ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

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ヨーゼフ・メンゲレ

死の天使

「彼はエレガントでした。いつも白い手袋をはめていて、ハンサムでした。あまり特徴のある顔ではありませんでしたが、肌がつやつやしていて、そして忘れることのできない目をしていました。」

「私のモルモット」――。メンゲレがそう呼んだ、アウシュビッツの子供たちです。メンゲレは子供たちを、単なる人体実験の材料として扱いました。

「彼には良心がありませんでした。メンゲレは医者などではありません。医者は生を約束するものです。彼が約束したのは死です。」元アウシュビッツの囚人 M・ザットラー V・ザットラー[Magda and Vera Sattler]

「本当に残酷な男でした。悪魔です。」元アウシュビッツの囚人 V・アレクサンダー[Vera Alexander]

1945年1月、メンゲレは犯罪現場から逃走しました。そして結局、最後まで捕まることはありませんでした。しかし、犯した罪から逃れることはできません。彼は生涯、追っ手に発見される不安に怯えていました。掘り起こされたこの遺骨が、アウシュビッツの死の天使なのでしょうか。

〔ヨーゼフ・メンゲレ ~死の天使~〕

ヒトラーへの接近

ヨーゼフ・メンゲレは、1911年、ドイツ南部の町ギュンツブルクに生まれました。礼儀正しい子供でした。父親は農業機械の製造業を営んでおり、家庭は裕福でした。このころの彼は、遊び好きの若者にすぎませんでした。ギュンツブルクのカフェに入りびたり、政治的出来事には何の関心も持っていませんでした。この男が全てを変えました。メンゲレ一家にとってヒトラーは、崇拝の的となります。

<ヒトラー「我々の民族、祖国よ!」>

農業支援を約束したヒトラーを、農機具を製造をするメンゲレの父が支持したのは、ある意味で自然かもしれません。一方息子は、父とは別の面から、ナチスとヒトラーに近づいていきました。ミュンヘン大学に入ったメンゲレは、医学研究の道で名を成すことを夢見ます。彼は、科学的な装いをまとったヒトラーの人種差別主義を受け入れました。そして人類学を専攻しました。それは、ナチスのイデオロギーの核となる人種偏見を、科学的に裏付ける役割を担うものでした。

<ヒトラーの声「国家が我々を支配するのでなく、我々が国家を支配するのだ。国家が我々を作ったのでなく、我々が国家を作るのだ。」>

そして彼らは、この世の地獄も作り出しました。アウシュビッツ強制収容所。有名になりたいというメンゲレの望みは、ここで叶えられるのです。メンゲレは遺伝学者、フォン・フェルシュアー教授の助手となり、アーリア人という医学的な概念の発展に取り組んでいました。フェルシュアー教授は、優越人種、超人を作ることにとりつかれていました。メンゲレはそういう人物の、忠実な弟子でした。人種の純潔さは、当局によって決定されました。つまり、アーリア人か、ユダヤ人か、ということです。

<医師「血液型を調べます。」>

医師たちが鑑定者の役割を果たし、すでにある種の選別が始まっていました。しかし最終的解決、ユダヤ人の虐殺は、まだ始まっていませんでした。社会に適応できる、ということが、時代の要求でした。不適応の者、その因子を持つものを排除すること。それを実行したのが医師でした。医師には、支配民族を作り上げる義務があったのです。

<声 ヒトラー「我々が改良すべきことを、我々自身が知っている。人間は改良できる。我々がそれを改良するのだ。」>

メンゲレは、早く出世することを望んでいました。そのために彼は、ナチスの親衛隊SSに入ります。SSは、ナチス直属の恐るべき組織でした。ヒトラーの歪んだ選任思想の実行部隊です。

1939年、メンゲレの結婚にはSSの承認が必要でした。新婚旅行はジルト島でした。ヨーゼフ・メンゲレと妻のイレーネ(写真右)は、旅先からの手紙に結婚祝いの品に対する感謝の言葉を記しています。戦争がなければ、すべてが違っていたことでしょう。ヨーゼフの妻は後になってからも、彼はいつでも、大変に優しい人でした、と語っています。

「彼はとても親切でした。ドクター・メンゲレは、育ちのよい、魅力的な人でした。人への接し方はいつもきちんとしていて、決して攻撃的になることはありませんでした。仕事で誰かが失敗した時でも、怒ったりせず、とても理解を示してくれたのです。」(アルゼンチンでのメンゲレの会社の社員 E・ハベリヒ[Elza Haverich])

ナチスの時代に、障害を持つ人々に対する理解はありませんでした。強い者や健康な者しか受け入れない社会で、彼らは最初の犠牲者となりました。

劣等遺伝子

1939年に上映されたある映画は、これから起こることを正当化していました。

<[遺伝][精神病院]「年間7億マルク以上が、彼らに費やされている。」>

弱者の淘汰を正当化するために、動物の世界が引き合いに出されました。

<「同じ種でも争いが起こり、弱者が犠牲になります。」>

勇敢で、純血。このような人間が、いわゆる劣等人種の対極に置かれていました。

<「強い民族のみが、国家と世界の繁栄に貢献できるのです。」>

ドイツでは断種と中絶が殺人へとエスカレートしていきました。それは、生きる価値のない生命の抹消と呼ばれました。多くの医師が、死刑執行人になっていったのです。数えきれないほどの殺人が行われました。医学も、独裁制と歩調を合わせていました。医師も軍人と変わりませんでした。

<「宣誓、私は アドルフ・ヒトラーに忠誠と勇気を誓います」><「死に至るまで服従します」>彼らの誓いは独裁者へのものでした。人間としての良心は失われました。

戦争が始まると、あらゆる歯止めが利かなくなっていました。特定の人々を劣等人種と呼ぶプロパガンダが展開され、ナチスの医師たちは彼らを、人体実験の材料として扱うようになります。発疹チフスに効く治療薬を見つけるために人体実験が行われました。強制収容所の囚人たちは、病原体に感染させられました。誰一人として生き延びた者はいませんでした。

非常に高度の高いところでは、人の体はどんな反応を示すのか。答えを見つけるために、人体実験が行われました。強制収容所の囚人たちは、激痛を伴う低圧実験にかけられました。彼らは、無残に死んでいきました。なかには、生きながら解剖された者もいました。

ベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所では、ナチスによって優生学の研究が行われていました。大量虐殺の現場には、この、白衣の殺人者たちもいました。人間の体を医学のために利用する研究の中心となったのが、カイザー・ウィルヘルム研究所です。フォン・フェルシュアー教授は、双子を使って生命の暗号を解読しようとしていました。フェルシュアーには野心的な計画がありました。優越人種を作るために、遺伝子を収集するというものです。そのためには、特に子供が必要でした。

1942年の夏、メンゲレはナチス親衛隊SSに戻りました。彼は東部戦線での戦いを経験します。SSの軍医として、彼は毎日、選別を行いました。負傷者のうち、生き延びられる者と、そうでない者とを決定していたのです。ここには、のちにアウシュビッツで悪名をはせるメンゲレはまだいませんでした。しかしメンゲレは、恩師の薦めで出世への糸口をつかみました。フェルシュアーはメンゲレに、世界にまたとない研究のパラダイスを紹介したのです。そこには、実験台となる無数の囚人が毎日送り込まれてきました。アウシュビッツの収容所に、生きる権利はなく、憐みもありませんでした。そこは死の工場でした。1943年5月、メンゲレにアウシュビッツへの転属命令が出ました。

<(声 ナチス高官 R・ライ)「ユダヤ人や細菌、シラミやノミ、こうした害虫の存在理由が私にはわからない。ユダヤ人の絶滅は、我々の神聖な使命なのだ。」>

メンゲレ、アウシュビッツへ

1943年5月30日、メンゲレがアウシュビッツに到着します。毎日、ヨーロッパ中から何千という人々がここへ送られてきていました。

「私たちは、家族みんなで一緒でした。でもどこへ連れて行かれるのかはわかりませんでした。大人はどこかで仕事をして、私たち子どもには、幼稚園があるだろうと思っていました。そんなふうに想像していたんです。アウシュビッツのことを知っている人は、誰もいませんでした。朝も晩も、貨車での移動がずっと続きました。それはもう、本当にひどい状況でした。そこには食べる物も、トイレも、何ひとつないんです。そこには何も、ありませんでした。」(元アウシュビッツの囚人 M・シュピーゲル[Mgda Spiegel])

「私たちは三日間貨車に乗せられて、アウシュビッツに到着しました。夜のことでした。」(元アウシュビッツの囚人 E・ハバス[Eva Havas])

「突然まぶしい光が見えました。騒がしい音も聞こえました。とにかく大混乱でした。」(元アウシュビッツの囚人 M・ベルコビッツ[Mark Berkowitz])

「夜の2時でした。列車から降りると怒鳴り声が聞こえました。あっという間に私たちは、グループに分けられました。男は右、年寄りと子供は左というふうにね。すぐにグループ分けは終わりました。そして、双子はいないか、双子だ、と叫ぶ声を聞いたんです。」(元アウシュビッツの囚人 M・シュピーゲル[Mgda Spiegel])

「双子は出ろ。」

「早くしろ、ユダヤ人め。」

「降りろ!」(註:体験者たちの当時の様子の証言)

「私たちはみんな列車から降ろされて、長い列に並ばされました。男たちは、女性と子どもから離されました。私たちの前に、メンゲレがナポレオンのようなポーズで立っていました。彼は頑丈な人間を一列に並べました。労働力にするためです。私たち子どもは労働力にはなりませんから、母親と一緒に別の列に並ばされました。殺されるほうの列です。」(元アウシュビッツの囚人 Y・タウブ[Yitzakh and Zerah Taub])

「これはわかっていただきたいのですが、アウシュビッツの医師たちはみな、何千という人々を、短時間の間に右か左かに決めなくてはならない状況に置かれていました。それが日常だったのです。」(元アウシュビッツの医師 H・ミュンヒ[Dr Hans Munch])

「彼は何も言いませんでした。何かオペラのアリアのようなものを、小さな声で口ずさんでいました。まるで、オーケストラを指揮しているかのようでした。はい右、はい左、右、左、右という具合です。」(元アウシュビッツの囚人 V・アレクサンダー[Vera Alexander])

「彼は典型的なナチスの党員でした。ただ一つ他の人々と違う点がありました。ナチスはユダヤ人は退化していて、肉体的に劣っているというようなことを言っていたのです。でもメンゲレの考えは、優秀なのはドイツ人とユダヤ人であり、世界を支配するのはそのどちらかだというものでした。そして彼が望んだのは、ドイツ人が世界を支配することでした。」(元アウシュビッツの囚人 E・リンゲンス博士[Dr Ella Lingens])

「彼は自分の本当の義務とは何かを考えていました。足を踏み入れた仕事を行う、つまりユダヤ人を絶滅させることが、自分の義務なのだろうか、それとも他に何か考えるべきことがあるのだろうかということです。」(元アウシュビッツの医師 H・ミュンヒ[Dr Hans Munch])

アウシュビッツ囚人たちの恐怖

<♪>このメロディを、メンゲレはよく双子たちの前で口ずさんでいました。

「アウシュビッツの一日は点呼で始まりました。囚人はみな、何時間も自分の小屋の前に立っていなくてはなりませんでした。誰かがいなくなると、見つかるまで、全員が小屋の前にずーっと立っていなくてはなりませんでした。そうしているときに、死体が小屋の前に運ばれてくることもありました。そのあと、私たち双子の子供は、実験室へ連れて行かれたのです。」(元アウシュビッツの囚人 M・モーゼス)[Miriam Mozes]」

「最初は、ただ比較するだけでした。目や、体の大きさや鼻といった、体の全ての部分を比較するのです。全て外見上のものが比べられました。これには、何時間も、何日もかかりました。それから、双子の一人からもう一人へ、血液を移し替えるという実験が行われました。」(元アウシュビッツの囚人 I・ラクス[Ilona Lachs])

「何組かの双子が血液を採取された時のことを覚えています。」「彼らは忌まわしい実験のために、大量の血液を抜かれました。体中から血が全部なくなってしまうくらい、たくさんの量です。血をすっかり抜かれ、まるで、空のビニール袋みたいになって、彼らは床に倒れこみました。そのあとは、ただ殺されるだけでした。もう実験の役に立たないからです。あのことは、一生忘れることができません。」(元アウシュビッツの囚人 Y・タウブ Z・タウブ)

この鉄条網の中に、何千という双子たちがいました。双子たちは、囚人の中から実験のために選ばれ、メンゲレの所有物となったのです。

「生きるか死ぬかは彼しだいでした。私たちはみな、彼が怖くてたまりませんでした。彼がやってくるたびに死ぬほど怯えました。私たちにいったい何をするつもりなのか、実験か、それともガス室なのかって。」(元アウシュビッツの囚人 M・ザットラー V・ザットラー[Magda and Vera Sattler])

この死の帝国の真の支配者は、もちろんヒトラーでした。

<(声 ヒトラー)「ユダヤ人は笑っていた。だが今となっては笑うこともできない。ことの重大性を思い知ったからだ。」>

しかしヒトラーが犯罪現場を見ることはありませんでした。メンゲレについてヒトラーが耳にすることはありませんでしたが、死の天使は、間違いなくヒトラーの忠実な部下でした。

「到着して数日後に、私たちはメンゲレに会いました。彼は印象的な人でした。背が高く、ハンサムでした。毎朝彼は一人で私たち双子が収容されていた小屋へやってきました。」(元アウシュビッツの囚人 H・シュテルン[Leah and Hedva Stern])>

「メンゲレは若くハンサムで、年は30歳くらいでした。自分のことを、双子の父と呼んでいました。誰かが何かをしてもらいたいと要望を出すと、彼はその望みを細かく書きとめました。そのあと、夜になって、望みを言った人が連れて行かれることがよくありました。その人は二度と戻ってきませんでした。」(元アウシュビッツの囚人 R・ゼヒラ[Rachel Zehira])

人体実験

「そこでは、実験のためにウサギではなく、人間が使われました。いくらでも手に入ったからです。人体実験をしているといって、非難されることもありませんでした。人間が科学実験のために利用されることは、アウシュビッツでは全く当たり前のことだったのです。当時は、強い者だけが生き延びました。強い者が生きるために、弱い者は排除されねばならないとされていたのです。」(元アウシュビッツの医師 H・ミュンヒ[Dr Hans Munch])

メンゲレは、子供に細菌を注入し、頭がい骨を開き、臓器を取り出しました。双子の研究で成果を上げ、彼はなんとしても、教授になりたかったのです。アウシュビッツの子供たちは、メンゲレをおじさんと呼んでいました。

「彼の子供たちへの態度は、私には到底理解しがたいものでした。彼は、小さな子供たちに、特に少女たちを車に乗せて楽しげに収容所内をドライブすることがありました。ところが、それから何日もたたないうちに、その子供たちは解剖台の上に横たわることになるのです。そういったことは、私には理解できないことでした。しかし、メンゲレにとっては当たり前だったのです。私はメンゲレを理解することができなくなりました。私は、彼のそういった面にはついてゆくことができませんでした。」(元アウシュビッツの医師 H・ミュンヒ[Dr Hans Munch])

「ある日、メンゲレは双子のディーターとニナを連れ出しました。一人の子は、背中にこぶがありました。彼はその双子を連れ出し、次の日だったか二日後に、彼らを連れて帰ってきました。それはもう、恐ろしいことでした。彼は、子供たちの背中と背中を縫い合わせたのです。手や、あちこちの血管、傷口から膿があふれ出ていました。その子たちはもう泣くことさえできませんでした。ただ、嘆き悲しんでいました。」(元アウシュビッツの囚人 V・アレクサンダー[Vera Alexander])

「メンゲレは、双子たちを病棟へ連れてゆき、手術で結合双生児を作ったのです。」「彼は、その体が機能するかどうかを見たかったのです。一つの体に、二つの心臓。二つの臓器が。とんでもないことです。」「3日後、その双子たちの両親は、子供を苦しみから解放するために、窒息させて殺しました。」(元アウシュビッツの囚人 Y・タウブ Z・タウブ)

戦況悪化と隠ぺい工作

1944年夏。ヒトラーの兵士たちは大量虐殺を隠ぺいするため、戦争を続けねばなりませんでした。

「あれは1944年の9月でした。収容所の路上でばったり彼に出会いました。彼は言いました。やあ、私の研究結果をもうお見せしたかな。私がいいえと言うと、では今から見せてあげようと言うのです。そこには丁寧な字で書かれた書類や、分厚いファイルがありました。私はファイルをめくりながら、なぜ彼が私にファイルを見せるのか、ずっと考えていました。彼は一つ一つの図に対して、これなんかよくないかな、などと言いました。そして全部見終わったとき、こう言ったのです。これがみんな共産主義者の手に落ちたら、残念じゃないかね、と。」(元アウシュビッツの囚人 E・リンゲンス博士)

1945年1月、ソビエト軍が、アウシュビッツの近くまで迫っていました。収容所の医師はいち早く身の回りの物をまとめていました。

「突然気づきました。彼が私にファイルを見せたのは、私が生き延びたときに彼の研究は普通の人類学上のものだったと証言させたかったからだと。彼は、そのときすでに準備をしていたのです。戦争に負けることが、わかっていたのでしょう。」(元アウシュビッツの囚人 E・リンゲンス博士)

「メンゲレには、時間がなかったのだと思います。実験を、最後まで行う時間です。そこで、彼は犯罪の証拠になる双子を、みんなガス室で殺してしまおうとしたのです。ある日彼らは、私たちをガス室に連れて行きました。私たちは、そこで服を脱がされました。ところが、10分ほどたってから、彼らは外へ出ていいと言いました。もう毒ガスのツィクロンBがなくなっていたのです。それで彼らは私たちを殺すことができなかったのです。アウシュビッツの博物館には、メンゲレが書いたリストがあります。毒ガスで殺された双子の名前が記されているのですが、実は、妹のエバと私の名前もそこに載っています。私たちが助かったのは、驚くべきことです。」(Miriam Mozes)

1945年1月17日、ナチス親衛隊SS大尉ヨーゼフ・メンゲレは、アウシュビッツを去りました。双子に関する研究記録は、すべて持って行きました。囚人たちは解放されました。3,000人の双子のうち、180人が生き延びました。しかし彼らはその記憶に、一生苦しむことになります。

「邪悪な亡霊のように、一生メンゲレが付きまとっています。私たちの病気は、彼のせいです。全てが、彼のせいなのです。」(元アウシュビッツの囚人 M・ザットラー V・ザットラー[Magda and Vera Sattler])

「私はあそこで、毒を打たれていました。体の不調がそのせいだとは、ずっと気づいていませんでした。計測したところ、私の体の3分の2に、障害がありました。体の震えが止まらないこともあります。時々発作もあります。なんという人生でしょう。」(元アウシュビッツの囚人 M・オファー[Mosne Offer])

メンゲレの逃亡

悪夢は終わりました。しかしアウシュビッツの犯罪者メンゲレは、国防軍兵士に成りすまし、逃亡に成功します。SSの制服を取り換えていたのです。アメリカ軍にも手に負えない状況でした。彼らはどのようにして、ナチスの戦争犯罪人を識別したのでしょうか。

「連合国軍、特にアメリカ軍は、SS隊員を見つけるために、簡単ながら効果的な方法を用いました。SS隊員の腕には、戦闘で負傷した時のために、血液型の入れ墨があります。シャツを脱がせ腕を上げさせれば、SS隊員を識別できたのです。しかしメンゲレは入れ墨をしていませんでした。このため彼は、この識別方法から逃れられたのです。」(アメリカのメンゲレ調査官 D・マーベル[David Marvell])

メンゲレはまず、ドイツ南部の小さな村、マンゴルディングに身をひそめました。メンゲレは、村の農家の住みこみとして働きました。彼はフリッツ・ホルマンと名乗っていました。

「戦争が終わって仕事を探しているんだと思いました。この人には帰る場所もないんだろうと。そしてここに、落ち着く場所を見つけたんです。」(農婦 R・ウェラー[Rosa Wohrer])

メンゲレは家畜小屋を掃除し、ジャガイモを選別していました。彼はここで寝ていました。死の天使は、安全な場所からニュルンベルク裁判の成り行きを見守っていました。もし逮捕されていたら、どんな刑が下っていたでしょう。

「疑問の余地はありません。極刑判決です。」(アメリカのメンゲレ調査官 D・マーベル[David Marvell])

1946年の末、同僚が裁判にかけられました。白衣の殺人者たちです。

<「やけどの研究のために、我々は最も犠牲の少ない方法で実験を行ったのだ。私はそう確信している。」(ヒムラーの主治医 K・ゲープハルト)>

「もしヨーゼフ・メンゲレが逮捕されていたら、ニュルンベルクにおいて、彼は医師の裁判を象徴する存在になっていたでしょう。なぜそうならなかったのか、考えられる理由はこうです。検察側は、メンゲレはすでに死亡したものと確信していたのです。」(アメリカのメンゲレ調査官 D・マーベル[David Marvell])

南米へ

1949年9月、彼はヨーロッパを離れ、南米アルゼンチンへと渡ります。死んだと思わせることに成功した後も、メンゲレは安心できなかったのです。メンゲレは、ヘルムート・グレゴールと名前を変えて、新天地で過去を葬り去ろうとしていました。ブエノスアイレスにあるパレルモホテル。ここが、死亡したと思われていた戦争犯罪人の最初の住まいとなりました。

アルゼンチンは最高の隠れ家でした。この国の独裁者ペロンはナチスを賛美していましたし、ブエノスアイレスには元ナチスのネットワークが築かれていました。

「当時は、人権や道徳などといったものが、何の役割も果たしていなかったことを、まず理解しておかなくてはなりません。当時この国に金を持ってやってきたら、必要な自由を手に入れることができたのです。彼は自由になり、心配することは何もなかったはずです。」(新聞記者 F・フィリップ[Fabian Philip])

自由を買うことはできました。しかし、心の安らぎを買うことはできませんでした。彼は、娯楽へと逃避することで、不安を麻痺させようとします。しかし、昔の記憶はまだ心に残っています。アウシュビッツから8年が経っていました。メンゲレは家族の援助で、薬品会社の共同経営者にまでなります。しかし彼は、常に逮捕に怯えながら暮らしていました。

「ある晩彼の家に行きました。彼の神経はボロボロでした。何か小さな物音がするたびに、不安げにあたりの様子をうかがうのです。印象に残っているのは、彼が自分の過去を決して話さなかったことです。彼は毎朝疲れ切っていました。彼がよく机に突っ伏して眠りこんでしまっていたのを、忘れることができません。」(元メンゲレの会社の共同経営者 H・トゥルッペル[Heinz Truppel])

1956年、ドイツから1通の手紙が、ヘルムート・グレゴールを名乗るメンゲレのもとに届きました。妻のイレーネが離婚を望んでいたのです。メンゲレは西ドイツ大使館へと向かい、離婚の書類に本名でサインをしました。彼は正体を偽ることに疲れていました。そして西ドイツのパスポートも、本名で申請します。手続きはごく普通に進みました。

このパスポート写真は、第二次大戦以後の死の天使の姿を伝える、唯一の公式書類です。電話帳からも、ヘルムート・グレゴールの名前は消え、新たにメンゲレの名前が登録されました。

アウシュビッツから13年後の1958年、アウシュビッツの生き残りの人々を中心にしたグループが、白衣の殺人者の生存を確信し、メンゲレを告発しました。

「彼はドイツから知らせを受けました。気を付けろ、君を探しているぞと。」(元メンゲレの会社の共同経営者 H・トゥルッペル[Heinz Truppel])

モサドの追及の手

1959年、ついに国際逮捕状が出され、イスラエルの秘密情報機関、モサドも独自にメンゲレの捜査を開始します。パスポートの申請書は、彼がアルゼンチンに潜伏していたことを示していました。その後、ナチスの戦犯、アイヒマンが捕えられました。

「彼はすぐに荷物をまとめて出て行きました。どこへと聞くつもりなんでしょう?北のほうです。」「(インタビュアー)パラグアイ?」「ええ。」(元メンゲレの会社の共同経営者 H・トゥルッペル[Heinz Truppel])

ドイツ生まれのパラグアイの独裁者は、メンゲレに国民の資格を与えました。

「私は、少なくとも1年間、南米のモンテビデオ、チリ、パラグアイで彼を探しました。その後ついに元SS隊員から情報を得て、ブラジルで彼の足取りを掴みました。しかし、そのとき突然、私たちは全員他の任務のために呼び戻されたのです。」(モサド(イスラエル秘密情報機関) Z・アハロニ)

モサドは、彼のすぐそばまで迫っていました。しかし結局、メンゲレは逮捕を免れます。彼の新たな逃亡先は、ブラジルのセラ・ネグラでした。逃亡を助けたのが、オーストリア人のウォルフガング・ゲルハルトという人物です。彼はメンゲレのために、隠れ家も用意しました。彼は歌を歌うことで、不安を押し殺そうとしました。

<(声 メンゲレ)「プラーター公園はまた花であふれ シーベリングのぶどうも花開いた 幸せな夢よ 春が再びやって来た」>

しかし、重苦しい過去の記憶は、彼を苦しめ続けました。1968年6月18日の日記。「気分がまるで落ち着かない。不安だ。」

ヨーゼフおじさん


1969年、メンゲレは、サンパウロへと移りました。彼の最後の友人となったのが、オッセルト一家でした。ヨーゼフおじさんは、子供と遊ぶのが好きでした。おじさん、メンゲレは、アウシュビッツの双子たちにも、こう呼ばせていました。

そして再び彼は住所を変えます。これが最後の引っ越しとなりました。彼はウォルフガング・ゲルハルトと名乗りました。彼の保護者だったゲルハルトから、パスポートを譲り受けたのです。ヒトラーの忠実な部下だったメンゲレは、年金を貰うような年齢に達していました。

彼女は、メンゲレの最後の恋人。当時25歳でした。

「彼ほど私を愛してくれた人は、他にいません。彼は私の恋人であり、本当の友人だったんです。私にとって彼は、一番大切な人でした。彼はいつも私に気を遣い、愛情を注いでくれました。」(E・オリベーラ[Elza Olivera])

死の天使の捜索はまだ続いていましたが、そんななかメンゲレはサンパウロ近くの海岸で週末を楽しんでいました。1979年2月7日。メンゲレは海水浴の最中に、発作で死亡しました。

1985年、遺骨が掘り起こされ、メンゲレのものと確認されました。彼は逃げ延び、裁判による処罰を受けませんでした。しかし彼は、死ぬまで逮捕に怯えるという罰を受けたのです。≪終≫ほかの読み物を読む

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