60年前の武生の音楽事情
― 鹿踊りのはじまり ―
池 田 温
池田 温(武高30会会員)
IKEDA, Yutaka
1952年武生第一中学校、1955年武生高等学校、1961年国立音楽大学を卒業。同年東京都公立学校教員、1982年文化庁芸術調査官・同主任調査官、1996年新国立劇場事業部長、1985年から文化庁に勤務しながら武蔵野音楽大学音楽教育学科非常勤講師、1996年武蔵野音楽大学教授、2015年退任。その後、武蔵野音楽大学名誉教授。(東京都国分寺市在住後、2015年10月1日逝去、行年79歳)
私たちが武生高校卒業した昭和30年頃は、戦後10年しか経っておらず、音楽の情報といえば、NHKのAMラジオ放送2波(第1放送と第2放送)に音楽専門誌、そしてレコードでした。そのレコードも、SPレコードからLPレコードに変わる時期で、店頭に少し並べられている程度。しかも高価で、われわれ高校生がそう簡単に買うわけにはいきませんでした。
とはいえ、あの悲惨な戦争が終わることで、世界中の芸術活動が堰を切ったように急速に動き出したていたのです。日本も例外ではなく、戦争で音楽どころではなかった人々が、それまで抑えていた感情を吐露するように音楽活動をはじめたのです。
クラシック音楽の世界では、ドイツのバイロイト祝祭劇場やイタリアのミラノ・スカラ座、ウィーンのウィーン国立歌劇場など、ヨーロッパの一流劇場やホールが次々修復され、その活動は急速に高まっていきました。我が国でも、昭和20年代には、関西歌劇団、二期会などが、昭和30年代になると日本フィル、読売日響、京都市響などの歌劇団やオーケストラが次々と創立され、急速に音楽活動がはじまります。また、まだ東京でも演奏会場といえば日比谷公会堂くらいしかありませんでしたが海外から著名な演奏家が次々と来日します。昭和20年代に来日した特に著名な演奏家だけをあげてみても、ユーディ・メニューイン、アルフレッド・コルトー、ヨゼフ・シゲティ、ワルター・ギーゼキング、マリアン・アンダーソン、アイザック・スターン、ゲルハルト・ヒュッシュ、ウィルヘルム・バックハウス、フェルッチョ・タリアヴィーニ、ヤシャ・ハイフェッツ、ウィルヘルム・ケンプ、アリゴ・ポーラ等々、世界超一流の演奏家が来日しています。
さらに大阪では昭和33年に、朝日新聞社がフェスティバルホールという立派なホールを建てて「大阪国際音楽フェスティバル」を、また、昭和31年からNHKが「イタリア歌劇団公演」を開催し、マリオ・デル・モナコやフェルッチョ・タリアヴィーニ、ジュリエッ夕・シミオナート、レナータ・テパルディなど超一級の歌手をイタリアから招き公演を行いました。
これら、それまで現地に行かなくては絶対に耳にすることのできなかった超一流の音楽を、目の前で聴くことができる時代となったのです。このことによって我が国のクラシック音楽活動のレベルは一挙に上がることとなります。
しかしながら、我が武生にいる限りでは、こうした情報の唯一のよりどころが、文字情報としての「音楽之友」という音楽月刊誌と新聞報道、そして音質の悪いラジオがある程度でした。交通網がまだまだ戦後の復旧から、オリンピックに向けての整備進行中で、中央から遠く離れた武生では、それらを聴くチャンスは無いに等しく、中央と大きな落差がありました。
そんな状況の中でも福井でプロの演奏を聴く機会が少しずつ出てきました。私が中学2年生のときの北福井の佐佳枝(さかえ)劇場という映画館でのNHK交響楽団演奏会、福井公会堂での宮城道雄の箏曲演奏会、名古屋放送管弦楽団演奏会などが大きく印象に残っています。とくに、NHK交響楽団の演奏会は、初めて聴くプロオーケストラの演奏会で、大変感動し、私が将来音楽の道に進みたいと思う大きな要因となりました。プログラムは、シューベルトの「未完成交響曲」とウィンナーワルツ等の名曲シリーズ。音楽の素晴らしさに感動したことはもちろんですが、初めて観るクルト・ヴェスというウィーン出身の指揮者の指揮に驚いたものです。
というのも、我々がそれまで福井で観ていた合唱などの指揮とは全く違うのです。まず、指揮棒が振り下ろされてからオーケストラが響くまでにかなりのタイムラグがあるのです。まだTVの無い時代。ラジオで音だけは聴いていましたし、指揮者の写真も見ていましたが、本場ウィーンの指揮者の動く姿ははじめて目にしたわけです。そのはじめて観るプロの指揮者の指揮の仕方に驚くとともに、不思議な魅力に引き込まれていきました。当時武生高校合唱部の指揮者をしていました私は、この格好のいい指揮ができないか鏡をみながら練習したものですが、当然のことながら、基本を知らない私にはできませんでした。
私たち武生高校に何人かいたクラシック音楽ファンの新たな演奏に接するチャンスといえば、レコード店で聴かせてもらう新譜レコードだけでした。ですから、私たち武生高校の音楽ファンは、レコード店に入り浸って次々新譜レコードを聴かせてもらっていました。その時代のレコードの扱い方は現在とは全く違っていて、販売商品のレコードでもどんどん針を入れて、買ってくれそうな客には聴かせてくれたのです。
この頃のクラシックレコードのスターと言えば、ヘルベルト・フォン・カラヤン。戦前から世界的名指揮者として活躍していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーの若き対抗馬として彗星の如くデビューしてきた人でした。我々はお店で、カラヤンの「第九」のレコードを何度も何度も聴かせてもらっていました。
ちょうどその頃、昭和29年4月にカラヤンが初来日し、各地でNHK交響楽団を指揮するという話を聞きました。調べると、名古屋公会堂でも「第九」を演奏するという。そこで私は、親友の瓜生保昭君と相談しました。そして、修学旅行に行くのをやめて、その費用で名古屋まで聴きに行くことにしたのです。
それは、ちょうど武生高校の音楽科の予算で、そのカラヤン指揮の「第九」のレコードを買ってもらうことができ、みんなで何度も聴いていたことがきっかけでした。そのカラヤンの演奏を生で聴くことができる!そんなチャンスはもう無いかもしれないと思ったのです。
まだ北陸トンネルができていない時代。杉津を通り、葉原を抜ける旧北陸本線を通って蒸気機関車の牽く鈍行で6時間かけて名古屋まで行きました。生まれて初めて聴くプロの「第九」です。合唱は東京藝術大学と、後に私が学ぶこととなる国立音楽大学。ソリストは当時の我が国第一級の方々でした。この演奏には大変感動しました。終演後には楽屋に並んでカラヤンからサインをもらいました。そのサイン入りのプログラムはいまでも大切に保存してあります。この演奏会が私のその後の音楽人生には大きな体験として生きています。
こうしたことがきっかけで、音大へ進みたいと具体的に考えるようになりました。声楽科に進みたいと思っていたのですが、武生はもちろん、福井にも男声の声楽の先生が居られませんでした。そこで、武生高校にあったドイツのゲルハルト・ヒュッシュというバリトン歌手の歌うSPレコードで勉強することにしました。シューベルト作曲の歌曲『冬の旅』(全24曲)。それを借りて祖父が買った手回し蓄音機で、毎日毎日繰り返し聴いて勉強したのです。あまりずっと聴いていると父親に怒られるので、夜は蓄音機ごと布団を被って聴いたものです。
そして、歌とピアノを武生高校の葛西いね先生、和声学を福井大学の大給正夫先生にご指導いただいて、一浪はしたものの何とか東京の国立音楽大学へ進むことができました。合格の可能性など全く分からない音大の受験に毎日不安な思いで聴いていた「冬の旅」のレコードの鑑賞の日々を、今は懐かしく思い返しています。
音大卒業後は、早く武生に戻るように言われましたが、もう少し東京で勉強してからと思って音楽科の教員になりました。教員生活を送ったのちは、文化行政や劇場のスタッフなどを勤め、考えてもみなかったことですが自分が音大で学生を指導するようになり、あっという間に半世紀が過ぎてしまいました。
そんな私が音大に入学して間もなく。ふと偶然読んだ宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』という童話があります。人が落とした日本手ぬぐいを見た6頭の鹿たちが、これは何だろうとその周りをぐるぐるまわりながら踊ります。そのうち一頭ずつ歌を披露して輪になって踊るという物語です。この歌に曲をつけてみようと考えました。作曲の手法など全く知らない私でしたが、見よう見まねで作った曲です。60年たった現在でも珍しく気に入っているメロディーなので、記念にこの文集に載せさせていただきました。
[編集部注]
傘寿記念文集181頁 (この電子版では付録「会員の便り」欄) に紹介しましたように、池田温氏は2015年10月1日に逝去されました。ご霊前にお供えいただければと、完成した文集をご遺族にお贈りしたところ、ご長男の茂樹様よりお礼のメール返信があり、氏が病床で準備されていたこのご遺稿を送付いただきました。
メールには「父のパソコンに文集用の原稿がありましたので、添付いたしました。せっかくですのでご高覧いただければ幸いです。」とあり、また、「この文集のことは伺っていて、父も原稿を書き終えていたのですが、亡くなる10日ほど前に『ここに楽譜を載せたいから探してくれ』と言われまして、ところが言われたところを探しても見つからず、亡くなる前日にもその話をしたら『やっぱり自分で探さないとだめか』と言っておりました。」とありました。
編集部では、今後発見されることがあれば、是非ここに掲載したいものと思っています。

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