ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング

ゲーリング ヒトラーの後継者と目された男

ヘルマン・ゲーリング。彼は、ドイツ第三帝国において、ヒトラーに次ぐナンバー2でした。大言壮語を操り、地位を利用して私腹を肥やした男。派手な衣装を着こなし、彼はナチスの権力者を演じました。国会議長、ドイツ空軍総司令官、国家元帥。華々しい経歴に飾られた彼の人生は、しかし最後、戦争裁判の被告として幕切れを迎えます。

ニュルンベルク裁判の通訳 E・ウィバーアル「彼は紛れもなく大衆を惹きつける何かを持っていました。ひょっとしたら頭脳がずば抜けていたのでしょう。だが良心とか善悪の判断力とかいうものが、そっくり欠落していました。」

女優 R・ミューテル「ゲーリングは太っていて、人と会うときはいつも、たくさんの勲章で身を飾り立てていました。もし権力者にならなかったら、彼は俳優になりたかったんだと思います。」

ゲーリングのおい K・リーゲレ「親類である私たちにとっては、彼はまさに一族のボスでした。何か問題や心配事が起きると決まって、誰かが彼のもとを訪ねました。そしてなんというか、ほとんど直立不動の姿勢で、彼の決定を仰ぐのが常でした。」

当時 戦闘機パイロット W・クルビンスキ「若い少尉にとっては憧れの人でした。彼は第一次世界大戦で武勲に輝いた戦闘機乗りです。だが、尊敬の気持ちはやがて失せました。」

1893年、バイエルン地方の裕福な家に、ヘルマン・ゲーリングは生まれました。両親は、息子にあまり愛情を注ぎませんでした。彼は、母親と、彼女の愛人のもとで子供時代を過ごします。ほったらかしにされた少年期、彼はよく一人の世界に逃げ込みました。子供らしさのない息子を見て母親は、この子は将来偉大な人物か、大犯罪人かのどちらかになる、と予言しました。幼年学校時代、ゲーリングの心に野心と積極性が芽生えます。彼は軍人になるという目標を得ました。家族と別れて暮らし始めたのも、彼にはほっとする出来事でした。彼は優秀な成績で士官候補生となり、誇らしげに軍服をまといます。

1911年、見習い士官の試験に、トップクラスの成績で合格。2年後にははれて任官、歩兵連隊の少尉となりました。冒険と名誉を求めて、心を躍らせる当時のゲーリングの姿です。

第一次世界大戦が始まると、彼は真っ先に空軍への入隊を志願します。地上よりも大空に、より魅力的な冒険があると予感したのです。パイロットとしての訓練を受けたのち、1916年に彼は初めて、空中戦を経験しました。彼はエリートパイロットへの道を突き進みました。勇敢な出撃によって、軍人に与えられる最高の勲章、プール・ル・メリット勲章が彼に授与されます。

しかし、敗戦ですべてが一変します。ベルサイユ条約によって、ドイツは軍事力をもぎ取られます。多くの軍人同様、ゲーリングもまた、裏切られたと感じました。失業軍人となった彼は、飛ぶことに執着しました。空中飛行ショーや貨物便のパイロットを務め、やがてスウェーデン航空に就職口を見出します。スウェーデンにいる間に、彼はある伯爵夫人に恋をします。相手のカーリン・フォン・カンツォーは、彼より5歳年上で、子供も一人いる身でした。しかし彼女もまた、しだいにこの向こう見ずなドイツ人青年の魅力に、惹きつけられたのです。恋人に説得されて、彼女はついに、夫と子供を捨てます。1923年、二人はドイツへ渡り結婚しました。ゲーリング、20代最後の年です。

ヒトラーとの出会いと麻薬中毒

久しぶりの祖国では、ベルサイユ体制への不満が街を揺るがしていました。ゲーリングはその中に、注目すべき一人の人物を見出します。アドルフ・ヒトラー。ゲーリングは、ヒトラーの演説に感銘を受けました。

彼は誕生間もないナチスに入党します。ヒトラーは、第一次大戦の勇士が加わることを喜び、彼に突撃隊司令官の座を与えました。制服を着たゲーリングに、軍人時代の輝かしい日々のイメージが蘇ります。

ゲーリングは、軍人らしい統率力を発揮します。しかし今度の任務は、国を守ることではありません。彼らの狙いは、破壊活動によって政権を奪い取ることでした。だが、1923年のミュンヘン一揆は完全に失敗しました。警察の発砲により、ゲーリングは太ももに重傷を負います。

逮捕を逃れて彼は亡命。ヒトラーは刑務所に入ります。この、ナチス冬の時代に、ゲーリングの一生に影を落とす、重大な出来事がありました。彼は、けがの治療に使われたモルヒネがもとで、麻薬常習者となったのです。彼は、薬が切れると暴力を振るうまでになり、一時期、危険な精神病患者の病棟に入れられました。当時のカルテに、のちの彼を言い当てるような言葉が並んでいます。自殺願望、抑うつ性、自己中心、そしてユダヤ人嫌い。ゲーリングは妻の実家で中毒と闘いながら、帰国のチャンスをうかがいました。

ヒトラー内閣成立 ゲーリングの入閣

ヒトラーは、1924年の末に釈放されるや、巻き返しを図ります。今度の手段は宣伝と扇動です。合法的に国会を乗っ取るのです。ゲーリングは、なおしばらく国外に潜伏し、1926年に大赦が下りたのをきっかけに、再びナチスに加わりました。ナチスと共に、ゲーリングはようやく望んでいた権力の階段を登り始めます。

ゲーリングのおい K・リーゲレ「叔父は、1923年にヒトラーと出会ったときに、確固たる信念を持ったのです。ドイツが敗戦後の悲惨な状況から抜け出すには、ヒトラーが必要だということをです。祖国の導き手は彼以外にないと、叔父は何度も私たちにそう語りました。ですから、ヒトラーに対する忠誠は、決して上辺だけのものではなかったと思います。」

<1933年1月 ヒトラー内閣成立>

1933年1月。ヒトラーはついに、念願の首相の椅子をものにします。このときはまだ、ナチスと国家人民党との連合政権です。副首相のパーペンは、ヒトラーは新政権の飾り物に過ぎないと軽んじていました。しかしヒトラーの頭の中には、ナチス独裁体制への次なる計画が出来上がっています。この新内閣で、ゲーリングは閣僚の地位に就きました。

<1933年 ゲーリング入閣>

新内閣成立の夜、ナチス支持者は、ベルリンの広場で盛大な勝利のパレードを繰り広げました。

(註:ゲーリングの所信表明)<「内務省トップに立つことを引き受けたとき、私はいかに困難な任務を背負ったかを自覚した。今後、権力の中に紛れ込んだ政治的異分子どもを、鉄のほうきで一掃するつもりである。」>

ひと月後の、国会議事堂放火事件をきっかけに、ゲーリングの誓いは実行に移されます。

元 強制収容所の囚人 H・ガスパーリチュ「当時はナチスのブラックリストに載ったが最後、何の手続きもなくあっという間に逮捕されました。私も突然地下室に拘留されました。まだ17歳でした。何日も食事も貰えず、頭を壁に打ち付けられ、挙げ句の果てが、収容所送りでした。」

<突撃隊は補助警察として“思想的に望ましくない者”を大量検挙した>

当時のドイツは、ベルサイユ条約によって軍用機の保有を禁じられていました。しかし水面下では、空軍の編成計画が始まります。

航空相・調査局の創設

<1935年 (註:ゲーリング)航空相に就任>

その手始め、航空相の創設は、ゲーリングに新たな大臣ポストを与えました。彼は航空相の内部に権力に役立つ道具を設けます。それは調査局というはた目にはごくありきたりの名前の組織でした。

当時 調査局勤務 K・V・クリーツィング「調査局の任務は外国大使館などの電話を傍受することです。私たちはあらゆる大使館の全ての電話回線を掌握していました。ベルリンを経由する回線はすべて繋がっていましたから、盗聴するのはごく容易いことでした。調査局は、ドイツ航空相の出先機関で、誰からも全く注目されることはありませんでした。」

盗聴器は、党内幹部の怪しい動きを探るのにも役立てられました。1934年6月、突撃隊の指導者、エルンスト・レームは、反乱を企てているとの嫌疑をかけられます。ヒトラーは、10年以上共に戦ってきた同志の処刑を命じました。邪魔者は排除するナチスのやり方が、次第に明らかになります。

(註:ゲーリングの国会での発表)<「公民の資格は、ドイツ人にのみ与えられる。国民たる者は――ドイツ民族および帝国への奉仕を行動で示すべきである。今後、ユダヤ人とドイツ人の婚姻は、法律によって一切禁止される。」>

ユダヤ人もまた、排除すべき社会の邪魔者とされました。ゲーリングは、ユダヤ人迫害の黒幕として暗躍しました。親衛隊保安部のハイドリッヒが、ユダヤ人の大量殺害を計画したとき、彼は自らの手は汚さず、白紙委任状を与えました。

ゲーリングは独自のやり方で、外交にも手腕を発揮しました。彼の趣味である狩猟は、各国の外交官を招く良い口実になりました。正式の外交ルートを外した社交の場で、情報収集と秘密の会談が行われます。このころゲーリングは、経済的にうまみのあるオーストリア併合を目論んでいました。

戦争回避と忠誠心の狭間で

<1938年 3月 オーストリアを併合>

1938年のオーストリア併合は、彼の陰の外交、すなわち脅しがものを言った結果でした。しかしヒトラーが次にチェコのズデーテン地方に目を付けたとき、ゲーリングはリスクの大きさに躊躇します。こと外交に関して、ゲーリングは現実的な実利主義者でした。しかしヒトラーは、戦争という危険な切り札に頼ることを好みました。ミュンヘン会談でヒトラーは、ズデーテン地方の割譲か、さもなくば戦争かという強硬な姿勢を貫きます。

<1938年 9月 英仏独伊4か国によるミュンヘン会談開催>

ヒトラーのはったりは結果的に成功します。イギリスの融和政策によって、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決まりました。戦争を回避できたことでゲーリングは安堵します。しかしこの一件で、ヒトラーとゲーリングの外交姿勢の違いが明らかになりました。ヒトラーは別の側近、リッペントロープを外務大臣に任命し、ゲーリングの外交への影響力を制限します。

1939年3月、ゲーリングはイタリアの保養地に滞在。まさにそのとき、ヒトラーのドイツ軍はチェコスロバキアへの侵攻を始めました。ヒトラーの領土拡大への野望はとどまりません。ゲーリングは、忠誠心と、これ以上のリスクを回避したい心との板挟みでした。しかし彼は、自分の立場をわきまえています。彼がヒトラーのそばにいられるのは、忠誠を捧げる間だけだということを。

ヒトラーがさらなる標的に定めたのは、ポーランドでした。戦争を回避するためゲーリングは、再びイギリス政府などに非公式の接触を図ります。彼の有能な調査局は、常に新しい盗聴データを提供してくれました。

当時 調査局勤務 K・V・クリーツィング「ポーランドと西側列強とのやり取りは、細大漏らさず報告しました。しかしそれが返って大局的な判断を誤らせたようです。党幹部は、イギリスとフランスが、ポーランドに介入しないと考えました。」

ゲーリングはヒトラーに、慎重さを求めます。しかし返事はこうでした。私は常に人生の大勝負をしてきた。走り出した列車を止めることはできないと、彼はしぶしぶ付き従います。

ゲーリングの私生活

プライベートな場所では彼は依然、麻薬を常用する毎日です。ゲーリングの関心は、しだいに戦争よりも、日々の享楽に向けられました。

(註:映像)<カーリンハル邸>

彼はベルリンの北に、ご自慢の邸宅を持っていました。妻のカーリンが、1931年に亡くなり、彼はここを、亡き妻にちなんで、カーリンハルと名付けました。贅沢のための資金には事欠きません。権力の階段を登る間に、彼は産業界と深いつながりで結ばれていたからです。

(註:訪問客を前に話すゲーリング)<「皆さんをお招きするのは2度目です。今日は、私が最も誇る美しい場所をご案内します。一見アスファルトだらけのベルリンにも、郊外にはこの上なく豊かな自然が残っているのです。」>

ゲーリングは、権力の周囲に集まる獲物を狩り、盛んに肥え太っていきます。彼は制服や衣装に関心が強く、周りがあっと驚く時代がかったスタイルで人前に立ちました。自分はルネサンス型の人間であり、豪奢な生活を愛するとも語っています。美しいもの、豪華なものへのあこがれは、彼を激しい物欲に駆り立てました。自宅でのゲーリングは、さながらルネサンスの王侯貴族。輝くオープンカーが、彼の馬車変わりです。

<1935年 女優エミー・ゾンネマンと再婚>

1935年、女優のエミー・ゾンネマンと再婚。結婚式はヒトラー立会いのもと、キリスト教と、ナチの混交スタイルで行われました。新しい妻は彼に劣らぬ派手好みとあって、式はまるで、第三帝国の一大イベントのようでした。カーリンハルの邸宅は、ゲーリング夫妻を華やかに引き立てる、格好の舞台セットとなりました。ゲーリング家の招待客リストには、新たに妻の知人である舞台関係者たちが含まれました。権力のおこぼれ目当ての客も、少なくありません。

(註:ペットの虎の子供に声を掛けるゲーリング)<「おいで、カエサル。こっちに来るんだ。」>

ペットを飼うことは、多彩な楽しみの一つです。ゲーリングは、遊びの才能に長けていました。(註:鉄道模型の映像)数ある屋敷のどこにも、こうした精密な鉄道模型が置かれていました。彼は少年のように、これらで楽しんだのでしょうか。そして本物のヨットも、彼にとってはほんのおもちゃでした。

<(註:映像)ヘルマン・ゲーリング干拓地>

だが、遊んでばかりいられません。1936年には、経済4か年計画の全権を負いました。

<(註:映像)ヘルマン・ゲーリング工場>

彼は新しい干拓地や工場に、好んで自分の名前を付けさせます。彼は子供たちの前では親しいおじさんを演じました。クリスマスの会でのゲーリングおじさんの人気は上々です。

<(註:壇上で話すゲーリング)「総統への好意と感謝を今ここで表してみよう。総統のもとに届くように、大きな声で叫ぶんだよ。我らが総統に。勝利万歳。」 (註:プレゼントをもらった子供に話しかけるゲーリング)「何を貰った?飛行機が好きなのかい。末は戦闘機乗りだな。」>

子ども好きの彼に、妻のエミーがプレゼントを送ってくれます。結婚3年目に女の子が生まれ、エッタと名付けられました。最初の結婚以来子供に恵まれず、あきらめかけていた彼には、嬉しさもひとしおです。洗礼式の参列者の筆頭は、ヒトラー総統でした。

子供好きな態度をしばしば示したヒトラーやゲーリング。しかしそのいっぽうで、彼らは子供たちの将来を戦争によって踏みにじろうとしていました。

物欲にまみれた空軍総司令官

1935年。ヒトラーは、ベルサイユ条約の軍備制限を破り捨て、ドイツ空軍を創設させます。そのころにはすでに、実戦力としての装備は整っていました。ゲーリングはこの新生ドイツ空軍の総司令官という念願のポストに就きます。

<1935年 (註:ゲーリング)空軍総司令官に就任>

権力に酔いしれるゲーリング。しかし、その甘い汁と引き換えに、彼は元来乗り気でなかったヒトラーの戦争計画にどこまでも追随することになるのです。

<(註:ヒトラー)「私の身にもしものことがあった場合、私の後継者はゲーリングである。」>

<1939年9月 ドイツ軍のポーランド侵攻直後、英仏はドイツに宣戦布告した>

第二次世界大戦が始まると、ドイツ空軍の爆撃機は当初、圧倒的な攻撃力で優位に立ちました。

<(註:ゲーリング)「我々はかつてベルサイユで軍事力をもぎとられた。だが今やヒトラー総統の指揮下、より強く、偉大な軍隊がドイツによみがえった。ポーランドでの成功は我々の勝利の一部にすぎない。ドイツ空軍は今後、英仏の空を制するであろう。」>

好戦的な言葉を吐くいっぽうで、ゲーリングは戦争を一刻も早く切り上げる方法を探っていました。彼は一旦は、ヒトラーと別行動で、アメリカのルーズベルト大統領との交渉を試みています。しかしこのころ、ゲーリングの内面に、ある崩壊の兆しが見え始めました。彼は次第に、指導者としての熱意を失います。彼は専用のサロンカーに引きこもりがちになりました。列車は、彼の8台の車を積むほか、医務室や写真の現像室まで完備していました。

(註:作戦室で幹部と会議するゲーリングの映像)作戦会議の部屋です。ゲーリングは常に、イギリス軍を空から一掃してやると豪語しました。しかし彼の言動は、詳細な分析に裏付けられたものではありませんでした。

1940年5月。ゲーリングは、ダンケルクで最初の失敗を犯します。連合軍を英仏海峡ぎわに追い詰めながら、逃してしまうのです。しかしこのときは、圧倒的に有利な戦況が、総司令官の失策を帳消しにしました。

<1940年6月 ドイツ軍はパリを占領>

パリ陥落を聞いたゲーリングは、総統を称え、成功を祝います。だが彼の喜びには、別の理由もありました。陥落直後のパリを、ゲーリングはオープンカーで徘徊します。偵察と称しての買い物ざんまい。ドイツ空軍総司令官の目は、戦場よりもパリの美術品にくぎ付けでした。美術館の収蔵庫には、パリを追われたユダヤ人たちの、かつての財産が眠っていました。ゲーリングはそれらを片っ端から買い付けます。ベラスケスだろうと、セザンヌだろうと、ほしいものは即、手に入れないと気がすみません。

のちに彼は、ブリュッセルでもアムステルダムでも、同じようにユダヤ人から剥奪した貴重品を買い叩きます。お買い上げの品はすべて、あちらこちらの彼の邸宅へ。戦況が芳しい間、買い物ツアーはとめどなく続きました。全ての占領地域から、彼の略奪品を乗せた列車がドイツを目指します。ベルリンの屋敷カーリンハルは、本格的な美術館並みになりました。そしてゲーリングは、欲望の怪物と化していました。

凋落のとき

<1940年 (註:ゲーリング)国家元帥に就任>

国家元帥就任の瞬間が、ゲーリングの絶頂期でした。しかし、凋落のときは急速にやってきます。

<1940年8月 イギリス本土への空爆を開始>

当初の計画では、ドイツの爆撃機は、イギリス空軍の飛行場やそのレーダー網を徹底的に叩き潰す予定でした。しかしイギリスの粘り強い抗戦に、目的を阻まれます。さらには空軍内部の主導権争いも、作戦を混乱させました。ゲーリングは優柔不断な態度で、作戦の優先順位をはっきり決めようとしませんでした。イギリスへの攻撃開始からひと月あまりのち、ゲーリングは突然、攻撃目標を敵の軍事拠点からロンドン市街に変更しました。理由は定かではありませんが、結果としてその戦術は、失敗でした。

当時 戦闘機パイロット W・クルビンスキ「前線に出ているあいだ、、いったい作戦の指揮はどうなっているんだろうかと思いました。仲間も同感でしたが、あのころはまだゲーリングを批判する兵士はいませんでした。悪いのはその下にいる連中だと思っていたからです。しかし、とにかくあの戦闘は、最悪でした。」

ゲーリングは、散々な結果の責任を部下に押し付け、よりいっそう、自分の世界に引きこもってしまいます。ヒトラーはイギリス征服の野望に見切りをつけ、目を東のロシアへ転じようとしていました。

<1941年6月 独ソ戦開始>

ゲーリングの最も恐れた、危険な二正面戦争が始まりました。彼は体面を保つため、総統の本営のそばに自分の司令部を置きます。大量の麻薬の錠剤を、肌身離さず持ち歩いていたゲーリング。中毒の渦は、彼に灰色の現実を、バラ色に変えて見せたのでしょうか。ドイツ空軍では、将軍の葬儀が相次ぎます。イギリスでの失敗の責任を押し付けられ自殺した、ルーデント将軍。墜落死を遂げたメルダース将軍。逃避しようとするゲーリングに、現実は繰り返し襲い掛かります。ゲーリングの強気な発言とは裏腹に、連合軍は次第にドイツの領空深く侵攻してきました。

当時 ケルンの被災者 W・ヴィットカンプフ「爆撃の被災者には、惨事の責任はどこにあるか、はっきりわかっていました。全てはゲーリング、あの大口を叩くだけの総司令官が、できもしないことを吹聴して、保身と対面にこだわったせいなのです。私たちの街は、無防備のまま焼け落ちました。」

街が一つ、また一つと崩壊する現実を、ゲーリングは見据えようとはしませんでした。むしろ彼は、新たな作戦によって、ドイツ空軍にまだ力があることを誇示したがっていました。彼はヒトラーに対して、それまで以上の大風呂敷を広げます。彼が示したのは、スターリングラードで戦うドイツ軍に、空から補給作戦を展開するという、まさに類例のないプランでした。

当時 戦闘機パイロット W・クルビンスキ「補給を全て空路に頼るなんて不可能です。みすみす、死にに行くようなものでした。」

トップの誤った判断が、何十万人もの兵士を死に追いやります。雪と氷の中、物資の補給を待つドイツ軍。味方の援護はあまりにも少なく、絶望的でした。

当時 搭乗機関士 J・マティエス「前線の仲間と、我々の総司令官はどこかおかしくなってしまったらしい、と言い合ったものです。もちろん後方ではそんな口はきけません。だが、最前線では本音が言えました。」

モルヒネ中毒の末期

スターリングラードのドイツ軍は力尽きます。9万人が捕虜に、そしてそれ以上の命が、飢えと寒さの中で失われました。

当時 搭乗機関士 J・マティエス「スターリングラードの惨敗以降、我々は総司令官の話題を忌み嫌いました。みんながこう思っていました。奴はもう、口をつぐむべきだと。」

<(註:音声のみ)「1千年の後も、ドイツ人は思い起こすであろう。スターリングラードでのこの激戦を。ドイツはこの戦いで究極の勝利の刻印を押すのだ。」>

空軍が、全く役に立たないのに業を煮やし、ついに総統自らが介入してきます。ヒトラーの目には、もうゲーリングは役立たずの敗残者としてしか映りません。

<1944年6月 連合国軍はノルマンディー上陸作戦に成功。ドイツへの猛攻を開始>

ドイツの防空体制は、決定的に崩壊。戦争は終局へと向かい始めます。1944年7月。一部のドイツ軍将校は勝利の妄想を発つために決起しました。ヒトラー暗殺の試みは、しかし失敗に終わります。側近たちのヒトラーへの追従は、相も変わりません。凋落の著しいゲーリングは、なお、自己の威信にこだわり続けます。

当時 H・ゲーリング隊兵士 D・ヴェラースホフ「ゲーリングは、私たち兵士の前をゆっくりと歩きながら言いました。私の通り過ぎるところ、興奮の渦が巻き起こる。それは、彼のお気に入りのセリフでした。彼が私から、1メートル半ほどの所に近づいたとき、私はその目を見てはっとしました。いったいこの人はどうしたんだろうと。それほど、どろんとした、虚ろな目でした。ゲーリングが、モルヒネ中毒だったということは、私はずっと後になるまで全く知りませんでした。彼は、吠えるような声で演説をぶちましたが、内容はぞっとするほど俗悪でした。東部戦線の崩壊は、裏切り者や間抜けな奴のせいだ、奴らは、総統の暗殺まで企てたがついに始末された、諸君は、ロシア人どもを踏みつけにするがいい、と罵っていたのです。」

局面打開の最後の試みとして、ドイツ空軍は、史上初のジェット戦闘機を開発投入。ゲーリング自慢の秘密兵器です。しかし燃料さえ不足するころとなっては、もはや遅すぎました。ソビエト軍のロケット砲が吠えます。戦争末期、ゲーリングは、とどまることを知らない敗北を傍観し続けます。

1945年4月、ヒトラーは56歳の誕生日を地下壕で迎えます。ゲーリングはこの日、地下壕のヒトラーを訪ね、その直後、緊急の用事があると言い残して、陥落間近のベルリンを離れました。3日後、彼は南ドイツから、ヒトラー充ての電報を打ちました。文面には、自分が総統の後任として残存するドイツ軍を指揮する旨が記されていました。だがヒトラーは、これを反逆行為とみなし、ゲーリングを全ての役職から解くよう命じました。ゲーリングはただちに親衛隊に身柄を拘束され、彼の屋敷の一つに監禁されました。彼はアメリカの、アイゼンハワー将軍宛てにこっそり手紙を出し、国家元帥として話し合いたいと申し出ます。しかし、完全に無視されました。

ゲーリングの逮捕と裁判、そして最後

ヒトラーの自殺ののち、ヨーロッパ全土のドイツ軍が順次降伏します。ゲーリングは連合軍の前に自ら赴きました。こうして、かつてのドイツの大物は、丁重に、しかしはっきりと逮捕を告げられました。数日後、ゲーリングの屋敷からは目を疑うような膨大な美術品が発見されました。誰も知らなかったヘルマン・ゲーリングの素顔が、これ以後、次々と暴かれていきます。逮捕のとき、彼は薬をいっぱい詰めた鞄を、後生大事に持ち歩いていました。

ゲーリングの、美術収集品。盗賊の洞窟も顔負けの、絢爛豪華さです。彼はにこやかに記者会見しました。記者たちの脳裏には、彼が関与した恐るべき犯罪がよぎります。

翌年、ニュルンベルクの法廷に彼は中毒から解放され、少しやせた体で現れました。

当時アメリカ側検事 W・ジャクソン「法廷でのゲーリングの印象を述べるなら、第一に非常に才知に長けていること。そして、ごまかしがとてもうまいということでした。さらに彼は、虚栄心と自尊心が極めて強く、自意識の塊のように思われました。」

ゲーリングは、世界が注目する法廷で、今一度、自分を見せびらかすチャンスを得ました。検察の怒りにも構わず、彼は合計、58時間にものぼる発言を行いました。

<(註:法廷でのゲーリング)「自分が無罪か有罪か、主張を述べよとのことだが、答える前にひとこと申し上げたい。」>

後悔も遺憾の念もなく、彼はナチスが行った犯罪の全てを知らなかった、あるいは関与していないと証言しました。

<(註:法廷関係者)「質問の答以外は認められません。」 (註:ゲーリング)「無罪を主張します。」>

ニュルンベルク裁判の通訳 E・ウィバーアル「彼は非常に効果的に自分の役を演じたと思います。おそらくはその出来に、満足感さえ味わったのではないでしょうか。世界の舞台で演説する大俳優になれたのですから。」

<(註:被告席に座るゲーリング)「人種差別や人種支配に加担してはいません。私が強調したのは人種の多様性であり、優劣ではありません。」>

当時アメリカ側検事 W・ジャクソン「ゲーリングがどう抗弁しようと、ナチスの教義の中に彼の信念と一致しないものがあったなどとは認められませんでした。彼はそれまでずっと、自分が総統の忠実な側近であると言い続け、権力に加担してきました。それは、総統の考えに全て従うという意思の表れです。彼の犯した罪に弁解の余地はありません。」

<「法廷は起訴状の4点すべてにおいて有罪と判決。絞首刑を言い渡しました。」>

判決後、妻と刑務所の司祭、そして連合国共同管理委員会に宛てて手紙をしたためました。文面にはこうあります。“銃殺刑ならばそれに従ったろう。しかし、ドイツ国家元帥たる者を絞首刑に処すなど、許されざる振る舞いだ。私は、別の勇敢な死を選ぶ。”

彼が死の方法に選んだのは、青酸カリのカプセルでした。狩猟仲間だったアメリカ人将校が密かに渡したといわれています。ゲーリングはこうも書いています。“誰にも死のときがくる。しかし、殉教者として死んだ者は不滅である。諸君は我々の遺体を大理石の棺に入れるだろう。”

ゲーリングの遺体は焼かれ、灰は川に流されました。彼が眠る墓は、ありません。≪終≫

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