビジネスライフは次の7つの期に分けられます。
@ IBMでの24年
システムエンジニア(SE)やアーキテクトとして活動を開始し、その後、システム開発部長、産業別・製品別営業企画統括・営業計画・SE本部長などを歴任し、次いでIBMシステム開発(株)の代表取締役専務を担当しました。この間に、IBMのトップエグゼクティブスクールは、ブラッセルでの4週間、アーモンクでの2週間を卒業。
A CSK・SEGAでの12年
この時代には、CSKは3000名の従業員からなるITサービス企業であり、CSK/SEGAグループの50社では計 15,000名の人員を擁していました。このグループのグループ専務として大川 功社長を補佐するとともに、24社のベンチャー企業の創業に参加し、15社の役員、6社のCEOを務め、7社の上場を経験させていただきました。
B G7 ジュニアサミット 95
この間、1995年2月にはブラッセルでのG7情報通信サミットへ補佐として出席し、このとき日本から提案されたG7ジュニアサミットについて、世界44社の支援を受けて選考された11か国44名のメンバーと、その後6か月を掛けてインターネットで会議し、またFace to Face会議も日本で1週間やって研究した結果を、21世紀への提言としてまとめました。そして、ガリー国連総長、ゴア米副大統領、サンテールEU 委員長・G7 IT・通信・教育担当大臣に1996年3月報告書を提出し、無事終えることができました。
続いて、1998年に第2回ジュニアサミットが米国MITで、大川基金をスポンサーに、MITネグロポンテ教授が事務局長で、米国・カナダ・南米諸国とヨーロッパMIT分校のチャネルで盛大に開催されました。日本からは、大川 功会長と私が招待され出席しました。
その時の私の技術スタッフリーダーが伊藤穰一君で、今NHK Eテレの番組「スーパープレゼンテーション」で案内役を務めています。お茶の間でも知られていて嬉しい限りです。
C グローバル情報社会研究所(1996〜現在)
G7 ジュニアサミットで学んだインターネット中心のビジネス・モデルを、日本や世界でどう成長させるかを日本の企業のトップ指導者にアドバイスするべく、1996年4月に(株)グローバル情報社会研究所(ReGIS Inc.)を創業しました。
第1回GISフォーラムを東京アメリカン・クラブで開催してから、現在までに96回、毎回海外からのホットなテーマで、グローバルな論客を招き、世界的レベルのITと経営のテーマを探り、発表し続けています。この間、累計20か国の人々と係わり、延べ10,000人のグローバル化に役立ってきたと自負しています。
トップ企業のうち、IBM(故ボブ・エバンス、サム・パルミサーノ、北城恪太郎の各氏)、NTT(故山口開生、大星公二、浜口友一、立川敬二、宇治則孝、篠原弘道の各氏)、トヨタ自動車(豊田章一郎、張富士夫、三吉暹の各氏)、The Open Group(アレン・ブラウン氏)らともコンタクトし、他のオーナー会社の親子の社長バトンタッチなどの顧問に始まり、ベンチャー企業のM&A、1部上場企業、2部上場企業らへの顧問活動だけを収入源に、NPO的な経営で社会に貢献してきたつもりです。
D The Open Group 日本代表・会長
The Open Groupとは、ボランティアによるメンバー制の標準団体であり、グローバル・リーダーが、各国政府・研究機関・大学のメンバーと共に“次世代IT(情報技術)標準”の確立に向けて、グローバル標準を推進しています。
E 一般社団法人CRM協議会
一般社団法人CRM協議会は、2009年10月1日に発足し、日本に「顧客中心主義経営(CCRM)」を正しいCRM導入プロセスを通して実現したいと願うメンバー企業・自治体・アカデミーを募り、フジサンケイビジネスアイと経済産業省にご協力をいただいて活動をしています。(注:
CRMは顧客関係管理と呼ばれているものでCustomer Relationship Management の略)。
F アカデミア活動
アカデミーの分野では、中央大学大学院で5年間、信州大学 経営大学院では12年間に渡り客員教授として、また京都大学では9年間、後輩達に教鞭を執り、現在は教授陣に向けて、ITアドバイザーとして母校に協力をしています。
21世紀を生きる若者へ
知価社会に向けた日本再生は、先ずは2020年に向けて、
1) グローバル
2) オープン
3) 顧客中心主義
をドライバーとし、国も産業も国民も自ら変革し、共通の価値観をもつ国や人々とコラボレーションすることから生まれてきます。
これを、21世紀を生きる若い皆様、とくに武生高校の後輩の皆様への私からのメッセージといたします。
| 『了慶寺 108俳句法句30年』より |
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宇宙から 地球見る“機”の 他力かな |
(2010) |
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見た地獄 生きる未来に 南無阿弥陀 |
(2011) |
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足踏みて 銀杏身を剥く 故母思う |
(2012) |
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藤枝 純教・釈浄憲 |
― 以 上 ―

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