ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

ヴィルヘルム・カナリス

カナリス提督 反ヒトラー派のスパイ

1942年9月30日。アウシュヴィッツに列車が向かいました。乗客800人の大部分はオランダのユダヤ人です。同日、ドイツからスイスに向かう急行列車。ここにもユダヤ人がいました。乗客は全員で12人です。バーゼル駅まで行けば、彼らは自由です。

ドイツ系ユダヤ人 イルムガルト・アムソン「バーゼル到着は夜明けでした。覚えているのは、みんながユダヤ人の印を袖からちぎったことです。服が破れるのも一向に構いません。激しくちぎると床を足で踏み鳴らしました。忘れられません。」

彼らを救ったのはヒトラーの部下でした。何百人も救った人物。ヴィルヘルム・カナリス、国防軍情報部長(写真右)。

そのころの東部戦線。後方でのパルチザンとの戦いを指示したのもカナリスです。スパイ活動、妨害活動、口コミ(プロパガンダ)が任務でした。損失の大きい、汚い戦争です。

情報員訓練教官 R・シュターリッツ「後方で活動した情報員で、生き残ったのはせいぜい5から10パーセントだ。」

ヒトラー配下の軍人。服従と良心の狭間で彼らは戦いました。抑圧と抗議。ヒトラーに助力した敵対者。人々を救いつつ他の人々の殺害命令を出す。カナリスに答えはわかりませんでした。

イギリス情報部員 H・トレヴァー・ローバー「法律と宗教の対立はギリシア悲劇でも描かれている。常に自身に問い、答えを見出さねばならない。」

情報部長として

1935年の夏。幻想の時代です。数年後に何が起こるか、彼らには想像できません。カナリスはこの年、情報部長になりました。情報部アップヴェーアは国防軍所属でした。この部門は、新しい国家と共に歩みます。

「国防の日」で彼の姿は撮影されていません。痕跡が残るカメラを彼は嫌いました。

カナリスの友人 W・レーフェルト「彼が50歳くらいのときに私は知り合いました。海軍に所属することを誇りに思う、とても善良なドイツ人でした。」

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「カナリス提督は、とても親切で、物静かな人でした。」

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「彼は小柄で、純真な丸い目で見つめていた。人をだますことを楽しんでいた。」

戦後、彼は伝説となりました。独裁者の陰にいた「善人」の典型です。しかし事実は複雑です。当初は「総統」を尊敬しこの文章を書きました。

“国防軍は総統の意向を正確に実現するべきだ”。非ナチ党員でしたが、ヒトラーを国家元首にふさわしいと考えました。

ドーナニーの息子 クラウス・V・ドーナニー「彼は積極的な愛国者だった。ヴェルサイユ条約など1920年代のドイツの状況は、民主主義者たちも、ひどいと感じていた。それを排除したヒトラーは正しいと考えられた。そののちに、恐怖を知った。彼の本質は悪魔だと感じた人は少なかった。」

カナリスは悪魔に気づきません。親衛隊のスパイ活動も気にしませんでした。警告した人物にこう言いました。“私はこの若者たちで十分だ”。

優秀な情報部~反乱運動への参加

やがて情報部は注目を浴び、スパイ活動を拡張します。情報員は増え、装備もよくなり、敵は感心しました。

イギリスの情報員 ビル・クルーム「カナリスはまさにプロで情報員も優秀。うらやましかった。」

彼はヒトラーと面識がありました。1933年(ヒトラーの)キールの艦隊訪問。彼らは互いを高く評価しました。当時カナリスは、戦艦シュレージエンの艦長でした。彼はヒトラーにとって必要な人物でした。これまでに多くの仕事をした人物です。第一次世界大戦ではUボート艦長として叙勲。既に中立国のスペインで情報員の経験を積んでいました。2度逮捕されました。一度は命がけのアンデス越えで、チリからアルゼンチンに脱出。次は聖職者の服を着てイタリアの刑務所から脱出。女スパイ、マタ・ハリと関係したともいわれます。彼が好んで広めたうわさです。

ローザ・ルクセンブルク殺害の裁判では、彼は犯人に協力しました。彼は軍法法廷で、犯人に軽い刑を宣告しました。2年間の懲役です。間もなく、偽の軍服と書類で、ある軍人が犯人を逃がしました。カナリスには、共産主義者殺害は犯罪ではありません。政治的なバランスの取れた判決と、上司は評価しました。彼はナチ国家でも昇進を始めます。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「ヒトラーは、彼のことを優秀な情報部長だと考えた。比肩しうる者はいないとも。」

優秀だと誤認される最初の経歴。1936年スペイン内戦、敵は再び共産主義者です。右翼の希望フランコは、彼の知己ちきでした。モロッコにいた軍の移動を、フランコはヒトラーに依頼。当時バイロイトにいた彼はこの冒険をためらいます。カナリスは疑念の払拭に務めました。ドイツが移動に協力し内戦の戦況が変わりました。フランコとカナリスは親交を深めました。

カナリスは引退後の生活に、スペインの別荘を夢みました。執務室の机にはフランコの写真がありました。その他は歴史や宗教、哲学の本ばかりです。そして、彼の仕事では不可欠な三猿の像です。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「最初のサルは口をふさいで、二匹目が目を、三匹目が耳をふさいでいました。つまり、言わざる、見ざる、聞かざる。気をつけろという警告信号です。」

カナリス自身もそうでした。1938年、ズデーテン地方をヒトラーは要求しました。チェコスロバキアでは、動員がかけられました。カナリスが危惧する戦争は、目の前でした。ズデーテンのために危険を冒す?カナリスはチェコ軍の強さを認識し、西側の反応を危惧しました。必要ならばヒトラーに逆らうつもりでした。

1936年9月12日(ヒトラーの声)「チェコスロバキアのドイツ人は、身を守るすべがない。彼らを守ろうではないか。」

共謀者は、友人で同僚のハンス・オスター大佐(写真左)。そして参謀総長ルートヴィヒ・ベック(写真右)です。彼らはためらいました。ヒトラー相手では、反逆罪があります。カナリスは特殊部隊にヒトラー逮捕の準備を命じました。目標は近くありませんでした。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「当時の参加者は全員、過去への見解は異なっても、一致していました。実際に反乱を起こす準備を、十分に整えていました。」

ハイドリヒとの親交とハイデン牧師の救出

突然、転機が訪れます。イギリス首相はヒトラーにズデーテン割譲を認めました。戦争準備の時間稼ぎが目的です。平和の使者としての歓迎。反乱者は一時的に解散。歓迎される人物の打倒は、不可能です。カナリスは冷静に判断しました。計画は敵に気づかれたでしょうか。親衛隊の実力者ハイドリヒ(写真右)は?カナリスは彼と親交を深め、乗馬仲間になりました。ヒトラー信奉者との交友は職務からか、友情からか。

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「ハイドリヒは、以前から提督と知り合いでした。この交友関係は、当然大切に続けられました。提督には情報部長として重要でしたから。ハイドリヒを敵に回したら、大部分の仕事ができません。」

仕事以上のものでした。カナリスの家の向かいにハイドリヒが転居し、家族ぐるみで交際しました。第三帝国内の奇妙な関係。カナリスと大量虐殺の首謀者の友情です。シナゴーグ破壊が始まっても、関係は続きました。1938年、カナリスは動揺します。上司のカイテルは、苦情に対し何もしませんでした。彼は、大悪の中の小悪を正そうとしました。第三帝国内の奇妙な関係。カナリスと大量虐殺の首謀者の友情です。牧師ハイデンはユダヤ人迫害に反対し、ゲシュタポに逮捕され、カナリスが救出しました。

ハイデン牧師の息子 ジークフリート・ハイデン「同じ日の午後、カナリスは尋問にこう答えた。牧師はそう言わなかった、と。そうやって彼は罠から抜け出した。父のためにした、最もよい行動だった。」

彼は同時に、独裁者の有能な助手でした。戦艦ディルビッツの命名式(写真左)。軍備拡張の功績により、カナリスが来賓でした。見えない前線、スパイ活動です。多くの戦利品を得ました。アメリカの高性能の爆撃照準器。フランス海軍の暗号の解読法は、今後活用できます。情報員同様、テロリズムも中央の指示で輸出されました。アイルランドではIRAの支援です。

IRAテロリストの息子 D・オドノヴァン「ドイツとの連絡用無線機をIRAは求め、手に入れた。武器購入の資金も手に入れた。ドイツからの軍事支援も求めたが、これは夢で、実現しなかった。」

ドイツ情報部の支援によるIRAの爆破テロ。イギリスの敵は、ドイツが支援しました。アイルランドのテロリストも。犠牲者への責任は、カナリスにあります。迫害される人々を守り、不正を主導する。矛盾する行動を、同時に処理しました。

西側への戦争阻止の試み

1939年8月。スペインからコンドル軍団が帰還。カナリスが道をつけた戦争です。彼は、大きな戦争の序曲にすぎないと気づきました。これは唯一現存するカナリスの動画(写真左 註:動画フィルムに収められてはいるが、あまり動きはない。)です。当時彼は志を同じくする将官たちと、災厄の回避を試みました。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「彼は心の底からキリスト教徒だった。そしてこう確信し、ひどく悩んでいた。この無意味な戦争で、ドイツの終わりが訪れる、と。」

ドイツの終わりは1週間早く始まりました。8月26日の朝。ある部隊がポーランド南部を襲撃しました。第二次世界大戦初の戦闘(を行ったの)はカナリスの部下でした。彼らに無線機がなかったからです。全軍への攻撃命令は当日夜に撤回されました。彼らだけが、撤回を知りませんでした。独裁者は5日後に攻撃を命じました。

カナリスは占領後間もないワルシャワに入り、驚愕します。破壊、窮乏、最初の殺戮さつりく。再び手続き通り、上司に苦情を言いました。再び却下されました。彼は忠実に働く罪ほろぼしか、人々を助けました。迫害されたポーランド人を保護し、外国に送り出しました。

カナリスが救出した K・マンコフスカ伯爵夫人「彼はロンドンで何もしなくていいと。彼が唯一頼んだのは、残酷ではないドイツ人もいると伝えること。全員が醜悪なのではない、連合軍が理解を示し抵抗運動を支援すれば、共同戦線を張れるかもしれない、と。」

戦線は実現せず、将官で賛同する者はいませんでした。彼は西側への侵略戦争を防ぐ共謀者を捜しました。彼らはヒトラーに従います。

ハンス・オスターのヒトラー背信とハイドリヒの看破

1940年初頭、ドイツ兵のノルウェーに向けた乗船。カナリスは最後まで阻止に努めました。同時に、入念な準備。西側への裏切りを、彼は知りません。彼の友人オスター(写真右)は、ヒトラーへの背信を決意。

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「ルビコン川を越えたと、彼は言っていました。そして良心にかけて責任を取ると。釈明しなければならない日が来る、とも。ヒトラーよりも高い存在に。」

ヒトラーに西側の強さを見せ付けようと、オスターはオランダ側に作戦内容を連絡。多くの兵士は、現在でもこの方法を許せません。

ブランデンブルク師団 H・クリスティアンセン「味方の兵士を死に追いやる行為だ。平和を望んでも、作戦漏洩ろうえいはいけない。裏切り者が優雅に暮らす一方で、裏切られた兵士が戦場で攻撃されるのだから。」

1940年5月、フランスへの攻撃。西側はオスターの情報を信用しません。彼の行動は無意味でした。一方、カナリス指揮下の部隊が、短期での勝利をもたらします。ブランデンブルク師団の活躍で、電撃戦を制しました。ヴェルダンの総司令官。友人の裏切りをまだ知らないカナリスも喜びました。国家反逆罪防止も情報部の役目でした。プロパガンダとの協力です。

<静かに!>『密告者』1936年のプロパガンダ映画「彼は軽率に秘密を外国に手渡した。立派な犯罪行為。その行為が意図的なものなら国家反逆罪だ。情状酌量はない。」

「スローガンは『口をつぐめ、敵が聞きつけるぞ』。」<静かに!>

盗聴記録でオスターの行為が報告されました。カナリスは、自分のためにも彼を擁護。しかし、親衛隊のライバルも知り、情報部長を攻撃する材料としました。

親衛隊情報部員 W・ヘッテル「ハイドリヒは早くからカナリスを見抜いていた。ハイドリヒはヒトラーに何度も知らせ、警告していた。そしてハイドリヒは驚いた。事情を知る我々も驚いたことに、ヒトラーはカナリスを高く評価していた。そして長い間、彼をかばっていた。」

ヒムラー(写真左、中央の人物)も彼をかばいました。野心家ハイドリヒの対抗相手として。(カナリスは)ハイドリヒとの友情を続け、一方で情報機関の地位をめぐり争いました。カナリスは敗北を予感しました。協議での欠席が増えます。悪と道徳の狭間で揺れ、仕事に疲れました。すべての前線において。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「彼は戦争の間じゅう、ずっと恐れていた。だから彼は旅をし、落ち着かなかった。心の平穏を失い、突然旅に出ていた。1週間不在のあと戻ってきたり、彼はとても突飛とっぴだった。」

部下がゲットー開設を報告します。大量虐殺の前段階です。彼は情報を集めました。彼の親友ドーナニー(写真右)は、有罪の証拠を集めました。ヒトラーを裁判にかける日のために。後日、この資料が破滅をもたらします。

薄暗いカトリック教会に彼は逃げました。精神の慰めです。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「意気消沈していたのは、表情で分かりました。彼の眼はすっかり曇り、悲しげでした。」

フランコへの助言~ドイツ破滅への道

スペイン旅行は気晴らしでした。ヒトラーの指示で極秘の旅。ジブラルタル征服をフランコに説得します。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「セヴァストーポリに集まった巨大な大砲があれば、激しい戦いになるが、容易に勝てただろう。」

艦隊基地が地中海支配の鍵でした。しかし彼は任務遂行を考えず、フランコに不関与を助言しました。友好的に拒絶したため、(カナリスは)その後も地位を保ちました。

1941年6月9日、オランダ。ヴィルヘルム2世(写真左:ヴィルヘルム2世の棺の葬列)の埋葬。カナリスにとってのドイツも、これで葬られました。そして、ドイツの破滅への道。カナリスが警告した、ソ連侵攻の始まりです。(カナリスは)頭上を飛ぶ爆撃機の増加を予想しました。軍備では対抗できないことも。

総司令官にとって、情報部長の予想は悲観的でした。

イギリスの情報員 ビル・クルーム「絶望的だったろう。納得ゆく情報を集めても上司が聞き入れないのだから。」

ソ連侵攻~ハイドリヒの死

1941年6月22日、国防軍のソ連侵攻が始まります。機甲兵が個人的に撮影した破壊の様子です(右の3枚の写真)。冬は攻撃が停滞しました。ドイツ側の損害が増加します、カナリスの予想通り。(写真左:ドイツ兵の戦地の墓)

彼はスケープゴートとして職を解かれましたが、任務継続を主張しました。彼は司令部に赴き、総統に再任を求め、成功しました。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「カナリスは直接対話ができました。対処法を知っていました。ヒトラーはそのとき、とても礼儀正しくふるまい、そして好意を示しました。情報部の仕事を称賛しました。」

なぜ彼は、責任ある地位を求めたのでしょう。最悪を回避するためでした。最悪とは?血なまぐさい情報部の任務。戦争捕虜から情報員を選びます。多くは教育中に死にました。

情報員訓練教官 R・シュターリッツ「私も目にした。情報員として教育した人々が、行動開始直前に集められた。装備を整えても、不安で任務を拒否する者がいた。機密を知った者として、全員殺された。我々は殺していない。だが情報部の上司たちが、親衛隊保安部に引き渡した。処刑直前の彼らの姿を見た。」

不安を感じたスパイは射殺。ブランデンブルク師団も巻き込んだゲリラ戦です。すさまじい戦いを、元兵士はこう弁明します。

ブランデンブルク師団 H・クリスティアンセン「我々はパルチザンと同じことをした。そうしなければと考えた。なぜなら以前にドイツの負傷兵が、移動中に襲われた。きれいごとではない。自分の身を自分で守らねばならなかった。」

守れないものもいました。カナリス配下の秘密軍警察の犠牲者です。後方での殺害に関与しました。(写真右:〔ドイツ軍に逆らったユダヤ人〕)秘密軍警察は国防軍の一部隊で、構成員は6,000人、親衛隊と協力関係でした。カナリスはその行動の責任を負いました。ハイドリヒ(写真左)は親衛隊への編入を考えました。カナリスが認めませんでした。部隊をめぐり書類上で戦います。(写真右:文書「秘密警察の引継ぎ…」)結論を前に、乗馬仲間が倒れました。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「階段を降りていたら、背後から声を掛けられた。“知っているか。ハイドリヒが殺された”。私は軽くこう言った。“やれやれ、あの豚が死んだ”。すると10時に来るように言われた。10時に行くと、彼はこう話した。第1に、ハイドリヒも人間だ、死者に鞭打つことをするな。第2に、あれは提督と話す口調ではない。」

国家行事としてのハイドリヒ葬礼の映像(写真左右)。国民の多くは大量虐殺の首謀者と知りません。カナリスは友人の死に涙しました。

情報部の作戦失敗と西側との交渉失敗

情報部の課題は、大西洋でUボートの損害が拡大する理由です。彼らは知りませんでした。連合軍がエニグマ解読に成功したことを。手痛い敗北です。情報員の逮捕による損失も増加。彼らにとって絶望的な活動でした。

IRAテロリストの息子 D・オドノヴァン「十分な教育がされず、情報も古かった。ある男性を思い出す。Uボートでやってきて、近くの駅で列車を待った。レールのさびに気づかないのか、数時間待った。そこは20年間使われていない駅だった。」

情報部の活動は前線から遠くなりました。パレスチナ人への武器の提供。イラクの反乱への資金提供。エジプトでの諜報活動。本物の「イングリッシュ・ペイシェント」。映画のモデルになったアルマシー伯爵(写真右)です。彼も任務に失敗。

(カナリス指揮の別の諜報員は)Uボートでアメリカへ。パストリウス作戦です。工作員はフロリダとニューヨークに上陸。任務は爆発物による攻撃とパニックの拡大。しかし上陸直後、FBIにより逮捕。アメリカのニュース映像(写真左:逮捕された工作員たち)です。6人が電気椅子で処刑。ヒトラーは怒りました。(逮捕、処刑された)彼らは功績あるナチ党員です。“ユダヤ人か犯罪者を使え”と彼(ヒトラー)は言いました。カナリスはそれに飛びつきます。ヒムラーと協議し、ユダヤ人を情報員に仕立て、解放しました。

ドイツ系ユダヤ人 ドロテー・フリース「ヒムラーが許可したそうです。私たちは諜報員としてスイスへ向かいました。イギリス人やアメリカ人から情報を探る名目でした。」

誰もスパイ活動をしません。毎日何千人もが収容所に送られ、助かった数百人は、スイスやスペインへ向かいました。彼らは今でも評価しています。

カナリスが救出した イルムガルト・アムソン「100パーセント確実なのは、1942年当時、国外脱出できなければ助からなかったということ。」

人々を救い、殺人者を助けるその顔は一致しません。カナリスは収容所のことも、自分が体制側なのも知っていました。彼はその重荷に勝てません。

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「彼は自殺するのではと、何度も考えました。しかし彼の哲学は“助けることができる”でした。それなりの数は妨げるだろう、と。」

カナリスは再び反乱者として西側と接触します。政治的解決を探りました。相手はイギリス情報部長メンジーズ(写真右)です。

イギリス情報部員 H・トレヴァー・ローパー「条件は、西部戦線のみでの和平だった。東部でドイツはソ連との戦争を継続する。しかしこれはドイツの本来の政策だ。背後の脅威がなくなれば、ヒトラーは喜ぶだろう。」

西側諸国は拒否し、彼との接触を止めました。ソ連との同盟は、ドイツ降伏まで続きます。ドイツの劣勢は、もはや明らかでした。

ヒトラー暗殺失敗

1943年3月13日。独裁者のスモレンスク航空基地視察。ヒトラーのパイロットによる撮影(写真左)。カナリスも特別機に同乗しました。荷物の中には暗殺用の爆弾。オスターとドーナニーが首謀者。カナリスの関与の程度は?

カナリスの秘書 インガ・ハーグ「全ては聞いていないと言いました。彼らをある程度まで守れるかもしれない。だが詳細を知りたいとは思わない、と。」

詳細を知らずに、彼は裏切りを支援します。寒さで爆弾は不発に終わりました。暴君の死で解決するのかは、以前からカナリスの疑問でした。

カナリスの部下 エーベルハルト・ベートゲ「我々の全員が確信していた。この行動が、ドイツを救うものだと。ドイツの救済には必要だった。そのためには罪を犯し、指導者を排除しなければならない。その罪は、自ら負わねばならない。」

疑念にさらされ彼は肉体的にも弱りました。1943年4月、情報部の執務室が捜索されました。照準は、謀反人のオスター(写真左)とドーナニー(写真右)です。カナリスには守れません。

カナリスの部下 Rラインハルト・シュピッツィ「カナリスは動けなかった。あのとき、何か言うべきだった。まだ執務室に入らずに控えの間で待つように、とでも。カイテルに連絡できたはずだ。もしかしたらヒムラーやヒトラーにも、異議を申し立てられたはずだ。」

その力はありません。ヒムラーが情報部を掌握し、テロ機構は完成。カナリスは抵抗のすべなく、職を外れました。

親衛隊情報部員 W・ヘッテル「彼は自分が落ち目だと分かっていた。私は感じた。彼はもともと、退職を嫌っていなかった。恐ろしかったのだろう。」

現実が彼の予想に近づくのも恐ろしいことでした。

バイエルン東部でカナリスは軟禁状態でした。ラウエンシュタイン城(写真左)です。尊敬すべき提督の罪を、誰も立証できません。海軍除隊通知の電報は不吉な兆候でした。

彼は家政婦あてに書きました。“家に帰りたいと思う。”

カナリスの逮捕

1944年7月20日、“総統は無事でした”――。カナリスは暗殺計画をベルリンで知りました。何も知らない彼も、報復に巻き込まれます。カナリスは逮捕され、尋問を受けます。彼は命がけですべてを否認します。ゲシュタポ地下室の尋問調書です。“戦争中の政権交代は、当然、卑怯な攻撃に等しいものだ。”

ベルリンが攻撃されるなか、彼は終戦を望みました。囚人は移送されました。

ハンス・オスターの娘 バルバラ・V・クラウス「1945年2月、ベルリンは激しい攻撃を受けました。彼らは姿を消しました。新しい連絡先が分かりませんでした。やがて葉書が届きました。他愛のない内容です。住所はありません。書けなかったのでしょう。」

そこはフロッセンビュルクの強制収容所です。

同じ場所にいた囚人 J・モーゲンセン「激しい拷問を受けたと言った。そして鼻を折られたとも言った。実際、そのようなやり方が普通だった。拷問や尋問では、締め上げる方法が採られた。彼にもやったのだろう。」

1945年3月、司令部の地下壕。偶然の発見です。カナリスの日記が鋼鉄の棚から見つかりました。ヒトラーはただちに、カナリス、オスター、ドーナニーの殺害を指示。4月9日、提督は絞首刑となりました。彼が逆らうと同時に助けていた人物の命令です。自らの罪を、どう見たのでしょう。

ドーナニーの息子 クラウス・V・ドーナニー「これはもっとも難しい問いだろう。戦争中、抵抗運動に加わった人々は、隠さねばならず、気づかれてはならなかった。戦争を行う機構に、常にいなければならなかった。」

直後にアメリカ軍が、収容所の少数の囚人を開放しました。4日早ければ、カナリスは助かりました。勝者は彼をどう扱ったでしょうか?かつての部下は、知ろうと思いません。

情報員訓練教官 R・シュターリッツ「彼の出動命令を忘れてはならない。人々が死へと送られた命令だ。そして人々を術にはめた。情報部の優秀さを示すため。そして一方で、反逆した。ある人にとっては命の恩人でも、何人もの人々が彼の命令で死んだ。」

カナリスは最後まで、国に尽くすことを考えました。総司令官が犯罪者と知り、反逆が始まりました。(しかし)最後の一歩を踏み出せませんでした。

イギリス情報部員 H・トレヴァー・ローパー「ハムレットは、不正の阻止と復讐を自分に課した。しかし決断できず、そのままにとどまった。結局、最悪の結果をもたらした。その意味で、カナリスは、古いドイツのハムレットだった。」

広告

ページ上部へ