いのちとこころに出会う旅
― 小石ばかりのでこぼこ道を ―
堀 婦 佐 子

堀 婦佐子(武高30会会員)
HORI, Fusako
旧姓後藤。1952年武生第二中学校、1955年武生高等学校、1959年福井大学教育学部を卒業。同年高浜町内浦中学校勤務。1961年、退職、結婚し、家業に従事。以来2002年まで元株式会社ホリキンアルバの専務。子育てが終る頃から書道、華道、煎茶道を習い始める。時を経て、書は師範、茶華道は初準導允許取得。1993年日本画を始める。2003年市美展無鑑査となる。現在、武生日本画会会員、歩彩会所属。他に紫式部顕彰会に入り源氏物語講読に参加。短歌は自詠で楽しむ。二女夫婦および孫三人と同居し、多忙だが和やかに暮らしている。(福井県越前市在住)
ひとすじの道
30年ももっと前だったか、ある美術館で見た 東山魁夷の「道」の美しい絵。まっすぐに伸びる一本の野道、なだらかな丘の重なり、広がる空、両側の豊かな草地。画面すべてが柔らかく、優しい自然の色調が、こころに強く響きました。
それ以来、その絵のまっすぐな土の道が私のこころに投影されてきています。どこにでも見られそうな風景ですが、私はそれまで歩んできた路を思い、またこれから先に続く道を思うとき、私の人生のみちのりすべてが、この絵のような小石ばかりのでこぼこの田舎の野道のように思えているのです。
79年の私のひとすじのこの道に、私はどんな花を咲かせ、何を残せるのだろう。喜び、悲しみ、感動、出会い、後悔、別れ …… そのいくつかをここに連ねてみたいと思います。
高校の出会い
小学3年で終戦を迎えた頃は 耐乏生活は当たり前でした。両親や大人たちの苦労の姿は今になっても忘れ得るものではありません。しかし私たちは、民主主義のシャワーを浴びながら、平和って何?
自由って何をする? などと考え、幸せという言葉にも素朴な疑問を持ちながら中学時代を過していました。誰もが、心身ともに変わりたいと望み始めていたのでしょう。
昭和27年、不安と希望を抱いて高校に入学。宇野繁太郎先生の1年1組、女子は10人で男子が多く、近寄りがたかった気がします。次第に通学にも慣れて、数学・化学・社会など未知の世界に触れることが面白くなり、古文の授業では更級日記や平家物語に特に引き込まれたように思います。
授業では、各科目それぞれの先生方も魅力的でした。のんびりと生徒無視で解釈なさる漢文の先生、理論追及の社会の先生、王朝の情景に浸って感動的な古典の先生、数学や化学・自然科学を限りなく伝えて下さった先生、詩人の魂を朗々と朗読された先生、「君らは若いんだ。歴史を知って歴史を創れ」と鼓舞された先生など、どの先生からも広い世界を示唆していただいていたのです。それまで漫然と勉強していた自分の甘さに気がついたかも知れません。
図書部・生徒会
部活動を選ぶとき、担任の馬場先生に誘われて図書部に入りました。幼いころから本が好きで、家にあった童話集などは読みつくし、中学の頃は近所の貸本屋で借りた漫画、映画雑誌、少年少女小説、有名作家の長編小説など、あらゆる読み物をせっせと読み続けました。
しかし、高校の図書部に入って読書の認識は一変したのです。たくさんの図書を十進法で分類する方法を知り、辞典から芸術・文学・科学や、古文書から最新刊まで 幅広い図書の世界を実感。分厚い世界文学全集を読む嬉しさも加わりました。「我思う、ゆえに我あり」なんて言葉を知って、哲学の著書を開いたり、歴史書もよく借りていたと思います。デカンショの意味が分かったのも図書室でした。
2年生の9月、なぜか生徒会の書記を指名され、否応もなく引き受けてしまいました。けれど、このことが私の行く道を変えるきっかけになろうとは思ってもいなかったのです。その後いろいろいきさつもありましたが、時は流れて8年後、私が人生をともにするパートナーに出会える見えないシチュエーションだったのか、と思えるようになりました。
記念日
60年前の11月29日、堀さん(後の主人)から突然、武生映画友の会の映画観賞会に誘われました。樋口一葉の物語だったと思いますが、その帰り、なぜかリルケの詩集を買ってもらったのです。そして彼は「記念に・K&F
11・29」とサインをしました。
学校の文化祭の頃、彼から手紙をもらっていたものの、近づきがたい先輩の一人でしたから、映画には、誘われるまま私は単に行っただけでした。でも彼の気持ちが分かったのは、映画のあとその詩集のサインをもらった時でした。
受験前で余裕もなかったはずなのに、電車で福井の足羽山へ1度、村国山へ彼の友人と2度 デート。交換日記は春まで続きました。何を書き、何を話したのでしょうか、覚えていないのですが、教えてもらうことがたくさんあったようで次第に心を寄せるようになっていきました。
高校3年6組の絆
私は3年になり、彼は京都へ。彼の活動の主体は大学になりました。
私も、クラス内の付き合いが深まる中、受験の準備に取りかかっていました。進路が就職組と進学組とで授業は別々でしたが、体育会はクラス全員が一致して応援賞1位を獲得しました。酒樽で作った田中明先生の顔をおみこしに、大合唱で盛り上がった忘れられない思い出です。
卒業前には杉谷さん、杉田さんの発案で、ガリ版刷りの級友アンケート集が仕上がりました。級友の思いをいっぱい乗せたまま、赤茶けた冊子は今も残っています。
のちに田中明先生の福井県野の花文化賞受賞の祝賀会をクラスの皆に呼びかけ、腕時計を記念に贈り、喜んでいただいたこともありました。生徒を思いやる慈愛と厳しさで、みんなに慕われていたのです。豪快だった先生の歴史観を、その後も私はいつも世の中を見る視点の一つにしてきました。
大学時代
私は30年4月に福井大学へ。入学して1年半は一般教養科目の講義ばかりで、漠然と単位を取るだけだったように思います。このころ国語科の先輩の学習会に入り、女性史を勉強させてもらいました。自由活発に討論する先輩たちを素適な女性だと思いました。
国文のゼミ研修旅行では、古事記・万葉集に詳しい青木先生の引率で大和路を万葉旅行。昔を偲ぶため大和路を歩いて巡る7日間でしたが、いにしえの舞台を彷彿と体感でき、奈良の薬師寺、唐招提寺、飛鳥宮跡、蘇我馬子石舞台、吉野竹林院、室生寺、安乗岬、賢島など 深く胸に刻み込まれた旅行でした。
この間にも、彼と私の二人は、草笛会グループの仲間と大阪や京都の音楽会・美術館へ行ったり、ピクニックに行ったりして付き合っていました。鈍行の汽車で、京都と武生片道3時間の付き合いでした。そして彼は33年3月に帰武し、家業に着きます。しかし私は、卒論と教育実習のため、33年ごろから連絡が滞りがちになっていきました。
専攻の国語・国文のゼミは資料や文献など真剣に取り組んで、知ることへの挑戦だったと思います。ゼミ仲間も豊かな個性の人ばかりで、独自のテーマをもって卒論へと進み、互いに励まし合えた充実の期間でした。
教育原理・児童心理学・全科目の教材研究など、教育分野の履修を終えて付属の春山小学校、明道中学校で教育実習。学校では元気な子供たちと触れ合うことが苦にならなかったので、教育実習は私の教師への決意の一歩になったと真に実感したわけです。
中学校に勤務
教員採用試験をうけたあと、辞令交付のため県庁へ行き、その席で私は感謝の辞を代表で読んだことを覚えています。
赴任先は大飯郡高浜町立内浦中学校とあり、全く未知の土地。地図で探すと福井県の西南端にあり、着任のため、敦賀で小浜線に乗り換えて2時間で高浜駅着。高浜町役場から町の車で山道の登り坂を20分も。学校は若狭富士青葉山を背後に、内浦湾を見渡せる中腹の坂の上に建っていました。小・中併設で、職員宿舎もありました。ここで自炊生活が始まりました。
高浜からの交通の便はなく、小浜線の東舞鶴駅から1日4回往復のバスは5時で終りでした。通勤も買い物もバスがいのち。バスで食品を売りに来る行商のおばさんが頼りでした。
中学校は内浦地区内の内浦、日引、神野の3つの小学校地区から往復2時間歩いて通う生徒たちが半数いました。半島の岬から山際や海沿いの道を通う姿には驚きとともに健気でがまん強い逞しささえ感じました。
小学校は複式学級で3クラス、中学校は単独学級で体育・家庭科は複式男女別に組まれていて、私は国語のほかに音楽、家庭、女子の体育を受け持つことになり、毎日、複式授業の予習が大変でした。
初めての担任は1年生22名、2年目も1年生37人、みんな活発で素直な子供たちばかり。女生徒は体育や家庭科の複式学級で全員を受け持ったので、放課後に話をしたり学校の周りをよく散歩して仲良くなっていきました。子どもたちは素直そのものでしたから、私が教えることを純粋に信じて学んでいる様子に、いい加減なことは言えないぞ、こんな私でいいのかしらと反省しながら、責任よりも怖ささえ感じたものです。子どもたちの豊かな感性がこの先も育って欲しいと心から願っていました。
渡辺校長、中岡教頭をはじめ教職員の方たちとは、子どもたちの家庭のことまで話し合い、私たちも公私ともどもに語り合いました。昔も今も教育現場は実践あるのみ、教師の心は子どもを愛し信じることが原点ですよと親しく指導をしていただきました。
学校を大事にする人たちばかりの内浦で、村中総出の体育会には「南国土佐をあとにして」の盆踊りを企画して、全員大きな輪になって何回も踊りまわりました。喝采の思い出です。
8年前、同窓会に招待してくれたのはこの時の生徒たちでした。40年が経っていました。思えば私は、彼らとは10歳違いの先生だったわけで、立派な50代の社会人として成長していたのです。社長・技術士・漁師・看護師・美容師・建設業などとして、家庭を持ち、親になり、孫もいるとのこと。「元気で会えてよかったなあ、センセー」と嬉しい言葉をもらいました。どの子も胸に残っている、愛する生徒たちです。2年間の内浦は、教師として唯一の忘れられないふるさとなのです。
結婚・家業・育児
結婚まで私の家族は、母と妹2人の4人でした。終戦後、母が教員を辞め、下の妹が生まれて半年の間は絵に描いたような幸せな6人家族だったのですが、父が病に倒れて亡くなりました。小学4年の冬でした。暮らしは一変しました。間もなく祖母も他界、復職した母が勤め、近所の方に助けていただきながらの生活でした。私たち姉妹3人は母の働く背中を見ながら学校へ通う質素な家庭でした。
結婚して環境は急変しました。布帛製品の卸商店で店員さんは10人、内6人が住み込みで、両親と弟妹5人、全17人の生活に。お手伝いさんと3度の食事に掛かりきりになりました。主婦として次々に家事をしていくことで精一杯。この10年間は息つく間のないでこぼこ道を必死で登っていた気がします。
商売には全く無知だった私をフォローして励ましてくれたのは勿論主人ですが、社内の事情を知るにつけ、働く人を気遣うことが大切になりました。ご苦労さん、ありがとう、気をつけて、と絶えず口にしていたと思います。「商売は人が動かすもの、社員を大切にすること」が創業の社訓でした。周りの人を信じ、心を寄せて笑顔で接するのも知恵の一つ、会社を支える立場になろうとしていました。
二男二女の子供に恵まれて子育ても生きがいになり、一喜一憂しながら成長を見守ることができました。会社優先といえども、母の会やPTAに参加して、そこで知り合った友人、知人とのおつき合いはそのまま今まで長く続いています。
昭和53年、主人の母が突然他界し、戸惑いと家業の負担で私の試練のはじまりです。子どもたちの進学が続く中、主人が倒れ、以来18年間の闘病生活になりました。
それから間もなく、社主の父がふとした事故で治療の甲斐なく逝去です。昭和の最後の年でした。バブルが崩れ始めたころにあたり、不安定な経済情勢の影響を受けていましたが、小康状態になっていた主人や社員の尽力で営業は一応順調でした。一方、各地で減少傾向にある卸業業界としての不安感と会社の後継者不在が、会社存続の大きな要因となってきたのです。
どうするか、悩みました。考えました。話し合いました。苦渋の結論は廃業することでした。私たちは、会社に責任はありますが、子どもたちの進路は自分で決めてほしいと思っていたので、社員には了解し納得してもらうことができました。
今思えば、主人は9月から最後の入院になっていて、相談の末、翌年2月末で会社終了を決定。終了通知の挨拶、在庫整理、経理手続きを進めていきました。会社役員の指揮のおかげでした。
主人は年末年始の団欒を自宅で過ごし、病院に戻りました。そして2か月後の2月28日、会社が終わり、社長をやめた日の翌日、息をひきとりました。「安津子はまだかな」と娘の帰りを待ちながら……。
その時の弔句です。
潔(いさぎ)よく 後世(のち)の憂ひを 裁ち切りて
早春(はる)の兆しに 孤舟(こしゅう)去り逝(ゆ)く
趣味のこと
会社の女子社員とお花のけいこを昭和43年から始めました。幼い子供を横において、2年、3年と続けるうちに、免状を戴く社員が増えていき、私も10年経って初準導、やがて次準導の允許を修めました。そのあと、茶道も始めて茶席を持つようになりました。
家業や子どもの行事、主人の看病などで休むことが多かったのですが、続けた甲斐があって、教えを受けながら茶華道の深いこころを楽しんで味わっております。
文人茶の煎茶道は、名筆の書畫、匠の茶具など先達の作品に出会うことで奥深い風雅の世界に身をおく幸せがあります。和敬の精神そのものだからです。
末の娘が小学校を卒業した後、書を習い始めました。月例で毎月提出しているうちに進級、やがて30年になります。書道教室の生徒仲間で「グループ朱夏(しゅか)」を起ちあげて年一回「朱夏展」を開き、2015年第20回の記念作品展を開催しました。
互いに励まし合いながら、講師の先生のご指導を頼みに、日頃の精進を作品に仕上げて発表してきました。暮らしの中に書を活かす喜びもあります。
田中明先生の奥様田中信子先生が日本画の講座をペアーレで開講された平成5年、主人の強い勧めで日本画を始めました。二人とも美術館や展覧会、毎年の正倉院展にも出かけていて美術工芸には興味がありました。上手くなるはずもないのに構図や色について、批評家なみによく声をかけてくれました。私の絵は私の絵でしかないのですが、そんな会話も今では思い出になりました。
ひとりになって空虚の日を過ごすうち、絵をもう一度描いてみたい、きれいな絵を書きたい、美しい色を使いたいと教室に戻りました。試行錯誤を繰り返し、クリアーできると新たな発見がとても嬉しいものです。まだまだですが絵には終わりがないのです。集中している私がいるだけ。それでも絵には私の思いがこもっているように感じます。私の悩みや迷い、憧れや喜びが見えるでしょうか。歌を添えてその年の1枚を年賀状にすること10年余り。独りよがりながら、手が動く限りやってみようかなと思っています。
所属する歩彩会の第20回記念展で孫5人を出品しました。サッカー少年,苺とマーくん、トロンボーンの少女、川遊びの笑顔、昆虫少年の連作で喜寿の記念になりました。
道のおわりに
私の道には いのちを輝かせた方たちの面影が残されています。生きた証しを大切に、尊敬と感謝の念を捧げたく思っています。
私が生きてきた道は平凡な普通の道だったと思っています。高い山や深い谷が在ったわけではないけれど、確かに大なり小なりの節目はありました。神のみぞ知る偶然もあり、自分で選んだ厳しい道も残されています。
道を歩きながら川の流れに身を任せていたような時もあり、逆らうように身を捩ってしまうこともありました。けれど私はひとりではなかった。ひとりで歩いてはいなかったと思っています。
でこぼこ道で小さな波風を浴びましたが、どんな時も周りの人に教えられ、助けられ、伴走者がついていて切り抜けることができました。形には残っていないけれど、歩いてみつけたたくさんの出会いは生きる糧となり、私を優しくしあわせにしてくれています。
79年の反省も後悔も涙も「負」の袋にしまいこんで、いつか近いうちに「わすれびと」になるかもしれない不安もありますが、あるがままに生きて、ありがとうを言い続けたいと願っています。

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