ハーケンクロイツ ~ドイツ第三帝国の要人たち~

コンテンツ

エルヴィン・ロンメル

ロンメル 国民的ヒーロー 砂漠の狐

1944年10月14日、リムジンが道を急いでいました。後部座席には死体。戦争の英雄です。

“総統からの電報”

弔電はすでに準備され、弔いの花輪もありました。かつて彼に元帥の地位を与えた人物。国民の英雄。悲劇の人物です。

〔ヒットラーと将軍たち ロンメル 国民的ヒーロー 砂漠の狐〕

上層部からの指示による自殺。死の苦しみを嘲笑する葬礼。遺族以外は、事実を知りませんでした。

「麻痺したようになった。ルントシュテットが父の死を告げ、その場を去った。幽霊のようだった。総統の命令により我々は弔問に訪れた。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

<1944年10月18日 ルントシュテット元帥>「名誉の戦死を遂げたロンメル元帥に。彼はノルマンディーの戦場から帰還途中――自動車事故により重傷を負った。気絶したときのように、意識がもうろうとした。すぐに終わってくれと願った。」

ルントシュテット元帥が、総統からの花輪を捧げます。

「下劣な行為が、国葬でなされました。体制全体が偽りでした。恐ろしいことです。」修道女 イーザ・フェルメーレン

英雄のヒットラーへの忠誠

ドブルクの勝者ロンメルを、この体制が伝説にしました。プロパガンダが作った人物です。権力との、命取りの協定。1942年9月、彼は経歴の頂点でした。対ソ連戦の不振で、政権は勝者が必要でした。ヒットラーのお気に入りの将軍、ゲッベルスの演出は――“ドイツ国民だけでなく、世界中が行為を持つ人物”。英雄が誕生しました。勇敢な軍人、アフリカの英雄。政権の道具でした。

<1942年10月 週刊ニュース映画>「ロンメル元帥は、総統から元帥杖を手渡されます。」

「ヒットラーの前に立つ姿は、たくましく、軍人らしく――私は彼を見て、最高の人物だと感じた。総統に勝利を捧げていました。」ドイツ国防軍兵士 ルードヴィヒ・バウマン

ヒットラーは彼の英雄でした。勲章は、寵愛や、業績への動機を表します。騎士鉄十字章です。最高の勲章は既にありました。第一次世界大戦での戦功による、ブール・ル・メリットです。戦後には歩兵学校の教官を務めました。義務、服従、祖国。政治に関わらない軍人の――ヴェルサイユ条約からの解放を願う気風です。

1933年3月、ポツダムである光景が演出されました。新首相ヒットラーの宣誓が行われました。ロンメルは感動しました。“彼の偉大さと力のためなら、我々はいつでも戦える。”

ヒットラーはロンメルに注目しました。ロンメルの著書「歩兵攻撃」に――ヒットラーは感銘を受けていました。ロンメルは出世します。総統警護大隊の指揮官として、彼は勝利の場にいました。ズデーデン地方についてこう書いています。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“彼はドイツ民族を太陽へと導く存在だ。彼には人を引きつける力がある。”

一方、ポーランドでは、虐殺が始まりました。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“晩の戦況会議への出席と、時には発言が許されている。彼は実に力に満ちている。私は何度も、彼と同席した。この信頼は、自分の序列より喜ばしい。総統は積極的な様子だ。会議は1日に2回。昨日は彼の隣の席だ。”

数週間後、ヒットラーは古い仲間の祝賀会に参加。会場には爆弾が仕掛けられました。

<1939年11月8日 声 ヒットラー>「私は短い時間で諸君のもとにやって来た。再び共に一日を過ごすために。我々と、我々の行動。ドイツ国民に重要な日のために。」

彼は早く到着しました。神の摂理だと宣伝されました。“全ての者は神に感謝せよ。” ロンメルも同意見でした。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“攻撃は彼の意思を強めた。目撃者になれて幸いだ。暗殺の成功を、誰も考えないだろう。” 彼は昇進を続けました。

第七機甲師団

「ヒットラーが父に、希望があるか尋ねた。父は機甲師団を希望した。騎兵隊の将軍たちであれば、歩兵部隊しか与えないだろう。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

ヒットラーは聞き入れ、第七機甲師団を与えました。彼は近代的な武器で伝説を作りました。彼の部隊はフランスを横断しました。彼は単独で、戦車で戦線を越えることもありました。兵士の個人的な撮影です。

「ロンメルが先陣を切って、兵士を突撃させた。我々若者にとって、指揮官の理想像だった。軍隊の絵本そのままの存在だ。」ドイツ国防軍兵士 マインハルト・グランツ

軍隊の絵本でも、戦いと死がありました。彼の「幽霊師団」は、予想外の場所に出没しました。

「彼は文句なしにカリスマ指揮官だった。部下を心から感動させることができた。戦術家としても、発想が豊かだった。軍事上の功績は――一連の出来事の歴史的な流れから切り離せない。誰のための、どんな戦争だったか。犯罪的なナチ体制のもと、行われた。」ドイツ国防軍少尉 H・アインズィーデル伯爵

ロンメルの師団は、多くの捕虜と死者を作りました。アフリカは不思議な状態でした。ムッソリーニは、ローマ帝国の再現を夢見ました。手ひどい失敗です。ムッソリーニは支援を求めました。ヒットラーは強力な援護を約束しました。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“まず軍の総司令官から新たな任務を受け――総統に会った。緊急事態で、必要なものだけを運んだ。非常に大規模で、重要な任務だ。”

1941年初め、ドイツ軍がトリポリに上陸。やがて当時の雰囲気に合う師団の歌が生まれました。“♪トミーのスープに塩を効かせろ もう一度太鼓の音でかき回せ ロンメルと共に前進だ”

はったりで始まりました。ロンメルは、少ない台数の戦車をパレードで何周もさせました。イギリスのスパイは、兵力を過大評価しました。

「ロンメルの評価は高かった。彼の話題ばかりだ。イタリア軍の指導者は戦意を喪失していたから、イギリス軍を攻撃できるのはロンメルだけだ。」イタリア軍少尉 レオニダ・ファーツィ

ただちにアフリカ軍団は始動。再び、はったりで戦力を大きく見せました。土ぼこりを巻き上げて移動します。イギリス空軍は大軍が東進中と報告しました。

<1943年 エルヴィン・ロンメル>「我々の戦力は下回ったが、1941年4月6日、我々はミチリ近郊で攻撃を開始。一部の軍勢はデルナに向かった。砂漠の道を制圧し、敵の退路を塞ぐためである。」

砂漠での戦い

「砂漠の狐」の本領発揮。砂漠は機甲師団に最適の戦場でした。2か月後にエジプト国境に到着。司令部の将軍を驚かせます。物資の補給が難しく、彼の指揮は批判されました。

「ある師団の総司令官が――6~800キロメートルほどに隊列を広げる。目の前の地域は――5キロメートルくらい、明らかに小さいものだ。それが彼のやり方だ。多くの兵士は賞賛したが、私はそうは思わない。」ドイツ国防軍中尉 E・フォン・クライスト

ベルリンで批判されました。参謀総長ハルダーのメモ。“処置なしだ。我々は彼を押しとどめねばならない。” トブルクのイギリス軍の役目でした。ロンメルの要塞攻撃は失敗します。出世欲にかられて兵士を使い捨てたと言う者も。本人の見解は違います。

<エルヴィン・ロンメル>「トブルクでの攻撃はあと少しのところで――残念ながら成功せず、要塞は陥落しなかった。半年にわたる要塞の包囲を止めるのは、辛い判断だった。私はドイツ兵を犠牲にしていない。」

「勝利のためだけに、兵士を駆り立てはしない。兵士の損失にはひたすら耐えていた。最大の目的は出世だったと思う。」ドイツ軍国防兵士 ルートヴィヒ・バウマン

「ロンメルは忘れなかった。失われた兵士の命が――家族の悲しみや、苦しみであると。彼は損失をできる限り減らすよう努めた。彼の原則は、地ではなく汗を流せ。」ドイツ軍国防兵士 マインハルト・グランツ

「憎悪のない戦争」の伝説。

「彼らは捕虜に対し、できる限りのことをした。だから我々は、彼らに最大限の敬意を払っている。彼らの紳士的な行動は、ドイツの名誉だ。当時は不名誉なことが多く行われた。しかしアフリカ軍団とロンメルは違う。」イギリス軍少尉 S・ブラッドショー

全員に共通する敵が、砂漠でした。砂嵐の前では、誰もが同じだと言います。

<エルヴィン・ロンメル>「暑いアフリカの地で――苦労して飛行し、砂嵐に悩まされた。水も少なく、食事も非常に乏しかった。しかしドイツ兵は、困難な日々を耐え抜いた。」

プロパガンダでは、牧歌的な映像です。オアシスでの水浴び、戦車の上で目玉焼き。「リリー・マルレーン」は、敵味方関係なく聞きました。“♪兵舎の前 大きな扉の前の 街灯のそばにいるのか…”

厳しい冬の寒さに、ソ連戦線は失敗。ロンメルが利用されました。

<エルヴィン・ロンメル>「我々の最初の攻撃は1月21日に行われ――敵に激しい一撃を加えた。反撃の余裕もなく、敵は大きな損害を受けた。」

アフリカ軍団は楽観に基づき、東進を続けました。エル・ガザラまでの地雷原から南のビル・ハキム近郊まで、そして最大にして最後の戦功、トブルク要塞の征服です。スポーツ中継のような戦争。

<1942年7月21日 ラジオ放送>「5時51分、攻撃は少しずつ続いています。敵の高射砲のなか、上空では貴重な光景、トブルク要塞で煙が立ちのぼります。破壊と死がもたらされ――キノコ雲が見えます。爆撃が命中しました。」

トブルク陥落。役目を理解したロンメルに――数時間後にはインタビューが行われました。

<1942年7月21日 ラジオ放送>「本日、トブルク要塞占領の栄誉がもたらされた。ドイツとイタリアの軍人は、超人的な働きをした。強固な要塞や地雷原などを克服し――見事な活躍を見せた。兵士が倒れても勝利は保証される。」

威勢のいい言葉は、ゲッベルスが期待したものでした。

「ロンメルは戦場の英雄だった。ドイツに幻想を与え続けた人物でもある。勝利が可能だという幻想。そしてプロパガンダに利用された。」ドイツ国防軍少尉 H・アインズィーデル伯爵

24時間でトブルクを奪取しました。戦略としてよりも、心理学的に重要な勝利。イギリス兵の捕虜は3万3千人です。ヒットラーの趣味に合う、猪突猛進です。

元帥昇格

<1942年7月22日 ラジオ放送>「総統は以下の電報を司令官に送りました。“ロンメル元帥閣下、貴殿の指揮と、勝敗を決定する戦力投入に感謝し――本日をもって元帥に昇進する。アドルフ・ヒットラー”」

「その知らせを――元帥に昇進するという知らせを――ラジオで聞き、その知らせはすぐに広まった。彼は子供のように喜んだ。」ロンメルの通訳 J・W・アルブムスター

「ワインの栓を開けたりはしなかった。祝宴も、知ってはいたがやらなかった。まだ戦争は続き、父が死ぬ危険は常にあった。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

エジプトまでの道が開かれたようでしたが――アレクサンドリアまでは150キロメートルもあります。

「偉大な勝者としてロンメルは――カイロ、エル・アラメインに進軍を続けました。私たちはパレスチナが近いと思いました。そしてロンメルは成功すると思いました。成功を重ねていましたから。」ドイツ系ユダヤ人 インゲ・ドイチュクロン

ヴィア・バルビアを東進します。この道は共同作業の成果です。イタリア軍が建設、イギリス軍が完成、ドイツ軍が利用。名称は戦況で変わります。<“ROMMEL WEC(ロンメルの道)”>

エル・アラメインで、敵が待ち構えていました。イギリス軍がドイツの進軍を食い止める、絶好の場所でした。地雷を備えた要塞を築きます。防御線の幅は数キロメートル、長さ50キロメートルです。地中海から砂漠を抜け、カタラ低地にいたります。包囲攻撃は不可能です。カイロやスエズ運河を目指すと、ここを通らねばなりません。決戦の舞台です。イギリス軍総司令官オーキンレックは――ロンメルの神話とも戦わねばなりませんでした。ある通達です。“彼は超人ではない。超自然的な力を信じるのは、望ましいことではない。追伸 私はロンメルに嫉妬していない。”

「誰もが砂漠の狐を話題にし、司令部は怖がっていた。彼らは故意に低く評価し、無敵ではないと言った。だが誰も信じなかった。」イギリス軍兵士 ダグラス・ウォーラー

エジプト人にも、ロンメルは英雄でした。イギリスからの解放者として待たれました。ロンメル支持のデモが行われました。

「ロンメル元帥の突撃にエジプト人は――ドイツ軍は解放者だと考えました。人々はロンメル万歳を叫びました。敵の敵は、我々の味方です。」エジプト人活動家の息子 アブドゥ・モバシャー

抵抗の中心となったのは、「自由将校団」です。のちのエジプト大統領、サダトの回想。“ドイツ参謀本部と連絡を取り、常に意見は一致していた。” その夢は戦闘の騒音に消え、ドイツ軍は止まりました。ベルリンでの式典、ゲッベルスのメモです。“ロンメルのように国民から賞賛される人物が必要だ。”

「私たちは彼を認めません。ヒットラーのために働けば、その人物も犯罪者だからです。」ドイツ系ユダヤ人 インゲ・ドイチュクロン

「歴史の事実に反した。客観的、主観的に関係なく、これはロンメルたちの世代の悲劇だ。体制のプロパガンダの犠牲になり――体制の非人道的な目標に、早い段階で気づかなかった。」ドイツ国防軍兵士 マインハルト・グランツ

エル・アラメインの決戦

彼はプロパガンダを自覚しました。背後の人物には気づいていません。エル・アラメインで決戦が始まります。

チャーチルが、新たな敵モンゴメリーを連れてきました。前任者の失敗から学び――規模では大きく優勢に立ちました。アフリカ軍団全滅の危機。彼の考えうる打開策は、退却のみです。しかしヒットラーは徹底抗戦を主張。

「最後の一人まで戦えというヒットラーの対応、これは全滅を意味していた。ロンメルにとっては悲劇的結末だ。ヒットラーとの決裂。ヒットラーが兵士にまったく同情しないと気づいたから。」ロンメルの書記 ロルフ・ムニンガー

ロンメルは反抗しました。ヒットラーへの信頼は揺らぎました。意気消沈と滅亡の幻影。妻への別れの手紙。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“君への愛情、共に過ごした26年への感謝。そしてマンフレートのことも。君たちへの加護を、神に祈った。夜は眠らずに、徹底的に考えている。哀れな兵士を救える打開策を。1万の命を救う方法。”

「ロンメルが今まで以上に評価される日が来る。エル・アラメインからの退却が、進撃以上に評価される日だ。彼は全員をチュニジアまで撤退させたのだから。」ロンメルの通訳 J・W・アルブムスター

3,000キロメートルの道のり。アメリカとイギリスから挟み撃ちに遭いながら。部下を救う、最後の試みです。

「父は独断でベルリンに行き――アフリカ軍団の撤退をヒットラーに提案した。そこでヒットラーと父の間に距離が生まれた。父は部屋から追い出された。しかし再び呼び戻された。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

敗北と解任

1943年3月、ロンメルはアフリカを離れました。英雄に敗北は許されず、解任されました。5月にアフリカ軍団は降伏。ロンメルと、ゲッベルスの子供たちの映像。失業中の元帥です。ぎこちない感じがします。

「私たちは座って会話をした。そして彼は私にこう言った。彼が手に入れられる情報は――新聞やラジオが伝えるものだけだと言う。つまり自分が解任されたと言いたかったのだろう。」ロンメルの書記 ロルフ・ムニンガー

内面では塞ぎこんでいました。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“負けたも同然だ。残念だが、上層部の狂信は狂気にも等しい。”

1942年以降、一家はウルム近郊に暮らしました。1943年秋の来客は――旧友のシュトゥットガルト市長、シュトレーリンでした。

「ポーランドでの大量虐殺を聞き――ユダヤ人が毒ガスで殺されているとも聞いた。そんな話だった。父は理解できず心を閉ざした。国家が犯罪者という状況からどうやって脱却するか。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

連合軍のフランス上陸阻止命令

ヒットラーの排除は、彼には考えられません。連合軍のフランス上陸阻止をヒットラーから任されました。彼は任務にあたりましたが…。

「正気を失っていた。以前の彼とは全く違っていた。仕事が怠慢ということは決してない。しかしロンメルは、全くの別人になってしまった。」ロンメルの書記 ロルフ・ムニンガー

敗北への暗い予感。ラ・ロシュ・ギュイヨンの本部で、作戦が考えられました。二正面作戦を続けるべきでしょうか?ロンメルは疑問に思います。何度もドーバー海峡に向かいました。熱心に防衛線を設置します。現実逃避に見えるほどでした。国民は精力的な姿を期待しました。

<1944年3月 週刊ニュース映画>「作戦会議中のロンメル元帥です。ドイツ国防軍は十分に敵の上陸に備えています。」

ロンメルの本部は、反逆者の集まる場所でした。元帥による西部戦線の講和が模索されていました。そして、ヒットラー暗殺も。ロンメルは知っていたでしょうか。第一は侵攻への備えですが、彼は考えが違いました。

<妻に宛てたロンメルの手紙>“私は確信している。あと14日時間があれば十分だ。”

「海峡の向こう側で、ロンメルの名は有効でした。驚いた。もう結構だと思ったよ。」イギリス軍兵士 ダグラス・ウォーラー

Dデーを前に、楽観的でした。

<1944年3月 週間ニュース映画>「(ロンメル:)我が軍の意気込みと、支給された新たな武器で――来るべき戦闘に冷静に備えられる。その結果は、一秒たりとも気にする必要はない。当然成功し、イギリス人は再び試みはしないだろう。」

「人々はスクリーンを見て――私と同様に、奇妙に思っただろう。父の姿と発言だと気づかなかった。記憶の中の父と話し方が違うのに驚いた。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

Dデイ

予報では、6月6日は悪天候でした。妻の誕生日のため、ロンメルは帰宅します。

「シュバイデル将軍から6月6日朝、電話があり――海岸がかなり不穏な状態だと告げた。機関銃の音なども聞こえるが、詳細は分からない。侵略かもしれない。父は直ちに向かうべきかと尋ね――待機するように言われた。また後で連絡すると言う。父は荷物を詰め込んだ。一時間後、再び電話があり、上陸だと告げられた。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

Dデイです。ロンメルが誕生日を祝い、ヒットラーが眠るなか――大規模な侵攻が始まりました。彼は再び、重要なときに前線にいませんでした。予想に反し、連合軍はノルマンディーから上陸。ドイツ軍は海岸線を守りきれませんでした。連合軍は橋頭堡を築き、決着がつきました。北アフリカでの敵と再会です。モンゴメリーとアイゼンハウアーです。ノルマンディーに向かった戦車は、空爆の標的でした。戦況は絶望的になる一方でした。ドイツ兵は勝つ見込みのない戦いを続け、1日に何千人が捕虜となり、数多くの兵士、少年兵までもが犠牲となるなか――ロンメルたちは政治的な決断をしました。

「彼は長い間、可能だと考えた。こう考えていた。ヒットラーに戦況をありのまま伝えれば――結論が導き出されると。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

ヒットラーの譲歩は幻想で、ロンメルは部屋を出されました。シュバイデルの交渉に、ロンメルはためらいました。

「暗殺計画の話が出たかが問題になる。父は死の直前、ゲシュタポが家を囲んでいたころ――死んだヒットラーのほうが性質(たち)が悪いと言っていた。必ず反対しただろう。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

専制の時代の中で、正義の幻想でした。

「彼は準備していた。ヒットラー暗殺計画への参加ではない。捕まえるべきとは考えていた。彼が備えていたのは――戦後に何らかの人物が必要であれば――ヒンデンブルクと同じ役割を担うことだ。」副官 ヴィンリヒ・ベーア

自分の手で終戦とするには時間がありません。彼は西部で支持を広げていきました。

「彼は指揮官たちと考えました。どうすれば西部戦線を停戦に持ち込むことができるか。ドイツ兵を国境まで戻すために。」ロンメルの書記 ロルフ・ムニンガー

負傷

7月17日、前線から本部へ戻る途中、オープンカーに乗っていました。のちに副官が、その場所については――モンゴメリー近郊と推定しました。

「私は後部座席にいた。18時ころ、車はリヴァロに到着した。そのころ8機の戦闘機が上空を旋回しているのを見た。偵察兵が、2機が道路沿いに向かってくると告げた。車をできる限り早く走らせるよう命じた。300メートルほど離れた公園の小道に向かった。しかし公園の小道に到着寸前、敵軍の飛行機が――500メートルまで近づき攻撃を開始した。」ヘルムート・ラング

「運転していた兵士の左腕は肩から吹き飛んだ。副官は骨盤を損傷した。2センチメートルの手榴弾が爆発したからだ。父は弾の破片で車外に飛ばされた。人々は驚き、父の生存を喜んだ。母は、父は負傷していると言った。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

ヒトラー暗殺への関与

3日後、ヒットラーも暗殺未遂で負傷。ロンメルの友人でヒットラーの副官、シュムントも重傷でした。ロンメルは彼を通じてヒットラーに近づきました。暗殺未遂の10週間後、シュムントは急死。ボルマンが関わったのでしょうか?暗殺未遂は絶好の粛清の機会でした。ロンメルも巻き込まれます。9月末のボルマンの報告書。“ロンメルは知っていた。暗殺後の政権に協力を申し出ていた。” ロンメルの運命を決めました。ゲッベルスも書きました。“ロンメルは計画に関与しないが、知っていたと思われる。私にとって、これは最大の失望だ。” もはやヒットラーのお気に入りではありません。ロンメルをねたむ上層部が「名誉法廷」を考えます。人民法廷の前段階の軍事法廷です。

「名誉法廷は全くの茶番だ。まさに悲劇だ。ドイツの将軍が――周囲からの圧力で処分されるとは。ルントシュテット元帥も――フランスの司令部から離れる際――ヒットラーにはうんざりだと言った。その彼が名誉法廷の裁判長だ。どれだけ圧力がすごいものか――ヒットラーが軍の土台を破壊したことがわかる。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

自宅にいたロンメルは罠にはめられました。

「ゲシュタポが家の周りにいた昼夜を問わず、父は、自分は射殺されるかもしれないと言った。父は家の警備担当の衛兵を呼んだ。日々、巻き込まれているのが分かった。彼は、今夜は生きていないとも言った。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

1944年10月14日、午前10時のことでした。ロンメルは息子と散歩。ある列車がウルムに近づきました。貨物には弔いの花輪。国葬の準備は整っています。弔電も作成されました。“ご夫君の死を悼み…” 12時ころ、黒のリムジンが――エルヴィン・ロンメル邸に到着しました。

「あいさつのあと、彼らは元帥と内密に話がしたいと言いました。やがてブルクドルフ将軍が来て――マイゼル将軍は外に出ました。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル

自殺

ロンメルは暗殺事件の共犯者とされました。服毒自殺か、家族に類が及ぶ人民法廷の選択を迫られます。ロンメルは家族のため自殺を選びました。“心からのお悔やみを――アドルフ・ヒットラー” 政権は英雄とした男に自殺を命じました。演出された英雄の死でロンメルは演じません。

<1944年10月18日 ルントシュテット元帥>「親愛なるロンメル。総統と司令部の命令により――感謝と別れの挨拶に訪れた。遺されたご家族に我々は心から同情申し上げる。英雄的な死は、勝利まで戦えと我々に思い起こさせる。」

「私は人間として彼の矛盾を考える。立派に振舞うことが非常に難しい時代だった。私は当時の人々より立派だろうか?同じ条件で、自分はどうするか考えねばならない。」ロンメルの息子 マンフレート・ロンメル≪終≫

広告

ページ上部へ