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ショパンの生涯〜第4章〜

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第4章 番外編〜デルフィーヌ・ポトツカ夫人の謎〜

絶世の美人、デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人
Delfine Potocka

ショパンの最後の病床にショパンの頼みで真っ先に駆けつけたといわれるポトツカ夫人。ワルシャワ・ショパン協会に 残るショパンの最後の病床の絵の中で、ピアノを弾きながら歌っている女性だが、そこに居合わせた と自ら主張する人の数はあまりにも多く、その場に関する後の証言も信憑性に欠けるようである。 ショパンの手を握るのが姉ルトヴィカ、顔を伏せて泣き崩れているのがサンドの娘ソランジュと言わ れているようだが、はっきりしたことは分かっていないという。ポトツカ夫人が賛美歌を歌った事実を 疑問視する人もいる。

ショパンとポトツカ夫人がワルシャワ時代から実に20年間、交友関係にあったのは明らかで、ワルシャワ時代の 代表作「ピアノ協奏曲第2番」とパリ時代の晩年の作品「小犬のワルツ」はともに彼女に献呈されている。 しかしそれ以上に重要なのは、ショパン自身が最後の病床に彼女を呼んだこと、そして貴族的で 冷たい性格だったといわれる彼女がショパンの変わり果てた姿を見て、取り乱していたように見えたという後の 証言に不明な点が多いということだ。彼らの目から見れば、普通の友人以上の関係に見えた のだろうか。つまり、ポトツカ 夫人は、ジョルジュ・サンドと並ぶ、彼の生涯の恋人だったか否かという問題なのだ。

ポトツカ夫人はポーランド貴族の出身で、ショパンが恋した3人の女性、グラドコフスカ、ヴォジンスカ、 サンドと比べても抜群の美人だったらしく、美しい歌声にも恵まれ歌手としても活躍していた女性 だったが、一切は謎に包まれた不思議な女性だったそうだ。 パリ時代にはショパンは彼女にときどき会い、会話や食事を楽しんだ記録が若干残っているようで、 これは紛れもない事実のようである。そこに友達としての関係を超えた何かがあったことは容易に 想像できるが、それを実証する材料には乏しいようで、ショパンを研究する人の大きな研究課題だった そうである。

数十年前、それを「証明」するショパンの手紙が「発見」され、一時その真偽を巡って激しい論争が 起こったという。筆跡はショパンのものと酷似していて、地元ポーランドの筆跡鑑定家は紛れもない 自筆だと証言したようだが、その内容が「偽造説」を証明しているようだ。ポトツカ夫人宛てに 書かれたその手紙には、とてもショパンが書いたものとは思えない大胆な性描写が露骨になされて いるほか、彼の音楽の説明的文章や、同時代の作曲家への痛烈な批判が書かれており、彼の性格や 信条から考えてもあり得ないような内容のようである。それで今日では偽造説を信じる人の方が 圧倒的に多い。

しかし、その手紙が偽造されたものであったとしても、それはショパンとポトツカ夫人の不思議な関係 を否定する材料にはならない。ポトツカ夫人がショパンの伝記の中で占める割合が極端に小さいのは 客観的な事実がほとんどわかっていないからで、ショパンにとって一番大切な 人はジョルジュ・サンドではなく、ポトツカ夫人だった可能性は万にひとつはあると僕は信じたい。 しかし、今日2人の関係を証明する材料には乏しく、想像の域を出ないのが何ともむず痒い思いだ。 きっと、ポトツカ夫人とショパンの関係は、この地球上では2人にしかわからない永遠の謎のまま なのだろう。ショパンが誰にも語らなかった真実の愛、彼のピアノの詩人としての美しい作品の数々は 絶世の美人だった彼女に捧げられた愛の歌だったのかもしれない。

〜終〜

参考文献
資料1:「ものがたりショパンコンクール」(イェージー・ヴァルドルフ著,足達和子訳)p.59
「第二次世界大戦後になってのこと、デルフィナとフレデリックは意図的にエロチックなスキャンダルに突き落とされた。 ショパンがポトツカに書いたとされた、まるで下男が女中に付け文したような言葉遣いの手紙が発表されたのである。 これらの手紙が最終的に贋作と認められるまでには、30年もの歳月に、学問のいくつかの分野での裏付けと 犯罪捜査上の偽造の証拠が必要だった。」

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