No44
鯖江の眼鏡 眼鏡の鯖江

― 更なる高みを目指す ―



宮 本 博 雅


宮本 博雅(武高30会会員)
MIYAMOTO, Hiromasa

 旧姓高坂。1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校を卒業。1959年福井大学教育学部(書道専攻)を卒業。同年敦賀北小学校、1961年福井大学付属小学校教諭として奉職ののち、1963年宮本眼鏡商会入社。1973年宮本眼鏡株式会社に改組し、1980年新社屋宮本ビル唆工。同年義父甚(やすし)死去により社長に就任。1994年〜99年福井県眼鏡卸商協同組合理事長、福井県眼鏡協会副会長、1996年全日本眼鏡卸連合会会長、1996〜97年日本眼鏡関連団体協議会幹事などを歴任。2006年秋、旭日双光章を受章。同年11月会社の会長に就任。現在、福井県眼鏡卸商協同組合顧問、鯖江商工会議所顧問を務める。(福井県鯖江市在住)




 昭和38年豪雪の年、4年の教員生活の後、鯖江の宮本家へ婿養子に入り、眼鏡業界へ一歩踏み出すことになった。義父は大坂で丁稚奉公ののち独立して、昭和7年産元卸商を立ち上げた。私の会社には、当時としては珍しいレンズの入った軒下カンバンが飾ってある。そこにはヴイオレット 各種眼鏡製作直売 越前屋商店とある。



 義父は、戦前戦中戦後と苦労を重ね、商いをやってきた。身体が無理できないこともあって、業界のこと、商品のことなど、情報を筆まめに顧客に伝えて信頼を得るという、今のインターネット的商法を行った。私が感銘を受けた一人である。

 私は、商いの基本的考え方として5年先を見据え、達成できたら次の5年の目標を定めるようにしてきた。昭和48年、10年目にして株式会社に改組。さらに5年後、市の都市計画による駅前開発の折りに社屋ビル建設を計画。同級の上田順也君に設計を依頼し昭和55年春に竣工することができ、小規模ながら業界では認められ信頼される会社になった。

 私どもの組織「福井県眼鏡卸商協同組合」の監事を昭和51年・52年と務め、昭和58年理事となり、20年にわたり組合活動を続けた。最も印象深く思い出されるのは、平成6年から6年間理事長として、また福井県眼鏡協会の副会長を務め、平成8年全日本眼鏡卸連合会会長の職にあったときには、業界最高機関、日本眼鏡関連団体協議会の幹事会の席上「10月1日を眼鏡の日」と定めてはどうかと提案し、審議を重ね翌年の総会にて最終決定したことである。全国各地で行っていた個々の行事を統一でき、業界のイメージアップ、眼鏡のPR、販路拡大にと、その効果は大きかった。組合活動を長きにわたり務めたということで、平成18年秋、旭日双光章なる褒章の栄に浴し、皇居に参内出来たことも印象深い。

 平成17年に、武生第一中学校第5回卒業生の古稀記念文集を、江尻君編纂のもと岩井君、廣田君、藤井君が発起人となり、平野君印刷にて「無邪気な田舎の挑戦者たち」を発刊、丹南の小・中学校、教育委員会、報道機関などに寄贈出来たことも思い出深い。

 ここで何故福井の地に眼鏡産業が発展したのか、その歴史を紹介しよう。

 鯖江市にある福井県眼鏡会館の前庭に、1体の胸像がある。「増永五左エ門」翁の銅像である。翁が生まれたのは明治4年、文殊山の麓、足羽郡麻生津村生野(現 福井市)である。庄屋を務める旧家の跡取りとして何不自由なく育った。

 青年になり村会議員になった翁は、戸数36戸の貧しい村人が少しでも良い暮らしが出来ればとの思いで、翁の同級生増永五作(義父が大正に入って番頭をしていた大坂の商店)と、10歳年下の幸八の二人の助言のもと、眼鏡作りの産声をあげた。明治38年(1905年)のことである。大坂の眼鏡卸商「明昌堂」を営む橋本清三郎(五作・幸八の出入り先)の力を借り、眼鏡職人 米田与八を迎え、生野で眼鏡作りが始まった。増永一期生と呼ばれる数人が、彼の指導の下、挑戦を始めた。その情熱はすさまじく、わずか半年で覚えてしまった。しかし真鍮の安物製品ではだめで上物を作らねばと、居づらくなった職人米田は引き上げ、金張製品の名工 大岩金之助(東京)の門下生の一人 豊島松太郎が技術指導にやってきた。生野の若者や近隣のものが、徒弟奉公として彼から血まなこで技術を学んだ。

 奉公には3種類あり、通勤が3年、住込み年期奉公が5年、徒弟奉公は入門時に差込契約書を書き、途中で辞める時は損害金を払わねばならないという厳しいものであった。ただ一つ、職人にとっての楽しみは、尋常小学校(4年)しか終了していない若者のため、翁が夜学校を開いたことであった。5年後35人に膨れあがった職人たちは、教育も受け、増永工場を巣立って独立し、福井産地の屋台骨を支える人々となった。翁の「仕事は人、人は教育」の精神が脈々と生きていた。


 昨 平成27年(2015年)、福井の眼鏡産地は110周年を迎えた。世界に誇る一大産地として自他共に認める組織となった。地域に根ざす6千人の人が従事する日本を代表する地場産業、更なる高みを目指す。