ヒトラー暗殺計画
イントロダクション
<この作品は、当時の映像とドラマで構成されています>
製作
Sunset Presse
(フランス 2015年)
ヒトラー暗殺計画
Kill Hitler The Luck of the Devil
ゲオルク・エルザー、ヘニング・フォン・トレスコウ、ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ、
ゲオルク・エルザー |
ヘニング・フォン・トレスコウ |
ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ |
ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク |
ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ |
平凡な一人の職人と、貴族出身の4人の軍人。この5人の男たちが、ヒトラーの暗殺を企てました。しかし、彼らは知りませんでした。ヒトラーが、悪魔の強運に守られていたことを。
1941年6月、ドイツ軍がソビエトに侵攻。世界征服を目論むヒトラーは、兵士たちに勝利を約束しました。ところが戦闘は長引き、ドイツ軍は多くの犠牲者を出しました。ヒトラーの大それた夢は、ロシアの凍てつく風のなかに消えました。
ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
ヒトラーは、愚かな犯罪者です。
我々がするべきは、ヒトラーを説得することではありません。殺すことです。
最高司令部には、このけだものを殺害できる人物が、一人もいないのでしょうか。
ヒトラー体制の中枢にも、確固たる決意で暗殺を試みた人たちは、存在しました。ヒトラーが政権を奪った後に企てられ、失敗に終わった暗殺計画は、30件余り。彼は、悪魔を味方につけていたのです。
1934年 ベルリン
1934年、ヒトラーは首相に加えて、大統領の権限も手にし、総統と名乗りました。さらに、国防軍最高司令官に就任。兵士たちは、彼に服従と忠誠を誓い、将校たちは、ヒトラーの直属となりました。
ドイツ中央軍集団(東部戦線) ルドルフ・クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐
我々はみな、不安を感じていました。
なぜならヒトラーは、正当なドイツ陸軍の伝統から見れば、よそ者で、しかも、卑劣な人間だったからです。
そんな人物に、忠誠を誓っていたわけですから。
ゲルスドルフのように、ナチスのやり方を批判する将校は、少数派でした。1930年代後半、ヒトラーはドイツ国民のほぼ9割から支持を得ていました。何百万という人々が、ヒトラーに熱狂していたのです。
時計職人ヨハン・ゲオルク・エルザーの計画
1939年 秋 ミュンヘン
そんななか、ミュンヘンでは、一人の家具職人が、行動を起こそうとしていました。彼の名は、ヨハン・ゲオルク・エルザー。3か月かけて、密かに爆弾を作っていました。
そのころ、陸軍参謀総長、ルートヴィヒ・ベックを中心とする、一部の将軍たちも、反乱を画策していました。
家具職人 ヨハン・ゲオルク・エルザー
この状況を変えるには、権力者を排除するしかありません。
権力者とは、ヒトラーと側近のゲーリング、そしてゲッベルスです。
この3人を排除すれば、新しいリーダーが誕生するでしょう。
その結果、労働者階級の社会的状況が改善されることを願います。
1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻しました。
ドイツ軍は、首都ワルシャワへの無差別攻撃を開始。一般市民が最初に犠牲となる戦いの、実地演習でした。
ミュンヘン |
家具職人 ヨハン・ゲオルク・エルザー
ビルガーブロイケラー |
11月6日 |
私はそのビアホールに通い、化粧室を通って鍵のかかっていない広間に入り込めば、物置に身を潜められると気づきました。
しかも、すぐそばにある出口のドアは、ちょうど死角になっていたんです。
エルザーは、ビアホールで食事をとったあと、物置に隠れて閉店を待ち、ひと月あまりかけて、柱に穴を開けました。11月6日、ついに、穴のなかに爆弾を設置。時限装置は、11月8日の、午後9時15分から、30分のあいだにセットしました。
11月8日、ヒトラーは専用機に乗り込み、ミュンヘンに向け出発しました。彼は、列車よりも飛行機を好みました。一日で何カ所も回れるからです。
ヒトラーがビアホールに到着したのは、午後8時前。演壇には、8時8分に上がりました。そして、8時58分には、演説を終えてしまいます。9時9分、ヒトラーはホールを後にしました。天候が悪化したため、移動手段を、飛行機から列車へと変更したからです。ヒトラーが予定より早く演説を切り上げたことで、エルザーの緻密な計画は崩れました。9時20分、爆弾が爆発。大勢の死傷者が出ました。ヒトラーは、すでにベルリンに向け、出発していました。
爆発の1時間後、捜査員が、爆弾の残骸を発見。時限装置が、時計の部品で作られていることが判明しました。この情報で、捜査は大きく進展。わずか一日で決着が付きました。スイスに渡ろうとしていたエルザーは、逮捕されました。
家具職人 ヨハン・ゲオルク・エルザー
私の動機はただ一つ。
多くの労働者たちが置かれている状況が、改善されること、それだけでした。
誰かにそそのかされたわけじゃないし、何かの影響を受けたわけでもない。
ドイツ政府の転覆を訴える、モスクワ放送を聞いたこともありません。
私は、ただ、これ以上多くの血が流されないためにやったのです。
すべて単独で行いました。これは価値ある行動だと信じて、疑いませんでした。
ドイツ当局にとっては、信じ難いことでした。一般人が、たった一人でヒトラーの暗殺を成し遂げるところだったのです。
当局は、イギリスの陰謀だと考え、新聞に、二人の諜報機関員の写真を、エルザーと並べて掲載させました。エルザーは強制収容所へ送られ、イギリスの関与を証明するための裁判を待つこととなりました。天候の変化がなければ、ヒトラーは爆死し、その後の世界は全く違っていたかも知れません。
ヒトラーは、エルザーの失敗を逆手に取り、こう語りました。“私は神の摂理に守られている”。犠牲者の葬儀の後に、ナチス親衛隊情報部が作成した報告書には、次のように記されています。“ミュンヘンでの爆破事件は、国民の連帯感と総統に対する敬愛の念を強めた”。
拡大する戦線
ポーランドをほぼ制圧したヒトラーが次に目を向けたのは、西ヨーロッパでした。1940年5月10日。ドイツ軍は、オランダ、ベルギー、フランスへの攻撃を開始。戦力的に勝っていると思われていたフランス軍は、わずか5週間しかもちませんでした。ドイツ軍の大胆な電撃戦術が、指揮系統に問題があったフランス軍を圧倒したのです。
6月21日、フランスの首相ペタンが、休戦を申し入れました。フランスは負けたのです。ドイツ国防軍最高司令部総長のヴィルヘルム・カイテルは、ヒトラーを、史上最高の軍指導者と称えました。
西部戦線で勝利を収めたヒトラーの次の標的は、東。ヒトラーが、ユダヤ共産主義の帝国と呼ぶ、ソビエトでした。1941年6月22日、ヒトラーは、バルバロッサ作戦を発動。125個師団を、ソビエトへ侵攻させました。
まず、数千機の航空兵力により、ソビエトの守備隊は数時間で壊滅。500万の将兵と、戦車4,300両の巨大軍団が3つに分かれ、北はレニングラード、東はモスクワ、南はウクライナ、カフカスを目指して攻め込みました。
歴史上もっとも大規模な作戦でした。ドイツ軍は、レニングラードを砲撃の射程圏内に捉え、モスクワの数十キロ手前にまで迫り、キエフを陥落させました。
生存圏 |
ドイツ中央軍集団(東部戦線) ルドルフ・クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐
恐ろしい文書が届きました。
そこにはヒトラーの署名があり、拘束したソビエト兵士のなかで、指導的立場にある政治委員はすべてその場で射殺すべし、という指令が書かれていたのです。
ヒトラーの発した命令の非人道性は、過去のいかなる戦争をも上回るものでした。国防軍の各部隊には、移動虐殺部隊が同行。敵対者とみなされる人たちを、片っ端から銃殺していたのです。残虐行為に対する法的責任は、一切問われませんでした。犠牲者の多くは、共産党員やユダヤ人でした。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
我々は軍人であって、殺し屋ではないのです。
私が中央軍集団の首席作戦参謀である限り、捕虜は処刑させません。
今こそ行動を起こさなければ、ドイツ軍の野蛮な行いを、世界は、この先何百年も忘れないでしょう。
人々は服を脱がされ、自ら墓穴を掘って、射殺されるのを待ちました。子供を含めた何百万もの人々が、銃弾によるホロコーストで、虐殺されたのです。
トレスコウの副官 ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉
ヒトラーとその側近たちは、単なる犯罪者にすぎません。
彼らの不法な手口は、文明国に値しない。
ドイツの名誉を汚し、国を破滅に導くでしょう。
シュラーブレンドルフは、トレスコウの副官を務めていました。トレスコウは、信頼できる仲間を集め、ヒトラー暗殺の計画を進めていました。暗殺計画は、ことごとく失敗。ヒトラーの警備は強化され、スケジュールや行動は極秘とされました。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
ヒトラーの首席副官から聞いたのですが、銃による襲撃に備え、ヒトラーは防弾チョッキで重要な臓器を守り、帽子の裏に鋼鉄を貼って、頭も守っていたそうです。
1942年、夏。ドイツ軍が、スターリングラードへの攻撃を始めました。ドイツとソビエトとの攻防に、世界が注目。1943年2月まで続いたこの第二次世界大戦最大の激戦では、200万もの犠牲者が出ました。独ソ戦の象徴となったこの戦いで、ヒトラーは、退却は許さないと命じました。ソビエト軍に包囲されたドイツ軍は、飢えと寒さに苦しめられました。
1943年2月2日。9万人を超える将兵が、ついに投降。そのなかには、司令官の、フリードリヒ・パウルズ元帥も含まれていました。スターリングラードの戦いは、ヒトラーの無敗神話に、終止符を打ちました。この敗北を受けて、多くの将校たちが、ヒトラーに騙されていたことに気づきました。彼らは、一度は忠誠を誓った総統に背く決意をしたのです。
トレスコウ大佐の飛行機爆破計画
1943年3月18日 ドイツ中央軍集団司令部 スモレンスク(ソビエト)
東部戦線、スモレンスクの司令部では、トレスコウが機会をうかがっていました。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
我々は、ヒトラーがスモレンスクへ視察に訪れることを知りました。
これは、またとないチャンスです。
ただ命令に従うだけのドイツ軍には、クーデターを起こす力はありません。
私がやるしかありませんでした。
我々の威厳と自尊心を守るには、ほかに選択肢はなかったんです。
トレスコウの副官 ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉
最終準備は、自分たちで行いました。
トレスコウ大佐がたてた戦略は、次のようなものです。
まず、確実に仕留めるため、爆破装置はふたつ。
それを、リキュールが二本入っているかのように見せかけて、梱包します。
さらに、その梱包を壊すことなく、信管を作動できる装置を仕込みました。
スモレンスクへ飛んできたのは、全く同じ、2機の飛行機。どちらにヒトラーが乗っているか、特定されないためでした。戦闘機も護衛についていました。
ヒトラーは、午前中、幹部たちと会議。将校用の食堂には、昼食が用意されました。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
実際に戦地で戦っている兵士たちに囲まれ、ヒトラーは上機嫌でした。
視察には、総統専属の料理人と、医師が同行していました。
ヒトラーには、毒見役が、12人もいました。誰も信用していなかったのです。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
猫背で、テーブルに肘をつきながら食べる。
ヒトラーの食事マナーは、見苦しいものでした。
ヒトラーは、すぐ出発してしまいます。
私は、同じ飛行機に乗る、ブラント中佐にこう言いました。
陸軍総司令部 作戦課 主任参謀 ハインツ・ブラント中佐 |
ブラント中佐は、トレスコウの頼みを引き受けました。あとは信管をセットするだけでした。計画の成功を確信したトレスコウとシュラーブレンドルフは、地獄へと落ちるであろう飛行機の離陸を見守りました。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
ヒトラーの専用機には、特別な安全装備が施されていました。
機内は複数の個室に分かれていて、ヒトラーのキャビンは、パラシュートで脱出できるようになっていたんです。
ですから、飛行機全体を吹き飛ばすほどの爆薬が必要でした。
もし想定通りの大爆発が起きなくても、機体がちぎれれば、墜落するはずです。
戦闘機に護衛されながら、ヒトラーの専用機は、ベルリンへ向かっていました。爆弾は、何も知らないブラント中佐の足元にありました。
スモレンスクの司令部では、二人が無線のそばで待ち構えていました。
トレスコウの副官 ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉
我々の計算では、離陸から30分後、飛行機がミンスク近郊に差し掛かったころに、爆発するはずでした。
総統機爆発の一報が入るのを、今か今かと待っていましたが、何の音沙汰もありませんでした。
結局、2時間後にベルリンからメッセージが届きました。
“東部戦線視察後、総統は無事、ベルリンに帰還。予定通り、本部に到着した。”
我々は、現実を直視しなければなりませんでした。
計画は、失敗したのです。大佐も私も、呆然としました。
二人は、不発に終わった爆弾を、一刻も早く取り戻さなければなりません。シュラーブレンドルフはすぐさまベルリンへ飛び、無事に爆弾を回収しました。その後、彼らに再びチャンスが巡ってきました。
博物館ヒトラー爆殺計画
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
博物館で、式典が行われることになっていたんです。
これは絶好の機会でした。
予定では、ヒトラーをはじめ、親衛隊トップのヒムラーや、国家元帥ゲーリングも出席することになっていたからです。
我々には、自らの命を犠牲にする覚悟がありました。
博物館で、ヒトラーは、ゲーリングやヒムラー、カイテルたちに出迎えられました。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
1943年3月21日 |
彼は少し考えたあと、こう言いました。「この任務、引き受けましょう。国を救うために。」
暗殺を実行するゲルスドルフには、上着の両袖に爆弾を仕込み、ここぞというときを見計らって信管をセットし、ヒトラーにできる限り接近するようアドバイスしていました。
自分の命を犠牲にする覚悟ができていれば、この方法で、必ず仕留められるはずです。
ヒトラーは博物館で、ソビエトから奪った武器を見学することになっていました。ゲルスドルフは、その案内役を任されていたのです。右手を上げて敬礼するため、ゲルスドルフは、左側に爆弾を仕込みました。信管をセットしたら、残り時間は15分。ゲルスドルフは、できる限りヒトラーに接近し、任務を遂行することになりました。
中央軍集団(東部戦線)ルドルフ・クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐
ヒトラーが展示室に入ると、副官のルドルフ・シュムントがやってきて、展示品を見学する時間は5分だと私に告げました。
それでは、計画を実行することが、物理的に不可能となります。
私には、少なくとも10分必要でした。
ヒトラー筆頭副官 ルドルフ・シュムント将軍 |
ゲルスドルフはトイレに駆け込み、間一髪で信管を抜きました。計画は失敗でした。1週間前のリキュール爆弾に続き、2回目の失敗。九死に一生を得ていたことも知らず、ヒトラーは、ベルリンの大通りで、軍事パレードに参加していました。その後、さらに2回の暗殺計画が企てられましたが、失敗に終わりました。
エルヴィン・ロンメル
陸軍元帥 エルヴィン・ロンメル |
ヒトラー暗殺をもくろむ将校たちは、国民の人気が高いロンメルを、何とかして仲間に引き入れようとしていました。ところがロンメルは、なかなか首を縦に振りません。
1943年11月、ヒトラーはロンメルを、フランス沿岸に敷いた防御線、大西洋の壁へ派遣。連合軍の上陸を防ぐためでした。
ロンメルは、連合軍が、ノルマンディーから上陸することを予測し、こう語っていました。その日は、最も長い一日となるだろう。
1944年6月6日、軍艦1213隻、支援艦船736隻、貨物輸送船864隻を含む大船団から、2万台の車両と15万6,000人の将兵が、ノルマンディーの海岸に上陸しました。連合軍はベルリンを目指し、怒涛の進撃を開始しました。
ロンメルは、敗戦は避けられないと悟り、イギリス軍、アメリカ軍、それぞれとの休戦交渉を模索する動きを見せていました。反ヒトラー派は、再びロンメルの説得を試みますが、ヒトラーの命を奪う計画に、彼は躊躇していました。ロンメルは、ヒトラーを排除するとしても、逮捕し、裁判にかけるべきだ、と考えていました。暗殺には反対だったのです。
1944年7月17日 |
ワルキューレ
ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
将軍たちは、何も成し遂げられなかった。
次は、我々の出番です。将校である我々の義務は、祖国を救うこと。
神と自らの良心に誓ったこの計画は、決行されなければなりません。
なぜならヒトラーは、悪魔だからです。
1944年7月20日
1944年7月20日。シュタウフェンベルクと、彼の副官、ヴェルナー・フォン・ヘフテンは、東プロイセン、ラステンブルクにある総統大本営、通称、狼の巣へ向かっていました。シュタウフェンベルクは、鞄の中に、二つの爆弾を忍ばせていました。
シュタウフェンベルクは貴族出身で、最初は、ヒトラーを支持していました。優秀な将校で、ロンメル指揮下の北アフリカへ配属されました。
1943年4月、シュタウフェンベルクは戦地で重傷を負い、左目と右手、そして、左手の小指と薬指を失いました。彼は、療養生活のあいだに自分を見つめ直し、反ヒトラー派に参加。その後、国内予備軍司令部に配属され、ヒトラーと間近に接する機会を得ました。
ドイツ国内の有事に備えて、予備軍を結集し、動員する計画
彼は、クーデターに利用しやすいよう、密かに、ワルキューレ作戦に修正を加えました。あとは、ヒトラーのサインをもらうだけ。ヒトラーは、文書に目を通すこともなく署名しました。
お膳立ては整いました。修正されたワルキューレ作戦を発動すれば、ベルリンを制圧できることになっていたのです。シュタウフェンベルクは、ドイツの運命を担うつもりでした。
午前11時30分 総統大本営「狼の巣」 ラステンブルク
飛行機で2時間半かけて、シュタウフェンベルクとヘフテンは、狼の巣に到着しました。
作戦会議は通常、分厚いコンクリート製の建物のなかで行われていました。ここなら気密性が高く、窓もありません。爆発の威力を最大限に発揮できる、理想的な場所でした。ところが、この日は気温が高かったため、急きょ、会議の場所が変更されました。
12時20分、ヒトラーと側近にあいさつしたあと、シュタウフェンベルクは、シャツを着替えたいと願い出ました。ここで、シュタウフェンベルクにとって、さらなる誤算が生じます。この日の午後、ムッソリーニが訪れることになり、直前になって会議の時間が繰り上げられたのです。
ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
私は、洗面所に行きたいと申し出ました。
見ての通り、重い障害を抱えているため、咎められることはありませんでした。
変更された会議室では、コンクリート製の建物ほどの殺傷力が期待できません。
そのため、爆弾の準備は、より慎重に行わなければなりませんでした。
ヘフテンから爆弾を受け取った私は、それぞれに信管を刺し、一つ目の時限装置をセットしました。
そのとき、誰かがドアをノックしました。
仲間の一人、フェルギーベルから電話がかかってきたのです。
一つはセットできましたが、二つ目は間に合わず、ヘフテンの鞄に収めました。
でも、いけるはずです。
12時25分、およそ20人の幹部が、ヒトラーを囲んでいました。カイテルが、東部戦線の戦況を報告すると、ヒトラーは地図で位置を確認しながら、熱心に耳を傾けました。12時30分、シュタウフェンベルクが入室。首尾よくヒトラーの右側に立ちました。隣には、かつてリキュール爆弾の運び役をさせられた、ブラントがいました。
ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
私は、爆弾が入った鞄を、テーブルの下に置きました。ブラントの足元です。
そして彼に、急ぎの電話をかけなければならないので、ちょっと退室することになると告げました。
ここにいる将校たちも、よく急ぎの電話をかけていたので、不自然に思われることはありませんでした。
これで準備は整いました。
あとは、電話を理由に退室するだけです。
午後12時35分
退出するシュタウフェンベルク |
ブラントは、足元の鞄が邪魔と、重いオーク材のテーブルを支える分厚い足の反対側に移しました。この何気ないブラントの行動が、ヒトラーを爆発から守る、決定的な要素となりました。
シュタウフェンベルクは、すでに建物の外に出ていました。
午後12時40分
12時40分。
ドイツ国内予備軍 参謀長 クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐
私は頬に爆風を感じました。
あの爆発で生き残るはずがない。
ヒトラーは、死んだ。
会議室は吹き飛ばされました。負傷者のもとへ、警備隊や兵士が駆け付け、現場は大混乱。シュタウフェンベルクは、ヒトラーの死を確信しました。担架に乗せられた、遺体を見たからです。
12時47分。シュタウフェンベルクとヘフテンは、急いで車に乗り込みました。一刻も早く、ベルリンへ戻るためです。彼らは、仲間が、狼の巣の通信回線を遮断したと信じていました。しかし、狼の巣を孤立させるのは、そう簡単ではありませんでした。ヒトラーの生死をめぐり、情報が錯綜し始めました。
国内予備軍 一般軍務局長 フリードリヒ・オルブリヒト将軍 |
午後4時。ワルキューレ作戦をようやく発動。指令書の内容は簡潔でした。親衛隊は武装解除し、すべての指揮官と、ゲーリング、ボルマン、ヒムラー、ゲッベルスを、即刻逮捕せよ。
しかし、その指令が実行されることはありませんでした。突如、町中のあらゆる拡声器から、ヒトラーの声が鳴り響きました。「野心に駆られた将校たちが、私を排除しようと企てた。」
ヒトラーは生きていました。爆発のわずか数時間後、彼はムッソリーニを出迎えていました。ヒトラーはこう言いました。「神に任務を与えられた私には、悪いことは何も起こらない。この一件がこれを証明した」。
置き場所が変わった鞄。頑丈なテーブル。窓のある会議室。使えなかった二つ目の爆弾。いくつもの偶然が重なり、ヒトラーは奇跡的に助かりました。
保安大隊長 レーマー少佐 |
ベルリン 午後11時45分
国内予備軍司令官 フリードリヒ・フロム将軍 |
午前0時を回ったころ、彼らは銃殺されました。ヒトラーは、軍人として埋葬された彼らの遺体を掘り起こし、勲章をはぎ取って、焼却させました。
東部戦線 1944年7月21日
そのころ、暗殺計画の中心人物だったトレスコウは、東部戦線で遺書をしたためていました。家族を守るため、彼は、敵に殺されたことにしようと決意しました。前線で自殺すれば、戦死したと見せかけられるでしょう。
7月21日、美しい朝でした。妻に残した別れの言葉で、トレスコウはこう言っています。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
「子供のころに思い描いた夢を、心のなかでずっと抱き続ける。
たとえ世界中が嘲笑っても、人生が終わるその日まで、その夢のままに生きる。
そういう者こそが、真の人間なのだ。
世間は我々を攻撃し、罵るだろう。
しかし我々がやったことは、正しかったのだと、私は今も、確信している。
ヒトラーは、ドイツだけでなく、全世界の敵だ。」
「神の前に立ち、自分のしてきたこと、やり残したことを語るとき、私は、ヒトラーとの戦いにおける自分の行いを、正当化できると信じている。
神が、10人の正しい者のために、ソドムは滅ぼさないと約束したように、我々の存在に免じて、ドイツが滅ぼされないことを願う。
最後は、君に認めてほしかった。
だが、この命を、奴らに奪われたくはないのだ。
さようなら。天国で、また会おう。」
処刑
ヒトラー暗殺計画に参加した者たちは、軍を除籍され、裁判にかけられました。彼らに下された判決は、死刑でした。
民族法廷 裁判長 ローラント・フライスラー |
ヒトラーは、肉屋にぶら下がっている肉のように吊るされる姿を見たい、と言い出しました。絞首刑の苦しみをより強くするため、ロープではなく、ピアノ線が使われました。
ヒトラーは個人的な楽しみのために、処刑現場の撮影も命令。死はすぐには訪れず、断末魔の苦しみが、20分近く続くこともありました。さらに当局は、処刑費用を、遺族に請求しました。その4分の1は、死刑執行人の給料に回されました。
ロンメルとエルザーの最後
1944年10月18日。ヒトラーのお気に入りだった、エルヴィン・ロンメル元帥の国葬が執り行われました。弔辞では、彼の心は総統のもとにある、と読まれました。
実はその4日前、二人の将官がロンメルの自宅を訪れ、冷酷な取引を提示していました。クーデターの捜査で、ロンメルの名前が挙がったことを知ったヒトラーが、反逆罪で裁判にかけられるか、家族の安全と名誉を守って自殺するか、選択しろと命じたのです。
ロンメルの国葬 |
ヒトラーは、世界に嵐を巻き起こすと息巻いていましたが、攻撃の嵐は、ドイツに向かっていました。
1939年11月に、ビアホールでの暗殺計画に失敗したエルザー。収容所では、ヒトラーの囚人として知られていました。
1945年4月9日 ダッハウ強制収容所
1945年4月9日、ヒトラーの命令を受けた二人の親衛隊員が、エルザーを射殺しました。その二十日後、アメリカ軍が収容所を開放。ヒトラーを殺そうとした男の救出には、惜しくも間に合いませんでした。
ヒトラーの最後 勇気ある男たち
ヒトラーが56回目の誕生日を迎えた1945年4月20日、ソビエト軍は、凄まじい勢いでベルリンへとに迫っていました。ソビエト軍の戦車を食い止めるため、ヒトラーがかき集めた最後の軍は、まだ10代半ばの子供たちばかりでした。少年兵を激励すると、ヒトラーは地下壕に入りました。彼がそこから生きて出てくることは、二度とありませんでした。
1945年4月30日。ドイツ国会議事堂に、ソビエトの赤い旗が掲げられました。ヒトラーは、妻となったエバとともに自殺。二人の遺体は、地下壕から運び出され、ガソリンをかけて燃やされました。多くの人が暗殺を試みた、ヒトラー。最後は自分の意思で、自ら命を絶ったのです。
中央軍集団(東部戦線)首席作戦参謀 ヘニング・フォン・トレスコウ大佐
戦争とは、狂気です。
その中心にいるのは、ヒトラー。
彼を殺害し、世界を救わなければなりません。
全人類を脅かす、この男を、殺さなければならないのです。
トレスコウ、ゲルスドルフ、シュラーブレンドルフ、シュタウフェンベルク、エルザー。勇気ある男たちです。みな、ヒトラーを殺そうとし、失敗しました。もし一人でも成功していたら、多くの命が救われ、世界の歴史は、全く違ったものになっていたのかもしれません。
仲間の黙秘により逮捕を免れ、1980年まで存命
フライスラー裁判長の爆撃死により処刑を免れ、1980年まで存命
1945年3月 銃殺刑
<終>