公共事業と共に50余年
― 多忙で平穏な良き時代を生きて ―
石 田 孝 之

石田 孝之(武高30会会員)
ISHIDA, Takayuki
1936年、越前市四郎丸町にて生れる。王子保小・中学校に就学して、1955年、武生高校を卒業後、国土交通省に入省
。近畿地方建設局管内と、京都府田辺町役場を含め、12回を越える勤務地移動・職場異動を経験。1993年(株)ホクコンに入社し、2009年72才で退職。リタイア後は、心身の健康を目標に、趣味の囲碁、ゴルフ、ウオーキングを続けながら、元気に楽しく暮らしたいと願っている。(福井県鯖江市在住)
はじめに
1936年(昭和11年)、日野山麓の旧王子保村で、農家の三男として生まれた私は、1955年武生高校(工業科)を卒業し、建設省近畿地方建設局に入省。管内でダム建設の他、主として道路行政に30年近く関わった。一時期、京都府下で「地方都市のまちづくり事業」に2年、その後、コンクリート構造物の規格と二次製品化促進を図る事業を民間会社で約15年携わり、2009年の退任まで、通算して延べ54年もの永きにわたり「道路行政」「まちづくり」「ものづくり」に関わることができた。その内、ふるさとを離れた39年間には、仕事の事情で近畿の各地を12回の転勤と6回の転居もあり、私は当初より覚悟の上だったが、家内と3人の娘には厳しい時期もあったかと思う。“人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し”とは、徳川家康の遺訓だが、ようやく「荷物」を下ろし傘寿を迎えるいま、“ふるさと”を離れ、慌ただしかった高度成長期をアクセル全開で「働いた…、生きた…」時代を顧みたいと思う。
少年時代:戦中・戦後の学校生活と農作業
私の生涯の「心の原風景」日野山(795m)を、いま、鯖江に住む自宅から毎日眺めることができる。私の生まれた旧王子保村から眺めた日野山とは離れた分だけ迫力にやや欠けるが、ここ鯖江市は稜線が広がり遠望に適した場所だ。私が王子保小学校に入学した1943年当時は、日本が太平洋戦争へと進み始めた時代。「神州不滅」の教育、兵隊の学校監視、儀式的な朝礼や、農家でも米不足の食糧難があり、学校の隣の寺には疎開児童が宿泊して、その何名かと共に机を並べ学んだ時代だった。当時は、何処の農家でも子供は農作業を手伝うのが習わしだった。私も小学校の高学年から高校を卒業するまで、年齢に応じた手伝いが日課で、農繁期には重労働もあった。しかし、今思えば、この体験がその後の「私の人生」にとって、時に過酷な肉体的な労働や、精神的な苦悩、質素な生活にも耐える、「心の糧」となったことをありがたく思う。
高校時代の測量実習と建設省入省
1952年3月、武生高校の工業科(土木)に入学した。高校教育に必要な最少の普通科目に加えて基礎的・初歩的な土木工学を学んだ。特に同科では測量に力を入れており、時折の日野川の河川敷での測量実習は実に楽しかった。
3年になると学校の斡旋で、夏期と冬期休暇中に班を編成して実習を兼ねたアルバイトに行き、足羽川発電所、福井市の下水道事業、宮崎村の圃場整備での測量を行った。この経験が役立ち、数名の同僚と共に「測量士」の国家試験に合格することが出来た。
1955年4月、幸いにも私は、国の建設行政を管轄する建設省近畿地方建設局(現・国土交通省)に採用が決まった。京都市内の相国寺で新採用者研修を受けた時、「将来君達が中堅幹部になっても、『ただ酒』だけは飲むな」との講話は、今でも強く私の記憶に残っている。
最初の勤務地は、大阪市此花区の土木用建設大型重機械を整備する部署だった。当時、米国キャタピラー社のブルドーザー、グレーダーなどの重機が、工事現場での施工中に故障したり整備が必要となった場合、これらをトレーラー車で持ち帰り、清掃・分解・整備・試運転をする総合的な工場基地である。ここで主に外国製の大型機械を学んだが、重機の説明書は全て英文。工具も日本製に比べて、アメリカ製は鋼質に粘りがあった。当時は、国産の(株)コマツ製作所が、まだ製造の初期であり、米国との土木工事機械や技術の歴然とした差を見て、日本が敗北した側面の一端を感じたものだ。
宇治川・天ケ瀬ダム建設に従事
1957年、天ケ瀬ダム建設事務所に配属された。このダムは、1953(昭和28年)の13号台風の洪水で、淀川水系に多大な被害が発生したことを受け、宇治市街地の上流約2km「天ケ瀬」地先に、洪水調節を含む多目的ダムとして計画され、建設が始まったものである。着任の挨拶時、所長から「君は体の方は丈夫か?」と聞かれた。ダムは高さ73m・堤長254mの国内では珍しい「ドーム型アーチ式」の巨大ダムだった。私はここで7年間、腰を据え、大型ダム建設の着工から完成までを経験できたことは、つくづく幸せだったと思う。ダム建設や付け替え道路工事に伴う測量業務も多く、高校での測量技術がここで初めて役立った。
一昨年、「ダム完成50周年記念」行事が宇治市で盛大に行われ、当初の目的である治水対策・水力発電・工業及び飲料水以外に、観光などにも利用され、現在、更に治水能力を高めるため、新しい放水路事業が計画されていることを知った。このダムの新しい需要の高まりに、50年の歴史に関わった一人として、歓びと感慨ひとしおだった。
国道1号のバイパス道路建設
1964年、大阪市と京都市を結ぶ国道1号のバイパス道路建設に携わった。昭和30年代に入ると、戦後復興から急速な高度経済成長ヘと時代は加速。特に太平洋ベルト地帯に大規模な工業コンビナートの建設や、農村からの都市への人口移住、物流や人の移動が増え、後の高速道路へと急速にモータリゼーションが発達した。全国的に道路渋滞が多発し、道路建設の需要が一気に高まった時代だった。政府は自動車に使用するガソリンに、特定の目的税を課して道路の財源として使用。大動脈の国道1号も、2車線道路で交通渋滞が激しくなり、沿線の田畑を幅約20m用地買収して、4車線のバイパス道路を建設した。この請負工事の施工管理と併行して、地元対応の業務にも従事したが、多忙を極めたこの2年間は、国土軸整備の一翼を担う基幹事業にも、迅速かつ精度のい施行管理が求められ出した時代だった。
国道の維持管理と歩道橋建設
国道の整備では、車の通る路面や側道・歩道などの平面整備と同時に、歩道橋などの人の通行安全を図る立体施設も併行して計画、施工する必要がある。道路新設と違い「維持管理」の仕事は地味ではあるが、沿道に住む人々の利便と安全を守り確保する上では大切な仕事である。
1966年、大阪府南部の、国道25・26号、約60kmの維持管理を2年間担当した。道路の「新設と維持管理」業務に頃を同じくして関わることは、道路行政を担当する者にとっては必然の仕事。国道は交通量も多く、降雨後にはよく路面に穴ボコが発生するので、事故防止のため、常時パトロール車や作業車に補修材を積載して対応したものだ。当時は、交差点での交通事故が多発し、通学児童の安全を図るため、通学横断箇所に横断歩道橋を数多く建設した。しかし課題も多く、景観や眺望障害、商店の荷物の般入への不便など、設置する近接家屋住民の方々への特段の協力が必要となった時代だった。
国道の交通安全対策と道路情報の整備
1973年、近畿地方管内2府6県の、国道約1,800kmを維持管理する部署に勤務した。ここでは道路行政のさまざまな分野のしくみや仕事の流れなどを総括的に学んだ。全国の交通事故死亡者が、現在では年間約4千人余と減少しているが、当時は毎年1万人を越え、国も緊急に法令を定めて対策を講じていた。国道では歩道の設置、歩道橋や地下道の設置、交差点改良などに取り組んだ。通行安全を図るこれらの施設も、改良工事と並行して計画・施工されねばならないが、残念なことに、歩道の家屋軒先の用地買収が困難かつ高価なことから、工事着工の見通しが立たないなど、苦い苦労も数多く経験した。これらも、今となれば懐かしい想い出である。
楽しい想い出の一つに「信号や掲示盤」設置がある。わが国の高度経済成長によって、車による旅行や観光などが飛躍的に増加し、ドライバーの利便性を図るため、交差点の信号機やルート標識に地名表記を初めて導入した。また電光表示盤設置を、交通警察と連携しながら重点的に整備を行ったのもこの頃からだった。
北陸の国道除雪と凍結防止作業
1976年(昭和51年)、福井県嶺北部の国道8号を維持管理する部署に勤務した。通常の業務は前任地と同様であったが、北陸特有の冬期の路面の積雪と凍結に苦労させられた。当時は北陸自動車道やバイパスも工事中で、国道8号が、関西と北陸地方を結ぶ重要な大動脈道路だった。昭和53年、年末に豪雪があり、河野村の大谷地先で、木材を積載した大型車が横向きとなり、上下線共に交通不能となり、除雪車も入れず、次第に車両の前後に雪が積もり、人力で排雪する事も出来ず、年末の交通止めとなった。孤立する渋滞車両からの支援要請にも充分に応えられず、開通の見通しが立たず、重機の手配も他の道路除雪で出動しており、やっと手配出来ても現地到着に時間を要し、3日後の大晦日にようやく開通した。北国においては、初期の気象予報を的確に判断し、道路除雪と路面の凍結防止のため、道路監視とともに初動の体制と対応が特に重要なことを生きた教訓として学んだ。
道路公害と国道整備
1982年、兵庫県南部の国道の管理と国道バイパス道路を建設する部署に再度勤務した。大阪市と神戸市間の国道43号を管理しており、地上10車線の上に4車線の「阪神高速道路」が高架橋で建設された。日交通量が両方で10万余台となり、特に大型車が多く、騒音・排ガス・振動の道路公害訴訟が、沿道住民から起こされた。対策として10車線両側の1車線を削減して、高さ約60cmの緑地帯と、中央に高さ約3mの遮音壁を設置した。併せて路面と車輪の摩擦音を軽減する、吸音性のある特殊な舗装構造に変更した。一方、明石市から西脇市に至る国道175号は、沿道の自治体が「国道整備促進同盟」を結成して熱心に整備促進の要望をされたが、予算の制約や他のバイパス建設との優先順位など、道路建設には賛否の両面があり、「道路行政の複雑さと難しさ」を数多く経験した。
地方都市の「まちづくり」事業
1985年、京都府田辺町へ出向勤務。同町は京都・大阪・奈良市の三角形の略中心部に位置して、交通の便に恵まれており、民間の住宅開発・同志社大学田辺校舎の建設・関西学研都市など、活気に満ちた躍進中の町であった。
勤務した建設部は、住宅開発に伴う道路・河川整備、大学関連の通学路の整備、山手幹線道路・京奈和自動車道・第二京阪道路・新府バイパス道路建設などでの地元との調整が主な業務であり、また近鉄奈良線の新田辺駅・三山木駅前の区画整理事業や「京都国体」の体育館建設などの「まちづくり」業務が山積し、国政関係の業務では経験し得なかったような地元に密着した「公共事業」を、2年余だったが経験させて頂いた。
高規格道路建設と「道の駅」創設
1990年、兵庫県南部の国道管理とバイパス建設を主務とする部署に3回目の赴任となった。
高規格道路建設に向け、春日町〜氷上町〜青垣町において、道路のルート・用地費・建設に伴う環境影響・建設スケジュールなどにつき、役場職員と同行して説明会を開催した。
また当時、現在では全国約1千箇所に増加している「道の駅」について、国の審議会がその目的・規模・内容・費用負担などの基準を作成中だった。国道175号沿いに、駅に適当な国有地があり、道路情報・休憩施設・便所・地元特産品の販売スペースを確保した建物を、建設費は国で、駅の管理は地元でするとの協定書を結び、建設した。当時の施設が、今も地元振興の一助になっていることを願っている。
コンクリート構造物の二次製品化
1993年(平成5年)、(株)ホクコンに入社。昭和40年頃から、建設現場においても作業員の高齢化と技能工の不足が目立ち、コンクリート構造物を現場で施工するよりも、工期短縮、安全面などから、規格化した二次製品の使用が増加してきた。そのため、これまでに培ったノウハウを活かし、産学官共同などによるオリジナル・環境対応型製品と工法の開発に数多く係わった。特に平成7年の「淡路阪神大震災」では、同業者と協力しながら道路復旧製品などに対応した。
退職を迎えて、いま
1955年建設省に入省以来、54年の永きにわたる勤めを、2009年ようやく無事に終えることができた。私達の誰もがそうであったように、高度成長期の真っ只中を休む間もなく走り続けた時代だった。わが国のインフラ及び関連整備をみても、1960
年〜1980年に至る20年間の変貌には凄まじいものがあった。名神・東名高速道路、新幹線の開通、東京オリンピック、吹田での万国博覧会と、ビッグプロジェクトがこの時期に集中した。これらを支える近畿圏の電力供給や道路網のインフラ整備にいささかなりとも関われたことは望外の喜びだ。天ケ瀬ダム(宇治市)や国道1号のバイパス建設、高規格道路建設と「道の駅」創設など、「想い出の地」が、幾つも私の脳裏をよぎる。しかし、私達の仕事には避けることのできない数多くの転勤・転居があり、子ども達は一時、「自分のふるさとは何処なのか?」と思う頃もあったと聞く。「人間いたるところ青山ありだよ…」とも押し切れず、いささか不憫を感じたものだが、お蔭様で、今は、成人してくれたことを親としてこの上なく嬉しく想う。
生涯、続けたい趣味と交友
20代に始めた囲碁は、勤務中には休憩時間、休日には碁会所で楽しみ、年金暮らしの今は近くの公民館でサークルに入り、楽しんでいる。
40代から始めたゴルフは、公務員時代は、早朝割引綴りのチケットにて、弁当持参でよくプレーをしたものだ。民間会社に就職以降、現在まで、役所や会社のOB、友人達と月1
回程度楽しんでいる。「あと何年」プレーが出来るかは、これからの健康次第。なかでも武高30年卒の仲間、一力光男、早川豊、安井清美の3氏と私の4名のゴルフは楽しみの一つだ。
60 代から健康の一助にとウオーキングも始めた。週2回ほど、近郊の四季折々の四方の山々、田園風景や野辺の草花を楽しみながら、早朝ウオークを続けている。また地元のサークルや催しの他、“ふるさと・越前市”で毎年「体育の日」に開催の「越前市健康21ウオーク」にも参加している。まだ現役で活躍中の、市・ウオークアドザイザーの畑中一一君とは70年来の「竹馬の友」。年に一度の再会を楽しみ、健康と体力維持に極力努めている。これまで多くの友に恵まれたが、今年から80
代に入り、気力・体力に応じた趣味やスポーツを通じて友との交流を続け、何時までも元気で生きたいと思う。そのためにも、健康管理が何よりも大事だと思っている。

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