ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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アドルフ・ヒトラー 権力掌握への道-後編

政界での台頭

1933年、ドイツの首相となったヒトラーは、自らの著書、「我が闘争」に記したことを実践します。『より強い人種が、より弱い人種を駆逐する。生き抜こうとする力が弱い者を粉砕し、強い者の居場所を作るのだ。』

ヒトラーは、いかに権力を掌握し、独裁者、総統になったのか。

<1929年8月 ナチ党大会>1929年、ニュルンベルクで行われた、ナチ党大会。ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒトは、抑えることもできたはずだが、これがヒトラー台頭の始まりだったと表現しました。

<1929年10月 世界恐慌>アメリカに端を発した世界恐慌は、とりわけドイツに大きな混乱をもたらします。

次々と工場が閉鎖され、失業者は、600万人にまで達しました。

多くのドイツ国民は絶望のあまり、ナチ党、あるいは共産党に救いを求めます。

両党とも、準軍事組織を持ち、それぞれ制服がありました。共産党とナチ党は、議会選挙のたびに激しい衝突を繰り返すようになります。

他勢力と衝突
し、警官が介入して混乱する様子

ヒトラーは、沈静化できるのは自分だけだと主張し、裏では暴動をあおっていました。

この戦術は功を奏します。ヒトラーはマルクス主義者を赤いペストと呼び、その脅威を訴えることで、小規模事業主や、小作農家の支持を集めます。

<1930年9月 107議席>1930年の議会選挙の結果は、驚くべきものでした。ナチ党は107議席を獲得。ヒトラーは、社会民主党に次ぐ、ドイツ第二の政党の党首となったのです。

それでも、ヒトラーを軽蔑していた上流階級の人々は、楽観的でした。オーストリアのユダヤ人作家、シュテファン・ツヴァイクは、こう書いています。

『上流階級にとって、権力とは常に、貴族やエリートのためにあるものだった。そうしたおごりが、知識人の判断力を鈍らせた。』

<1931年10月>ヒトラーの勢いは衰えませんでした。わずか1年の間に、ドイツの極右勢力を牛耳ります。50万の団員を有する鉄兜団などの退役軍人組織も、ヒトラーの支配下に置かれました。

スキャンダル

尊大な態度のヒトラー。しかし実は、致命的ともなりかねない、スキャンダルを切り抜けたばかりでした。

<アンゲラ・“ゲリ”・ラウバル>それは、私生活での、ある事件でした。ヒトラーは、23歳の姪、ゲリ・ラウバルに、よこしまな思いを募らせていました。その彼女が、自殺をします。

ゲリは、ミュンヘンのアパートに同居していました。彼女は、友人に打ち明けています。『叔父は化け物だ。人が想像もできないことを私に要求する。』

新聞は一斉に非難します。ヒトラーは性的倒錯者で、ゲリを殺害させた。ひどく落ち込んだヒトラーは、自殺したいと口走り、側近たちを心配させます。ヒトラー専属の写真家、ハインリヒ・ホフマンが助手の一人を紹介しました。

ゲリによく似た女性、エヴァ・ブラウンです。19歳の若さながら、処世術に長けていました。エヴァは、ナチ党の党首の人気に魅了されたのです。ヒトラーは彼女を、新しい陰の愛人にしました。ヒトラーは、女性有権者の支持を得るため、自分はドイツと結婚したと宣言していました。ドイツでは当時すでに、女性に選挙権がありました。

エヴァ・ブラウンはスポーツが大好きで、女優になって、ハリウッドのターザン映画に出るのが夢でした。

エヴァと付き合うようになってヒトラーは、下劣な政治的闘争心を取り戻します。

精力的な選挙活動

<1932年3月>1932年3月、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領の後継を狙い、名乗りを上げます。ミュンヘン一揆に失敗し投獄されてから、まだ10年も経っていませんでした。

街中には、ヒトラーの選挙ポスターが溢れます。

ナチ党の宣伝担当、ヨーゼフ・ゲッベルスは、派手にやろうと呼びかけ、ヨーロッパ初の、航空機を使った選挙キャンペーンを展開しました。

当時、最大の旅客機が、ルフトハンザ航空から提供されます。航空会社にとっては、ただで会社を宣伝できる良い機会でした。

革製のヘルメットをかぶったヒトラーは、100余りの町を遊説して回りました。ゲッベルスは、空飛ぶ指導者というスローガンを掲げます。

また、遊説の様子を撮影して、全国で上映。究極の救世主という、ヒトラーの神話を作りあげました。

このキャンペーンには、莫大な費用がかかりました。そのためナチ党は、ヒトラーの演説を聞きに来た人から、今の価値に換算して1ユーロほどを、徴収しなくてはなりませんでした。それでも集まる人は、減るどころか、むしろ増えたのです。

<1932年4月4日>大統領選挙の一週間前、ヒトラーの演説に、10万人のベルリン市民が集まります。人々は、危機を直視できない既存の政党に絶望していました。二十歳の、ユッタ・リューディガーも、その一人でした。『――失業のせいで、みな言葉にできないほど落ち込んでいた。救ってくれるのはヒトラーしかいないと、本当に思っていた。』

ヒトラー「誰も口にしないが、毎年、何万人もの人が、絶望して自ら命を絶っている。」

第一次大戦のとき参謀総長だった、大統領のヒンデンブルクは、再選を目指し、左派からも支持されていました。ヒトラーの台頭阻止と、反ファシズムの急先鋒、社会民主党のヴェルス党首は、こう力説しました。

社会民主党 ヴェルス党首「もはや一刻も無駄にできない。我々は、唯一の考え、唯一の目標のもとに、ファシズムを打ち負かし、一掃しなくてはならない。共和国のため、自由のため、そして労働者のために戦おう!」

<1932年4月 ヒンデンブルク大統領再選>1932年4月10日、審判が下ります。ヒトラーは、大統領には選ばれませんでした。ヒトラーは、ドイツの有権者の3分の1にあたる、およそ1,300万票を獲得しましたが、十分ではありませんでした。ヒンデンブルクは、社会民主党の支援で再選を果たしますが、彼らに依存するのを嫌って、議会を解散してしまいます。

選挙活動の先鋭化

ヒトラーは、選挙運動を再開。一日5回もの演説を行い、取り巻きを振り回します。ヒトラーは、群衆から力を得て、自らの毒に酔いしれます。

ヒトラーの演説「敵は我々、とりわけ私のことを、不寛容な、鼻持ちならない人間だと思っている。我々がほかの党と協力しないと言って批判する。彼らの言うとおりだ。我々は不寛容だ。私の目標は、すべての党の抑圧にあるのだから!」

1932年の選挙運動で、ヒトラーが真っ先に攻撃したのは、共産党でした。その任務は、SA、突撃隊に与えられます。隊員40万人を誇った突撃隊は、装備にかかる費用を、自力で調達するようになっていました。

宣伝担当のゲッベルスは、士気を高めるために偶像を作りあげます。チンピラから突撃隊の中隊長になった、ホルスト・ヴェッセルです。共産主義者に殺害されたヴェッセルは、ナチ党の殉教者に祭り上げられました。

その葬儀でゲッベルスは演説を行い、この男の死を、キリストの受難にたとえました。ヴェッセルが書いたとされる詩には音楽がつけられ、ナチ党の党歌になります。ホルスト・ヴェッセルの歌、「暴力の誓い」です。

♪(ナチ党の党歌)「やがてヒトラーの旗は街中にはためく  隷属の時代はもうすぐ終わる  赤色戦線に殺された同志は  魂となって今も我らと共に行進する」

いっぽうこちらは、共産党の準軍事組織、赤色戦線。隊員は、労働者の帽子とロシア風のシャツを身に着けていました。誰もが理想に駆り立てられていました。

彼らにも、闘争の歌がありました。

♪「左 左 左!  太鼓を打ち鳴らせ
      敵を粉砕しよう  ブルジョアの尻の下に

ダイナマイトを仕掛けよう
   ファシストの脅威が迫っている  プロレタリアよ
      武器を取れ!   赤色戦線 赤色戦線」

1932年7月。選挙運動のさなか、突撃隊は警察と結託して、共産党員を挑発し、流血事件をたびたび引き起こします。共産党側にはおよそ100人の死者と、1,000人の負傷者が出ました。社会の混乱と政府の無力さにうんざりしていた多くのドイツ国民は、ナチ党の暴力的な行為を支持します。

<1932年7月 230議席>ナチ党は国会で、230議席を獲得。ヒトラーは、第一党の党首となりました。権力の座は、目前でした。しかし喜びは、たちまち絶望に変わります。ヒンデンブルク大統領が、ヒトラーを首相に指名することを拒否したのです。ヒンデンブルクは、ヒトラーに言います。『あなたがたのような、不寛容な政党に、政権を渡すわけにはいかない。』それでもヒンデンブルクはヒトラーに、閣僚ポストを提示します。しかしヒトラーは、自分は、それで満足するような、平凡な政治家ではないと考えていました。欲しかったのは、全権。全体主義国家を確立することです。

ゲッベルスは、ナチ党の巨大な勢力を武器に、国会で他の勢力が多数派を形成しようとする試みを阻止します。邪悪な笑みを浮かべながら、ゲッベルスは言いました。『国民の意思を反映していないこの国会は、今すぐ解散すべきだ。』

1年間で3回目となる選挙が、11月に行われることが決まります。

ヒトラーの演説「私は持ち前の行動力と粘り強さで、最初は1,000人だった支持者を、1,400万人にした。今後はそれを2,000万、3,000万に増やしてみせる!」

<1932年11月 196議席>ところが選挙結果は、ヒトラーを失望させました。前回の選挙と比べ、得票数が200万も減り、34議席を失ったのです。著名な社会主義者、レオン・ブルム(Leon Blum)が編集主幹を務めるフランスの日刊紙は、ヒトラーの終焉という見出しを掲げます。しかし、そうはなりませんでした。

首相任命

<1933年1月30日 ヒトラーを首相に任命>3か月経っても議会で多数派を形成できなかったヒンデンブルクは、ついに、ヒトラーを首相に任命したのです。当時学生だった、作家のセバスチャン・ハーフナーは、こう書いています。『――そのニュースを聞いて、恐怖のあまり身がすくんだ。一瞬、血と泥の匂いがした。捕食動物の、大きな汚い前足のような、何か危険なものが私の顔面に、襲い掛かってくるように感じた。』

目的を達成するために狼は、羊の皮をかぶります。ヒトラーは、閣僚ポストのナチスへの割り当てを二つしか要求せず、ヒンデンブルクを安心させました。内相に、ミュンヘンの警察幹部だったヴィルヘルム・フリック(写真左)。そして、ヘルマン・ゲーリング(写真右)を無任所相に。この二人に、警察組織を統率させます。

ヒトラーは、最も重要な閣僚ポストは保守派に渡ったと見えるよう、画策します。元首相のフランツ・フォン・パーペン(写真左)を副首相に。また、極右の大物政治家、アルフレート・フーゲンベルク(写真右)を、経済農業相にあてました。ナチスが支配する政府ではなく、連立の政府だという印象を与えようとしたのです。いっぽう保守派の閣僚たちは、ヒトラーをコントロールできるとたかをくくっていました。

組閣の夜、退役軍人組織の鉄兜団、ナチス親衛隊、そして突撃隊による松明行進が、ベルリンなどの大都市で行われました。ゲッベルスは100万人が行進したと発表しますが、イギリスの大使館付き武官は、参加したのはせいぜい1万5,000人で、同じところをぐるぐると歩かされていた、と語っています。

これを窓越しに見た85歳のヒンデンブルク大統領は、1916年のヴェルダンの戦いのさなかにいると、錯覚しました。『わが軍は堂々と行進し、捕虜もたくさんいるではないか。』首相執務室に立つヒトラーには、熱狂的な賛辞が送られます。ベルリンの教師、ルイーゼ・ソルミツは言いました。『みな、お酒も飲んでいないのに酩酊状態で、ユダヤ人に死を、ナイフの先から、ユダヤ人の血が噴き出すだろう、と叫んでいた。』

<1933年2月10日>ヒトラーは、首相として初の演説を、ベルリンのスポーツ宮殿で行います。そして、絶対的権力を手にするため、着実に事を進めていきました。まず、共産党と社会民主党が、およそ200議席を占めていた議会を解散。3月に、議会選挙を行うことにします。ヒトラーはラジオ演説で、左翼の有権者にも訴えかけました。

ヒトラー「私は、そのときは近いと確信している。我々を非難した数百万の人々が仲間となり、我々が手にいれたものを、我々と共に歓呼で迎える。それは新しいドイツ帝国、誇り高く、強力な帝国だ。」

こうした一見融和的な演説をすることで、ヒトラーは仮面をかぶり続けます。しかしゲッベルスは、ナチスの支持基盤を固めるため、反ユダヤ主義と暴力について、立場を明確にします。

ヨーゼフ・ゲッベルス「ユダヤ人の新聞が我々を脅すことができると思っているなら、気を付けたほうがよい。忍耐には限界がある。いつの日か、我々は嘘にまみれたユダヤ人の口を封じるだろう。ナチ党員と突撃隊は、心配しなくともよい。赤の恐怖の終わりは、あなた方が思っているより、早く訪れる。共産主義者たちよ、これまで経験したことのない大敗を覚悟するがよい。」

合法的政権奪取

<1933年2月27日>投票日前の2月下旬。

ベルリンにある国会議事堂が火事で全焼。ワイマール共和国、ドイツ民主主義の象徴は、無残な姿となります。

ゲーリングが指揮する警察の捜査により、24歳のオランダ人共産主義者が放火犯として逮捕されます。すぐさま有罪が確定。断頭台で処刑されました。(写真右:ファン・デア・ルッベ)

これで得をするのは誰か。ナチスです。ヒトラーとゲーリングは、共産主義者による反乱計画の脅威をあおります。ゲーリングは幹部を含め、4,000人の共産党員を逮捕させました。しかしこの時点では共産党は、非合法化されませんでした。権力基盤を固めたいヒトラーは、この選挙を、形の上では合法的なものにしておきたかったのです。

ドイツ国民は、度重なる選挙運動と混乱に、嫌気がさしていました。そして突撃隊の行動を、国民は、共産主義者の攻撃から市民を守るためのものと見るようになります。このとき、100万人を超えていた突撃隊員に、銃を携帯する補助警察官の地位が与えられました。隊員は、ドイツ各地の左翼系政党や、労働組合の本部の前に配備されます。

彼らが暴力を煽るいっぽうで、ヒトラーは疲労の度を増すヒンデンブルク大統領を、巧みになずけます。

ゲーリングは、いかめしいゴシック様式の肘掛ひじかけ椅子に座り、短剣をいじりながら、改ざんした選挙結果を発表しました。

ヘルマン・ゲーリング「1933年3月5日は、一人の人間と一つの運動の大勝利の日だ。アドルフ・ヒトラーと国家社会主義の勝利である。両者は、国民及びドイツ帝国と一つになる。」

実際のところ、ナチ党と連立政党を合わせても、かろうじて過半数に達しただけでした。突撃隊による脅しにもかかわらず、共産党は、12パーセントの票を集めていました。ヒトラーはついに、仮面を脱ぎ捨て、法律を無視する暴挙に出ます。

共産党議員の当選を無効にし、彼らを逮捕、ベルリンにほど近いオラニエンブルクと、ミュンヘン近郊のダッハウにある強制収容所へ送りました。

<写真下:ダッハウ強制収容所>ヒトラーが政権をとった1933年だけで、16の強制収容所が造られました。政治犯の数は10万人に膨れ上がります。

当時学生で、共産党員だったクラウス・バスティアンは語っています。『看守は、収容者を鞭で叩き、凍てつくような水に押し込んだ。私たちは、常に死を恐れていた。』

ナチスはこれを、議員や公務員、組合幹部に対する再教育と説明しています。

<写真下:オラニエンブルク強制収容所>独裁政権の不吉な影が、ドイツ全土を覆いました。

全権委任の要求~ユダヤ迫害の始まり

<1933年3月23日>議事堂の全焼後ヒトラーは、突撃隊で回りを固めたオペラハウスで国会を開き、自らに全権を委任するよう要求します。共産党議員はすでに、ほとんどが強制収容所へ送られ、いっぽう、94人の社会民主党の議員は、勇気をもって反対票を投じました。彼らはその後、逮捕されるか、国外に脱出せざるを得なくなります。

極右政党からカトリック中央党まで、441人の議員は、ヒトラーの演説を延々と聞かされました。実現しそうもない公約ばかりで、失業の解消、小作農家の救済、法の遵守、そして平和を誓ったのです。議会は、向こう4年間、ヒトラーに全権を委任することを決め、自らの存在意義を失います。

もはや、ヒンデンブルク大統領は、首相の決定に異議を唱えることはできませんでした。人々の喝采に、ドイツ民主主義は、かき消されます。反ユダヤ主義を掲げるヒトラーが、世界有数の先進工業国のトップに立ったことに、世界中が脅威を感じます。

<ニューヨーク>ニューヨークをはじめ各国で、反ヒトラーのデモが行われました。ナチスの野蛮な行いと、反ユダヤ主義を非難したのです。世界中の人々が、ドイツ製品のボイコットを訴えました。

“ユダヤ主
義はヒトラー主義をしのぐ”
“今は暗黒
時代ではない”
“野蛮行為
をやめろ”

それに対しヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人の商店に対する不買運動を命じます。これは、あるアマチュアの撮影者が、妻の協力を得て撮ったもの。

ユダヤ人商店の前で見張りをするナチ党員が、どれほどの決意でいるか、試そうとしたのです。

ユダヤ人は、突撃隊のポスターに震え上がります。

ユダヤ資本には1ペニヒも支払うな、ユダヤ人は、わが国崩壊の原因などと書かれていたからです。迫害の始まりでした。

東プロイセンで大きな商店を営んでいた、エドウィン・ランダは、家族と共にパレスチナへ移住する前に、こう書いています。『これまで私が尊敬し、愛していたこの国、この国民が、突然私の敵になった。私はもはやドイツ人ではなく、ドイツ人になる権利も持たない。この国民の一人であったこと、多くの人たちを信頼していた自分が恥ずかしい。今彼らは仮面を外し、敵としての本性をあらわにした。』

ユダヤ人迫害(ユダヤ
商店不買運動)の
看板について
にこやかに
尋ねるドイツ人

反ユダヤ主義は、大学教育にも及びます。ナチズムは、近代的文化に背を向けさせ、不寛容で偏狭なイデオロギーを、学生に押し付けました。

その結果彼らは、本を焼くようになります。マルクスやフロイト、シュテファン・ツヴァイクをはじめ、ユダヤ人や共産主義者たち、300人余りの著作、1万2,000点が、危険書物とされました。

数十万冊の本の焼却のために、突撃隊がまきを用意しました。

ベルリンのオペラ広場からラジオ放送されたゲッベルスの演説は、中世暗黒時代の、宗教裁判さながらでした。

ゲッベルス「親愛なる学生諸君。ドイツ国民の皆さん。ユダヤ人の知性偏重主義の時代は終わった。これからのドイツ人は知識だけではなく、強い意志を持つようになる。」

<1933年5月10日>このナチスの儀式に参加したドロテア・グンターは、そのときのことを、こう書いています。『突撃隊と学生たちは、本の題名と著者の名前を、大声で叫んだ。

著者がユダヤ人なら、平和主義者かフェミニスト、近代主義者だと非難し、我々はお前を葬り去ると繰り返し唱えて、本を火の中に投げ込んだ。私は唖然とし、心の底から憤りを感じた。燃やされた本の多くは、私たちが感想を語り合ったものだったからだ。』

<1933年6月 社会民主党を非合法化>ヒトラーは労働組合を壊滅させ、ワイマール体制の中心だった社会民主党を、非合法化します。1933年7月、ドイツは、一党独裁の国となりました。

「突撃隊、親衛隊、万歳!我々の前には輝かしい時代が開けている。ドイツはついに目を覚ました。我々は権力を勝ち取った。次は、ドイツ国民の心をつかむのだ。」

休暇を楽しむ人々。ナチスが唯一の合法的な政党となっても、多くの国民は、反ユダヤ主義のスローガンに不安を抱く様子は見られません。彼らは総じて、無関心でした。ユダヤ系の人々は、国民全体の1パーセントにも満たなかったからです。

いっぽう、ユダヤ系ドイツ人の半数は、国外へ移住しました。ゲルダ・ブラックマンは、こう語っています。『私たちは、財産をすべて手放すことを条件に、船に乗せてもらうことができた。』

貧しいユダヤ人は、身動きが取れません。彼らは東ヨーロッパのユダヤ人街へ追放され、その後、強制収容所で殺されます。独裁体制に敵対する人の多くは、フランスへ逃れます。

しかしやがて、第二次大戦でドイツがフランスを占領すると、ナチスへ引き渡されてしまいます。逃げ遅れたり、留まって抵抗を続ける道を選んだ人は、強制収容所で命を落としました。

ドイツ国民の全体主義受容~洗脳

ドイツ人の大多数は、全体主義を受け入れていきます。一日の始まりに、ドイツの正式な紋章となった鉤十字の旗を掲揚する人たちもいました。

ヒトラーがメディア統制をおこなったため、一般の市民はナチスの新聞しか読まなくなります。

少女はナチス式の敬礼を身につけ、

少年は、ナチスの青少年組織ヒトラーユーゲントに入り、闘争心を掻き立てます。

学校では、教師が銃の使い方を教えました。

ナチス公認の教科書には、こんな記述がありました。

『一人の生徒にかかる国の負担は、知的障害のある子どもの場合は、年間1,800マルク。普通の子供は、320マルク。優秀な子供は、わずか125マルク。つまり、市民が遺伝学的に健全でなければ、社会は生き残れない、ということだ。』

年長の女子は、ドイツ女子同盟に入りました。よい妻、そして、未来の兵士をたくさん産ませるための組織です。

この生まれた子供たちは、結局、10歳あまりで命を落とすことになります。第二次世界大戦末期に。

しかし、1933年の夏の時点でドイツ人は、これから起こりうる事態を、想像もしていませんでした。ヒトラーはまだ、絶対的な指導者ではありませんでした。そうなるには国民を、洗脳する必要がありました。

<宣伝映画「信念の勝利」 監督 レニ・リーフェンシュタール 1933年>プロパガンダ映画、「信念の勝利」です。いまや唯一の政党となったナチスの、政権獲得後、初の党大会を描いたものです。

<1933年8月30日>監督は、レニ・リーフェンシュタール。彼女の行動力と美貌に、ヒトラーは魅了されます。リーフェンシュタールは、巧みな映像技術で、ヒトラーを神としてあがめ、その側近たちを美化します。

ルドルフ・ヘス

たとえば、反ユダヤ主義法の起草者のひとり、ルドルフ・ヘス。

ヨーゼフ・ゲッベルス

宣伝相となった、ヨーゼフ・ゲッベルス。

ヘルマン・ゲーリング

ドイツ空軍を再建した、ヘルマン・ゲーリング。

エルンスト・レーム

そして、エルンスト・レーム(SA(突撃隊)最高指揮官)。狂信的な集団、突撃隊の最高指揮官です。

1年後、ナチスはこの映画の上映を禁止します。レームが裏切り者として糾弾されたからです。腹心だったレームに、ヒトラーは脅威を感じたのかもしれません。このころ、レーム率いる突撃隊は、隊員200万を擁し、国軍と肩を並べる存在になっていました。ヒトラーは、国軍の忠誠を得るために、突撃隊を抑え込み、レームを粛正してしまいます。

おしゃべりな修道士

<1934年6月14日>こうした顛末のすべては、ヒトラーがイタリアの独裁者、ムッソリーニ(写真右:ベニート・ムッソリーニ)を訪問したことから始まりました。ヒトラーは、年上のムッソリーニを手本としていました。ヒトラーは、オーストリア併合計画への承認を求めます。しかしムッソリーニは、拒否します。ムッソリーニはヒトラーのことを、おしゃべりな修道士のようだと言い、好感を持ちませんでした。

ムッソリーニは、ベネチア観光にヒトラーを連れ出すと、真っ先に海軍の艦隊を見せ付けます。このときドイツには、小規模な海軍しかありませんでした。屈辱を胸にヒトラーはベルリンへ戻り、軍の再建がなければ自分の計画は実現できないと痛感します。

長いナイフの夜

ヒトラーはベルサイユ条約を破り、兵力と軍備を回復させると軍に約束してきました。ここで軍幹部は、さらに多くを望みます。レームと、彼が指揮する突撃隊の排除を求めたのです。突撃隊が軍にとって、脅威だったからです。

レームはまた、誇大妄想の傾向があると批判されていました。産業界は、国家社会主義の革命はまだ終わっていないというレームの宣言に、不安を抱きます。ゲッベルスは、彼の本性は、共産党員だと言いました。

これまでの15年間レームは、ヒトラーの共犯者でした。しかしヒトラーは、クーデターを企てたとして、レームを粛正するのです。ヒトラーは、処刑実行者を選びます。

ハインリヒ・ヒムラー

親衛隊の全国指導者、ヒムラー。

ラインハルト・ハイドリヒ

ゲシュタポのトップ、ハイドリヒ。

“ゼップ”・ディートリヒ

親衛隊の指導者、ディートリヒ。精肉店の店員から、登りつめた人物。

<1934年6月30日~7月2日 “長いナイフの夜”>1934年6月30日から7月2日にかけて、親衛隊は、レームをはじめ、敵対分子やヒトラーの不都合な過去を知る者、85人を殺害します。この3日間をヒトラーは、「長いナイフの夜」と呼びました。

レームが消えたことで、突撃隊は影響力を失い、治安維持のためだけに配備されます。軍や産業界の有力者は満足し、ゼップ・ディートリヒは、親衛隊の大将へ昇格します。

<宣伝映画「意志の勝利」 監督 レニ・リーフェンシュタール 1934年>1934年のナチ党大会を記録した映画には、突撃隊の姿はなく、ヒムラーを先頭とする黒い制服の親衛隊しか映っていません。

ヒトラーはただ一人、頂点に立ちました。

<1934年8月2日 ヒンデンブルク大統領 死去>長いナイフの夜の1か月後、ワイマール共和国最後の大統領、ヒンデンブルクが、86歳で亡くなります。民主主義が葬り去られてから既に久しく、全体主義が取って代わっていました。

ヒトラーは軍の総司令官になり、その権力は、絶対的なものになります。全ての将兵は、ドイツ国民の指導者、総統アドルフ・ヒトラーに、忠誠を誓わなくてはなりません。

<1935年7月 バイロイト>ヒトラーは、お気に入りの作曲家、ワーグナーの音楽祭を楽しむため、バイロイトを訪れます。

ウィニフレッド
・ワーグナー

政治活動を始めたばかりのころを支えた、ワーグナーの義理の娘ウィニフレッドが、ヒトラーを迎えました。ヒトラーは、これまでの長い道のりを振り返りました。若いころの夢を叶えたのです。

ワーグナーの作品に登場する英雄、リエンツィになる夢。

リエンツィは、自分を慕う民衆のために、命を捧げます。

まるで、英雄ジークフリートのように、ヒトラーは自分の夢を追って北海へ漕ぎ出します。彼を創り出した人たちは、ゴーレムと化したヒトラーを、もはや、コントロールできませんでした。ゴーレムは、ユダヤ教の伝説に登場する泥の人形で、悪魔のような力で人間の視力を奪うことができます。

暗黒の夜へ

ヒトラーは、ワイマール共和国時代の成功を、自分の手柄にすり替えます。その一つが、有名なアウトバーン、高速道路。

さらに、ニュルンベルク人種法(1935年)を成立させ、ユダヤ人への攻撃を開始します。各地のユダヤ教の施設、シナゴーグの焼き討ち、そして、ユダヤ人商店への襲撃。水晶の夜。これらが、ホロコーストへの序章となります。

ベルサイユ条約を破り、1919年に非武装化された地帯を再び占領しました。

フランスやイギリスがドイツに対して融和政策をとったことから、ムッソリーニはヒトラーに接近。

<1938年3月 ドイツ オーストリアを併合>その結果、ヒトラーはオーストリア併合に成功します。ヒトラーが掲げる、すべてのドイツ語圏統合による、大ドイツに一歩近づいたのです。

ヒトラーは、爆撃機を投入して、流血のスペイン内戦に介入し、バスク地方のゲルニカの市民を無差別に殺害しました。そうした軍事支援によって、フランコの極右勢力は、スペイン共和国政府を打倒します。ヒトラーは、ナポレオン軍のような、大陸軍を夢見ました。それを率いて、モスクワへ攻め込むのです。いっぽうでヒトラーは、平和を訴えます。

ヒトラー「統一国家実現のために皆が心の準備をしなくてはならない。国民は我々に従い、自ら目標を達成しなくてはならない。皆が勇敢であると同時に、平和を愛することを願う。平和を愛さなくては勇敢にはなれない。」

疲れ果てたドイツ国民は、現実を見失います。やがて勃発する第二次世界大戦。執拗かつ残忍なヒトラーは、5,000万人以上の死者の霊がひしめく暗黒の夜へ、ドイツ、そして世界を引きずり込んでいくのです。

<終>

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