死後の世界と魂はあるのか

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このサイトについて(生と死、魂についての筆者の所感)

死後の世界について。魂の行方について。このテーマは、誰もが一度は考えたことがあるはずです。そして、その明確な答えにたどり着けぬまま、私たちは多くの日々を、それを忘れながら生きます。

もしそうでなく、われ思う、ゆえにわれあり、と言った高名な哲学者のように、あなたが毎日そのことを考え続けているなら、このサイトに書かれてあることは、大いにあなたの役に立つでしょう。モーガン・フリーマンが、このテーマのナビゲートをしてくれます。

このサイトの全てを読んでも、魂の何たるかの謎は、解き明かされません。しかし、現代の科学者たちが、脳神経学、認知科学、量子力学などの分野から魂や意識をどうとらえようとしているのか、どうアプローチしているかの一端を垣間見ることができるでしょう。

意識のハードプロブレムや哲学的ゾンビにも軽く触れられていますが、クオリアや意識の発生過程を不思議に思い、その探求に心惹かれている方にとっては、興味深い内容になっていると思います。

「意識」とは不思議なものです。筆者は、魂や意識とは、原意識をブラウジングしているフレームなのではないかと思っていますが、これには根拠はありません。思考は、物事の違いをとらえることであって、思考という作業を通じてイデアに“境界”を作ることが、意識の大きな仕事であると筆者は思います。

筆者は科学者ではありませんし、宗教家でもありません(しいて言えば仏教徒です)が、科学で解明されていないこと――目に見えず、触れられもせず、認識もされていない何か――の全てはその存在が否定され、かつ非科学的であるという考え方には賛同できません。認知されていない現象・事象が科学的でないという考え方自体、科学的ではないからです。つまり、「死」や「意識」あるいは「魂」という事象・現象を含めた、その存在を完全に立証も否定もできないことについて、あるのだ、ないのだと、あるいは科学的なのだ、非科学的なのだと論争すること自体が間違いだと思うわけです。

人間という有機生物は、栄養素と呼吸を常に必要とし、それらがなくなれば、有機的には機能を停止します。この限定された条件の範囲のなかだけにおいて、「私」は「あなた」と意思疎通することができ、その限定された「世界」を整理し理解しようとする、もとより限定された存在なのです。魂や世界や人生の「存在」は、その限定された存在そのものが、実に矮小な存在の仕方とその思考のなかで捉えようとするもので、その思考が全てであるという考え方は、はたして霊長を自称するに足るのでしょうか。

また、私たちの身体を構成する原子、分子、素粒子などは、「私」という存在の完全なる所有物でしょうか。そうだと答える人は少数派でしょう。現代の量子力学によれば、物質の存在すらあやふやです。そう考えれば、魂や意識が、一種のエネルギーであれ、物質であれ、または幻想であったとしても、その所有権は「あなた」や「私」に完全に帰属しないことになるのではないでしょうか。

私たち個々人のための意識や魂が、宇宙の誕生と同時に存在したのでしょうか。ビッグバンが起き、宇宙が誕生した瞬間から、私たちの魂や意識もまた同時に生まれ、分裂し、その瞬間に個々人が個性を獲得し、それぞれの所有となったという考えは、私にはどうもしっくりきません。宇宙の誕生の瞬間には、私たち自身の個人的な所有物は、何一つなかったのではないでしょうか。そして、私たちが「死」によって、「私」を構成していた何物かが「所有」という概念から解き放たれるならば、いかなる種類のエネルギーであれ、物質であれ、「私」は単に別の存在の形態へと移行するに過ぎないのではないでしょうか。

もしかしたら、“意識”や“魂”と我々が名づけているものへの、我々による「所有」の概念こそ、幻想なのかもしれません。壮大な幻想であって、それこそが魂の本質なのかもしれません。“自分”という肉体と一体になった意識が、一見独立しているように思われて実は他の一切の存在と分け隔てられていないこと、エネルギーも物質もその他のものも、境界線があいまいであることに気づいたときに、生と死についてのより深い考察と歩みが始まる、そんな気がします。

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