ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

ヒトラー暗殺計画

イントロダクション

<この作品は、当時の映像とドラマで構成されています>

製作
Sunset Presse
(フランス 2015年)

ヒトラー暗殺計画
Kill Hitler The Luck of the Devil

ゲオルク・エルザー、ヘニング・フォン・トレスコウ、ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ、

ゲオルク・エルザー
ヘニング・フォン・トレスコウ
ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ

ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク。

クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ

平凡な一人の職人と、貴族出身の4人の軍人。この5人の男たちが、ヒトラーの暗殺を企てました。しかし、彼らは知りませんでした。ヒトラーが、悪魔の強運に守られていたことを。

1941年6月、ドイツ軍がソビエトに侵攻。世界征服を目論もくろむヒトラーは、兵士たちに勝利を約束しました。ところが戦闘は長引き、ドイツ軍は多くの犠牲者を出しました。ヒトラーの大それた夢は、ロシアの凍てつく風のなかに消えました。

ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐

ヒトラーは、愚かな犯罪者です。
我々がするべきは、ヒトラーを説得することではありません。殺すことです。
最高司令部には、このけだものを殺害できる人物が、一人もいないのでしょうか。

ヒトラー体制の中枢にも、確固たる決意で暗殺を試みた人たちは、存在しました。ヒトラーが政権を奪った後に企てられ、失敗に終わった暗殺計画は、30件余り。彼は、悪魔を味方につけていたのです。

1934年 ベルリン

1934年、ヒトラーは首相に加えて、大統領の権限も手にし、総統と名乗りました。さらに、国防軍最高司令官に就任。兵士たちは、彼に服従と忠誠を誓い、将校たちは、ヒトラーの直属となりました。

ドイツ中央軍集団(東部戦線) ルドルフ・クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐

我々はみな、不安を感じていました。
なぜならヒトラーは、正当なドイツ陸軍の伝統から見れば、よそ者で、しかも、卑劣な人間だったからです。
そんな人物に、忠誠を誓っていたわけですから。

ゲルスドルフのように、ナチスのやり方を批判する将校は、少数派でした。1930年代後半、ヒトラーはドイツ国民のほぼ9割から支持を得ていました。何百万という人々が、ヒトラーに熱狂していたのです。

時計職人ヨハン・ゲオルク・エルザーの計画

1939年 秋 ミュンヘン

そんななか、ミュンヘンでは、一人の家具職人が、行動を起こそうとしていました。彼の名は、ヨハン・ゲオルク・エルザー。3か月かけて、密かに爆弾を作っていました。

そのころ、陸軍参謀総長、ルートヴィヒ・ベックを中心とする、一部の将軍たちも、反乱を画策していました。

家具職人 ヨハン・ゲオルク・エルザー

この状況を変えるには、権力者を排除するしかありません。
権力者とは、ヒトラーと側近のゲーリング、そしてゲッベルスです。
この3人を排除すれば、新しいリーダーが誕生するでしょう。
その結果、労働者階級の社会的状況が改善されることを願います。

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻しました。

ドイツ軍は、首都ワルシャワへの無差別攻撃を開始。一般市民が最初に犠牲となる戦いの、実地演習でした。

ミュンヘン
ミュンヘンでは、家具職人のエルザーが、着々と準備を進めていました。

家具職人 ヨハン・ゲオルク・エルザー

ビルガーブロイケラー
11月6日
ヒトラーは毎年、11月の8日に、かつて自らがクーデターを企てたビアホール、ビルガーブロイケラーで、演説を行っていました。
私はそのビアホールに通い、化粧室を通って鍵のかかっていない広間に入り込めば、物置に身を潜められると気づきました。
しかも、すぐそばにある出口のドアは、ちょうど死角になっていたんです。

エルザーは、ビアホールで食事をとったあと、物置に隠れて閉店を待ち、ひと月あまりかけて、柱に穴を開けました。11月6日、ついに、穴のなかに爆弾を設置。時限装置は、11月8日の、午後9時15分から、30分のあいだにセットしました。

11月8日、ヒトラーは専用機に乗り込み、ミュンヘンに向け出発しました。彼は、列車よりも飛行機を好みました。一日で何カ所も回れるからです。

ヒトラーがビアホールに到着したのは、午後8時前。演壇には、8時8分に上がりました。そして、8時58分には、演説を終えてしまいます。9時9分、ヒトラーはホールを後にしました。天候が悪化したため、移動手段を、飛行機から列車へと変更したからです。ヒトラーが予定より早く演説を切り上げたことで、エルザーの緻密な計画は崩れました。9時20分、爆弾が爆発。大勢の死傷者が出ました。ヒトラーは、すでにベルリンに向け、出発していました。

爆発の1時間後、捜査員が、爆弾の残骸を発見。時限装置が、時計の部品で作られていることが判明しました。この情報で、捜査は大きく進展。わずか一日で決着が付きました。スイスに渡ろうとしていたエルザーは、逮捕されました。

家具職人 ヨハン・ゲオルク・エルザー

私の動機はただ一つ。
多くの労働者たちが置かれている状況が、改善されること、それだけでした。
誰かにそそのかされたわけじゃないし、何かの影響を受けたわけでもない。
ドイツ政府の転覆を訴える、モスクワ放送を聞いたこともありません。
私は、ただ、これ以上多くの血が流されないためにやったのです。
すべて単独で行いました。これは価値ある行動だと信じて、疑いませんでした。

ドイツ当局にとっては、信じ難いことでした。一般人が、たった一人でヒトラーの暗殺を成し遂げるところだったのです。

当局は、イギリスの陰謀だと考え、新聞に、二人の諜報機関員の写真を、エルザーと並べて掲載させました。エルザーは強制収容所へ送られ、イギリスの関与を証明するための裁判を待つこととなりました。天候の変化がなければ、ヒトラーは爆死し、その後の世界は全く違っていたかも知れません。

ヒトラーは、エルザーの失敗を逆手に取り、こう語りました。“私は神の摂理に守られている”。犠牲者の葬儀の後に、ナチス親衛隊情報部が作成した報告書には、次のように記されています。“ミュンヘンでの爆破事件は、国民の連帯感と総統に対する敬愛の念を強めた”。

拡大する戦線

ポーランドをほぼ制圧したヒトラーが次に目を向けたのは、西ヨーロッパでした。1940年5月10日。ドイツ軍は、オランダ、ベルギー、フランスへの攻撃を開始。戦力的に勝っていると思われていたフランス軍は、わずか5週間しかもちませんでした。ドイツ軍の大胆な電撃戦術が、指揮系統に問題があったフランス軍を圧倒したのです。

6月21日、フランスの首相ペタンが、休戦を申し入れました。フランスは負けたのです。ドイツ国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテルは、ヒトラーを、史上最高の軍指導者と称えました。

西部戦線で勝利を収めたヒトラーの次の標的は、東。ヒトラーが、ユダヤ共産主義の帝国と呼ぶ、ソビエトでした。1941年6月22日、ヒトラーは、バルバロッサ作戦を発動。125個師団を、ソビエトへ侵攻させました。

まず、数千機の航空兵力により、ソビエトの守備隊は数時間で壊滅。500万の将兵と、戦車4,300両の巨大軍団が3つに分かれ、北はレニングラード、東はモスクワ、南はウクライナ、カフカスを目指して攻め込みました。

歴史上もっとも大規模な作戦でした。ドイツ軍は、レニングラードを砲撃の射程圏内に捉え、モスクワの数十キロ手前にまで迫り、キエフを陥落させました。

生存圏
ドイツ民族の生存圏を拡大するというヒトラーの野望は、とどまるところを知りません。捕虜となったソビエト軍兵士のうち、生き延びた者は、ほとんどいませんでした。カイテルが、配下の将校に、捕虜を処刑する許可を与えていたのです。

ドイツ中央軍集団(東部戦線) ルドルフ・クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐

恐ろしい文書が届きました。
そこにはヒトラーの署名があり、拘束したソビエト兵士のなかで、指導的立場にある政治委員はすべてその場で射殺すべし、という指令が書かれていたのです。

ヒトラーの発した命令の非人道性は、過去のいかなる戦争をも上回るものでした。国防軍の各部隊には、移動虐殺部隊が同行。敵対者とみなされる人たちを、片っ端から銃殺していたのです。残虐行為に対する法的責任は、一切問われませんでした。犠牲者の多くは、共産党員やユダヤ人でした。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

我々は軍人であって、殺し屋ではないのです。
私が中央軍集団の首席作戦参謀である限り、捕虜は処刑させません。
今こそ行動を起こさなければ、ドイツ軍の野蛮な行いを、世界は、この先何百年も忘れないでしょう。

人々は服を脱がされ、自ら墓穴を掘って、射殺されるのを待ちました。子供を含めた何百万もの人々が、銃弾によるホロコーストで、虐殺されたのです。

トレスコウの副官 ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉

ヒトラーとその側近たちは、単なる犯罪者にすぎません。
彼らの不法な手口は、文明国に値しない。
ドイツの名誉を汚し、国を破滅に導くでしょう。

シュラーブレンドルフは、トレスコウの副官を務めていました。トレスコウは、信頼できる仲間を集め、ヒトラー暗殺の計画を進めていました。暗殺計画は、ことごとく失敗。ヒトラーの警備は強化され、スケジュールや行動は極秘とされました。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

ヒトラーの首席副官から聞いたのですが、銃による襲撃に備え、ヒトラーは防弾チョッキで重要な臓器を守り、帽子の裏に鋼鉄を貼って、頭も守っていたそうです。

1942年、夏。ドイツ軍が、スターリングラードへの攻撃を始めました。ドイツとソビエトとの攻防に、世界が注目。1943年2月まで続いたこの第二次世界大戦最大の激戦では、200万もの犠牲者が出ました。独ソ戦の象徴となったこの戦いで、ヒトラーは、退却は許さないと命じました。ソビエト軍に包囲されたドイツ軍は、飢えと寒さに苦しめられました。

1943年2月2日。9万人を超える将兵が、ついに投降。そのなかには、司令官の、フリードリヒ・パウルズ元帥も含まれていました。スターリングラードの戦いは、ヒトラーの無敗神話に、終止符を打ちました。この敗北を受けて、多くの将校たちが、ヒトラーに騙されていたことに気づきました。彼らは、一度は忠誠を誓った総統に背く決意をしたのです。

トレスコウ大佐の飛行機爆破計画

1943年3月18日 ドイツ中央軍集団司令部 スモレンスク(ソビエト)

東部戦線、スモレンスクの司令部では、トレスコウが機会をうかがっていました。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

我々は、ヒトラーがスモレンスクへ視察に訪れることを知りました。
これは、またとないチャンスです。
ただ命令に従うだけのドイツ軍には、クーデターを起こす力はありません。
私がやるしかありませんでした。
我々の威厳と自尊心を守るには、ほかに選択肢はなかったんです。

トレスコウの副官 ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉

最終準備は、自分たちで行いました。
トレスコウ大佐がたてた戦略は、次のようなものです。
まず、確実に仕留めるため、爆破装置はふたつ。
それを、リキュールが二本入っているかのように見せかけて、梱包します。
さらに、その梱包を壊すことなく、信管を作動できる装置を仕込みました。

スモレンスクへ飛んできたのは、全く同じ、2機の飛行機。どちらにヒトラーが乗っているか、特定されないためでした。戦闘機も護衛についていました。

ヒトラーは、午前中、幹部たちと会議。将校用の食堂には、昼食が用意されました。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

実際に戦地で戦っている兵士たちに囲まれ、ヒトラーは上機嫌でした。
視察には、総統専属の料理人と、医師が同行していました。

ヒトラーには、毒見役が、12人もいました。誰も信用していなかったのです。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

猫背で、テーブルにひじをつきながら食べる。
ヒトラーの食事マナーは、見苦しいものでした。
ヒトラーは、すぐ出発してしまいます。
私は、同じ飛行機に乗る、ブラント中佐にこう言いました。

陸軍総司令部 作戦課
主任参謀
ハインツ・ブラント中佐
すまないが、小包を運んでもらえないだろうか。陸軍総司令部の、シュティーフ大佐とばかばかしい賭けをして負けてしまい、リキュールを2本、奢ることになってるんだ、と。

ブラント中佐は、トレスコウの頼みを引き受けました。あとは信管をセットするだけでした。計画の成功を確信したトレスコウとシュラーブレンドルフは、地獄へと落ちるであろう飛行機の離陸を見守りました。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

ヒトラーの専用機には、特別な安全装備が施されていました。
機内は複数の個室に分かれていて、ヒトラーのキャビンは、パラシュートで脱出できるようになっていたんです。
ですから、飛行機全体を吹き飛ばすほどの爆薬が必要でした。
もし想定通りの大爆発が起きなくても、機体がちぎれれば、墜落するはずです。

戦闘機に護衛されながら、ヒトラーの専用機は、ベルリンへ向かっていました。爆弾は、何も知らないブラント中佐の足元にありました。

スモレンスクの司令部では、二人が無線のそばで待ち構えていました。

トレスコウの副官 ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉

我々の計算では、離陸から30分後、飛行機がミンスク近郊に差し掛かったころに、爆発するはずでした。
総統機爆発の一報が入るのを、今か今かと待っていましたが、何の音沙汰もありませんでした。
結局、2時間後にベルリンからメッセージが届きました。
“東部戦線視察後、総統は無事、ベルリンに帰還。予定通り、本部に到着した。”
我々は、現実を直視しなければなりませんでした。
計画は、失敗したのです。大佐も私も、呆然としました。

二人は、不発に終わった爆弾を、一刻も早く取り戻さなければなりません。シュラーブレンドルフはすぐさまベルリンへ飛び、無事に爆弾を回収しました。その後、彼らに再びチャンスが巡ってきました。

博物館ヒトラー爆殺計画

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

博物館で、式典が行われることになっていたんです。
これは絶好の機会でした。
予定では、ヒトラーをはじめ、親衛隊トップのヒムラーや、国家元帥ゲーリングも出席することになっていたからです。
我々には、自らの命を犠牲にする覚悟がありました。

博物館で、ヒトラーは、ゲーリングやヒムラー、カイテルたちに出迎えられました。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

1943年3月21日
私は、計画の実行を、友人のゲルスドルフに頼みました。
彼は少し考えたあと、こう言いました。「この任務、引き受けましょう。国を救うために。」

暗殺を実行するゲルスドルフには、上着の両袖に爆弾を仕込み、ここぞというときを見計らって信管をセットし、ヒトラーにできる限り接近するようアドバイスしていました。
自分の命を犠牲にする覚悟ができていれば、この方法で、必ず仕留められるはずです。

ヒトラーは博物館で、ソビエトから奪った武器を見学することになっていました。ゲルスドルフは、その案内役を任されていたのです。右手を上げて敬礼するため、ゲルスドルフは、左側に爆弾を仕込みました。信管をセットしたら、残り時間は15分。ゲルスドルフは、できる限りヒトラーに接近し、任務を遂行することになりました。

中央軍集団(東部戦線)ルドルフ・クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐

ヒトラーが展示室に入ると、副官のルドルフ・シュムントがやってきて、展示品を見学する時間は5分だと私に告げました。
それでは、計画を実行することが、物理的に不可能となります。
私には、少なくとも10分必要でした。

ヒトラー筆頭副官
ルドルフ・シュムント将軍
ゲルスドルフにとって、人生で最も長い5分間でした。独裁者を道連れに、自爆する覚悟だったからです。ヒトラーは、わずか10分足らずで展示室を後にしました。ヒトラーの見学は終了。まるで危険を察知したかのように建物から出ていき、命拾いしたのです。信管は作動していましたが、起爆には至っていません。

ゲルスドルフはトイレに駆け込み、間一髪で信管を抜きました。計画は失敗でした。1週間前のリキュール爆弾に続き、2回目の失敗。九死に一生を得ていたことも知らず、ヒトラーは、ベルリンの大通りで、軍事パレードに参加していました。その後、さらに2回の暗殺計画が企てられましたが、失敗に終わりました。

エルヴィン・ロンメル

陸軍元帥
エルヴィン・ロンメル
ドイツ軍は、東部戦線で苦戦。いっぽう西部戦線では、連合軍が、ノルマンディー上陸作戦を準備していました。ヒトラーの切り札は、アフリカ戦線で功績をあげ、元帥に昇進していた、ロンメルでした。ロンメルは、ナチスのプロパガンダ映画のなかで、最も名高い人物の一人でした。

ヒトラー暗殺をもくろむ将校たちは、国民の人気が高いロンメルを、何とかして仲間に引き入れようとしていました。ところがロンメルは、なかなか首を縦に振りません。

1943年11月、ヒトラーはロンメルを、フランス沿岸に敷いた防御線、大西洋の壁へ派遣。連合軍の上陸を防ぐためでした。

ロンメルは、連合軍が、ノルマンディーから上陸することを予測し、こう語っていました。その日は、最も長い一日となるだろう。

1944年6月6日、軍艦1213隻、支援艦船736隻、貨物輸送船864隻を含む大船団から、2万台の車両と15万6,000人の将兵が、ノルマンディーの海岸に上陸しました。連合軍はベルリンを目指し、怒涛の進撃を開始しました。

ロンメルは、敗戦は避けられないと悟り、イギリス軍、アメリカ軍、それぞれとの休戦交渉を模索する動きを見せていました。反ヒトラー派は、再びロンメルの説得を試みますが、ヒトラーの命を奪う計画に、彼は躊躇していました。ロンメルは、ヒトラーを排除するとしても、逮捕し、裁判にかけるべきだ、と考えていました。暗殺には反対だったのです。

1944年7月17日
7月17日、前線の部隊を車で視察していたロンメルは、連合軍の戦闘機に襲撃されました。運転手は即死。車はスピンして、側溝に突っ込みました。戦闘機は、すでに上空に去っていました。ロンメルは頭部に重傷を負いました。反ヒトラー派にとって、これは計り知れない損失でした。彼らを、大義名分のもとにまとめることができる、最も人望ある人物を失ってしまったのです。

ワルキューレ

ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐

将軍たちは、何も成し遂げられなかった。
次は、我々の出番です。将校である我々の義務は、祖国を救うこと。
神と自らの良心に誓ったこの計画は、決行されなければなりません。
なぜならヒトラーは、悪魔だからです。

1944年7月20日

1944年7月20日。シュタウフェンベルクと、彼の副官、ヴェルナー・フォン・ヘフテンは、東プロイセン、ラステンブルクにある総統大本営、通称、狼の巣へ向かっていました。シュタウフェンベルクは、鞄の中に、二つの爆弾を忍ばせていました。

シュタウフェンベルクは貴族出身で、最初は、ヒトラーを支持していました。優秀な将校で、ロンメル指揮下の北アフリカへ配属されました。

1943年4月、シュタウフェンベルクは戦地で重傷を負い、左目と右手、そして、左手の小指と薬指を失いました。彼は、療養生活のあいだに自分を見つめ直し、反ヒトラー派に参加。その後、国内予備軍司令部に配属され、ヒトラーと間近に接する機会を得ました。

ワルキューレ作戦
ドイツ国内の有事に備えて、予備軍を結集し、動員する計画

彼は、クーデターに利用しやすいよう、密かに、ワルキューレ作戦に修正を加えました。あとは、ヒトラーのサインをもらうだけ。ヒトラーは、文書に目を通すこともなく署名しました。

お膳立ては整いました。修正されたワルキューレ作戦を発動すれば、ベルリンを制圧できることになっていたのです。シュタウフェンベルクは、ドイツの運命を担うつもりでした。

午前11時30分 総統大本営「狼の巣」 ラステンブルク

飛行機で2時間半かけて、シュタウフェンベルクとヘフテンは、狼の巣に到着しました。

作戦会議は通常、分厚いコンクリート製の建物のなかで行われていました。ここなら気密性が高く、窓もありません。爆発の威力を最大限に発揮できる、理想的な場所でした。ところが、この日は気温が高かったため、急きょ、会議の場所が変更されました。

12時20分、ヒトラーと側近にあいさつしたあと、シュタウフェンベルクは、シャツを着替えたいと願い出ました。ここで、シュタウフェンベルクにとって、さらなる誤算が生じます。この日の午後、ムッソリーニが訪れることになり、直前になって会議の時間が繰り上げられたのです。

ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐

私は、洗面所に行きたいと申し出ました。
見ての通り、重い障害を抱えているため、咎められることはありませんでした。

変更された会議室では、コンクリート製の建物ほどの殺傷力が期待できません。
そのため、爆弾の準備は、より慎重に行わなければなりませんでした。
ヘフテンから爆弾を受け取った私は、それぞれに信管を刺し、一つ目の時限装置をセットしました。

そのとき、誰かがドアをノックしました。
仲間の一人、フェルギーベルから電話がかかってきたのです。

一つはセットできましたが、二つ目は間に合わず、ヘフテンの鞄に収めました。
でも、いけるはずです。

12時25分、およそ20人の幹部が、ヒトラーを囲んでいました。カイテルが、東部戦線の戦況を報告すると、ヒトラーは地図で位置を確認しながら、熱心に耳を傾けました。12時30分、シュタウフェンベルクが入室。首尾よくヒトラーの右側に立ちました。隣には、かつてリキュール爆弾の運び役をさせられた、ブラントがいました。

ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐

私は、爆弾が入った鞄を、テーブルの下に置きました。ブラントの足元です。
そして彼に、急ぎの電話をかけなければならないので、ちょっと退室することになると告げました。
ここにいる将校たちも、よく急ぎの電話をかけていたので、不自然に思われることはありませんでした。

これで準備は整いました。
あとは、電話を理由に退室するだけです。

午後12時35分

退出するシュタウフェンベルク

ブラントは、足元の鞄が邪魔と、重いオーク材のテーブルを支える分厚い足の反対側に移しました。この何気ないブラントの行動が、ヒトラーを爆発から守る、決定的な要素となりました。

シュタウフェンベルクは、すでに建物の外に出ていました。

午後12時40分

12時40分。

ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐

私は頬に爆風を感じました。
あの爆発で生き残るはずがない。
ヒトラーは、死んだ。

会議室は吹き飛ばされました。負傷者のもとへ、警備隊や兵士が駆け付け、現場は大混乱。シュタウフェンベルクは、ヒトラーの死を確信しました。担架に乗せられた、遺体を見たからです。

12時47分。シュタウフェンベルクとヘフテンは、急いで車に乗り込みました。一刻も早く、ベルリンへ戻るためです。彼らは、仲間が、狼の巣の通信回線を遮断したと信じていました。しかし、狼の巣を孤立させるのは、そう簡単ではありませんでした。ヒトラーの生死をめぐり、情報が錯綜し始めました。

国内予備軍 一般軍務局長
フリードリヒ・オルブリヒト将軍
1時15分、シュタウフェンベルクは、ベルリンに向けて飛び立ちました。彼が見た限り、作戦は成功でした。ところが、ことは計画通りには運びませんでした。暗殺成功という確実な報告を受けていなかったオルブリヒト将軍は、ワルキューレ作戦をまだ発動していなかったのです。シュタウフェンベルクが到着して、ヒトラーの死を告げるまでに、貴重な3時間が失われていました。

午後4時。ワルキューレ作戦をようやく発動。指令書の内容は簡潔でした。親衛隊は武装解除し、すべての指揮官と、ゲーリング、ボルマン、ヒムラー、ゲッベルスを、即刻逮捕せよ。

しかし、その指令が実行されることはありませんでした。突如、町中のあらゆる拡声器から、ヒトラーの声が鳴り響きました。「野心に駆られた将校たちが、私を排除しようと企てた。」

ヒトラーは生きていました。爆発のわずか数時間後、彼はムッソリーニを出迎えていました。ヒトラーはこう言いました。「神に任務を与えられた私には、悪いことは何も起こらない。この一件がこれを証明した」。

置き場所が変わった鞄。頑丈なテーブル。窓のある会議室。使えなかった二つ目の爆弾。いくつもの偶然が重なり、ヒトラーは奇跡的に助かりました。

保安大隊長
レーマー少佐
ベルリンでは、反逆者たちに対する報復が始まりました。保安大隊長レーマー少佐は、ゲッベルスの逮捕を命じられていました。しかし、ゲッベルスがヒトラーに電話し、レーマーと直接話をさせ、反逆者狩りが始まりました。ワルキューレ作戦は、破たんしたのです。

ベルリン 午後11時45分

国内予備軍司令官
フリードリヒ・フロム将軍
この日の夜、シュタウフェンベルク大佐と、副官のヘフテン、オルブリヒト将軍は、国内予備軍司令官、フロム将軍によって、死刑を宣告されました。フロムは、暗殺計画を黙認していました。これは、口封じの処刑でした。

午前0時を回ったころ、彼らは銃殺されました。ヒトラーは、軍人として埋葬された彼らの遺体を掘り起こし、勲章をはぎ取って、焼却させました。

東部戦線 1944年7月21日

そのころ、暗殺計画の中心人物だったトレスコウは、東部戦線で遺書をしたためていました。家族を守るため、彼は、敵に殺されたことにしようと決意しました。前線で自殺すれば、戦死したと見せかけられるでしょう。

7月21日、美しい朝でした。妻に残した別れの言葉で、トレスコウはこう言っています。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

「子供のころに思い描いた夢を、心のなかでずっと抱き続ける。
たとえ世界中が嘲笑あざわらっても、人生が終わるその日まで、その夢のままに生きる。
そういう者こそが、真の人間なのだ。
世間は我々を攻撃し、ののしるだろう。
しかし我々がやったことは、正しかったのだと、私は今も、確信している。
ヒトラーは、ドイツだけでなく、全世界の敵だ。」

「神の前に立ち、自分のしてきたこと、やり残したことを語るとき、私は、ヒトラーとの戦いにおける自分の行いを、正当化できると信じている。
神が、10人の正しい者のために、ソドムは滅ぼさないと約束したように、我々の存在に免じて、ドイツが滅ぼされないことを願う。
最後は、君に認めてほしかった。
だが、この命を、奴らに奪われたくはないのだ。
さようなら。天国で、また会おう。」

処刑

ヒトラー暗殺計画に参加した者たちは、軍を除籍され、裁判にかけられました。彼らに下された判決は、死刑でした。

民族法廷 裁判長
ローラント・フライスラー
裁判長、ローラント・フライスラーは、すでに何千人も、死刑台に送っていました。死刑判決が下ったのは、およそ200人。そのなかには、元帥一人、大将19人、大佐26人、大使2人、外交官7人、大臣1人、そして警察長官が含まれていました。

ヒトラーは、肉屋にぶら下がっている肉のように吊るされる姿を見たい、と言い出しました。絞首刑の苦しみをより強くするため、ロープではなく、ピアノ線が使われました。

ヒトラーは個人的な楽しみのために、処刑現場の撮影も命令。死はすぐには訪れず、断末魔の苦しみが、20分近く続くこともありました。さらに当局は、処刑費用を、遺族に請求しました。その4分の1は、死刑執行人の給料に回されました。

ロンメルとエルザーの最後

1944年10月18日。ヒトラーのお気に入りだった、エルヴィン・ロンメル元帥の国葬が執り行われました。弔辞では、彼の心は総統のもとにある、と読まれました。

実はその4日前、二人の将官がロンメルの自宅を訪れ、冷酷な取引を提示していました。クーデターの捜査で、ロンメルの名前が挙がったことを知ったヒトラーが、反逆罪で裁判にかけられるか、家族の安全と名誉を守って自殺するか、選択しろと命じたのです。

ロンメルの国葬
妻と息子にキスをすると、ロンメルは、将官たちの車に乗り込み、毒を飲みました。ドイツ軍の最も偉大な英雄は、表向きには、戦場で受けた傷が原因で亡くなったとされました。

ヒトラーは、世界に嵐を巻き起こすと息巻いていましたが、攻撃の嵐は、ドイツに向かっていました。

1939年11月に、ビアホールでの暗殺計画に失敗したエルザー。収容所では、ヒトラーの囚人として知られていました。

1945年4月9日 ダッハウ強制収容所

1945年4月9日、ヒトラーの命令を受けた二人の親衛隊員が、エルザーを射殺しました。その二十日後、アメリカ軍が収容所を開放。ヒトラーを殺そうとした男の救出には、惜しくも間に合いませんでした。

ヒトラーの最後 勇気ある男たち

ヒトラーが56回目の誕生日を迎えた1945年4月20日、ソビエト軍は、凄まじい勢いでベルリンへとに迫っていました。ソビエト軍の戦車を食い止めるため、ヒトラーがかき集めた最後の軍は、まだ10代半ばの子供たちばかりでした。少年兵を激励すると、ヒトラーは地下壕に入りました。彼がそこから生きて出てくることは、二度とありませんでした。

1945年4月30日。ドイツ国会議事堂に、ソビエトの赤い旗が掲げられました。ヒトラーは、妻となったエバとともに自殺。二人の遺体は、地下壕から運び出され、ガソリンをかけて燃やされました。多くの人が暗殺を試みた、ヒトラー。最後は自分の意思で、自ら命を絶ったのです。

中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐

戦争とは、狂気です。
その中心にいるのは、ヒトラー。
彼を殺害し、世界を救わなければなりません。
全人類を脅かす、この男を、殺さなければならないのです。

トレスコウ、ゲルスドルフ、シュラーブレンドルフ、シュタウフェンベルク、エルザー。勇気ある男たちです。みな、ヒトラーを殺そうとし、失敗しました。もし一人でも成功していたら、多くの命が救われ、世界の歴史は、全く違ったものになっていたのかもしれません。

ゲルスドルフ大佐
仲間の黙秘により逮捕を免れ、1980年まで存命
シュラーブレンドルフ中尉
フライスラー裁判長の爆撃死により処刑を免れ、1980年まで存命
フロム将軍
1945年3月 銃殺刑

<終>

広告

ページ上部へ