「戸口の中で」





1人の男がドイツにやって来る。
長い間その男はドイツを離れていた。ずいぶん永い間。或いは永過ぎたのかもしれない.
1人の男がドイツにやって来る。
我が家に帰っては来るものの、そこは最早我が家ではないので、やっぱり我が家に帰らない。
その時、彼の我が家は戸口のそと。彼のドイツは野天の、雨の降る、夜更けの往来だ。
コレが彼のドイツだ。

                                         (戸口の外で・序文抜粋)




















スポットライトが舞台に立つ男を照らし出した。
薄暗い客席で俺は握ったままでいたチケットの半券に目を落とす。
-Draussen vor der tuer(W.Brecht)-
WWUなど、今頃は冷たい墓の下で寝ている奴らしか知らない。その頃の古い、芝居だ。
昼夜問わず飲み続けるアルコールが意識を曖昧なものとさせている。
今、俺が見ているものは観客の殆ど居ない、古ぼけた劇場の恐ろしく下手糞な三文劇だ。
ともかく好きで見に来たわけではない。こんな安っぽい芝居を見るぐらいなら酒を買って
飲んだほうがまだマシだ。だが、舞台に立つ男から目が離せない。
その男の銀髪はブラシのように不揃いで、古い軍用コートを羽織り、今まさにエルベ河に
身を躍らせようとしていた。
一瞬、役者が俺の方を向いた。ただの偶然かもしれないが、その男は俺の目を見ていた。
否…間違いなく男は俺に視線を投げたのだ。役者の目は俺に言い放つ。
『この舞台に立っている男はおまえ自身なのだ』と。



「貴方は、Blockenmannの息子ではない。Beckmann自身なのだろう。」

親衛隊の最後の一人がそう言って屋敷を出て行った。
奴が出て行ったドアに向かって空き瓶を投げ付けた。
ガラスは思ったより低い音で割れた。
破片とわずかに残っていた酒が飛び散る。
これで、この屋敷の中には俺以外誰も居なくなった。
俺は取り残されてしまった。まるで、醜悪なオブジェだ。
戦う以外に生きていく術を知らない俺には
この国は巨大な墓場に他ならない。
生きながらに、屍として、澱が溜まるかのように…



戦争を生き残りながら、生きることに絶望した男はエルベ河に身を委ねる。
しかし、エルベの化身は彼の死を拒絶する。
年も若く人生の僅かばかりを齧ったに過ぎない男の生命など欲しくも無い、と。
生き抜いて、運命に踏み潰されて、それでも尚、生き続けろと。
手も足も利かなくなって、心臓が這いつくようにしか生きられなくなった時に考えてやろうと
言いながら、河の女神は男を岸辺に送り返す。
女優は舞台の上ではまさしく「神」そのものであった。高慢で、無慈悲な。



人の熱が消えた屋敷で俺の歯止めとなるものは何も無い。
誰も俺の事を想うことも無い。この屋敷は俺の棺だ。
くだらない、超人でありながら人間でしかない俺は
生きながら死せる亡者に過ぎない。
喉が飢えを訴える。
立ち上がり、貯蔵庫に向かう。まだ酒は残っている。
貯蔵庫の棚の手前は何も無い。俺が飲み干してきた時間の分だけ
瓶が減り、俺の魂も擦り切れていく。
1本を手に取り、居間に戻るまでももどかしく口に入れる。
埃とともに黄金色の液体が俺を満たしていく。
ふと、屋敷を出て行った奴の言葉を思い出す。



死ぬ事にさえ拒絶された男は町を彷徨う。だが、帰るべき家には男を迎え入れるはずの妻は
既に別の男の腕の中に眠っている。かつての上官は彼の心の闇を一笑し、門を閉ざす。
鉛の身体を引き摺り、懐かしい父母の家に迎うが、既に両親は息絶えて久しいと聞く。
舞台の上の男は殺されていく。善良な人々が、その男の心を人々が、殺していく。
擦り切れたコートの男は舞台の上でただ打ちのめされていくしかない。
哀れな男は「死」への扉から締め出され「生」の扉も開かれることが無い。
ステージの上には、全てを失った、男が、一人。



書斎にはここ何年かはまったく入ってなかった。
戸を開けた瞬間、埃とカビと、僅かばかり昔の匂いがした。
瓶を机に置き、本を探す。確か、奴はボルヒェルトを読む男だった。
そうだ、何度となく俺に忠告を続けてきた男だった。
ブロッケン一族の為に尽くしてきた男。それが疎ましかった。
と、本が見つかった。棚の随分隅に追いやられるように置かれていた。
中を開く。詩と散文と短編の小説がある。
ページをめくり、拾い読みしていく中に、1篇の戯曲もあった。
「戸口の外で」
そこにベックマンの名があった。俺は目で追う。



男は、ベックマンは叫ぶ。彼の声は、俺に向けられた叫びだ。
「なぜ?俺は生きている?俺には死ぬ権利さえないの?」
「どうやって生きろというのだ!一体この世で、俺は何処に行ったらいいんだ!」
真っ直ぐ、俺に向けられた視線に心が見透かされてしまう。
ステージの上から、客席から、全てが俺を見てるかのような錯覚に囚われる。



違う、俺はベックマンではない!!
幕はまだ下りていない。だが、これ以上は耐えられない。この舞台に幕を引くのはこの俺だ。
吐きそうになるのを抑え、劇場を飛び出した。あぁ、あれは俺なのだ。
俺を必要としない時代は20年もの間、この瞬間を待っていたに違いない。
町の喧騒は、エルベの顔の女神が声高に笑い続けるかのように俺の耳に鳴り響く。



吐く。アルコールのせいではない。
半世紀も昔の亡霊が俺をあざ笑う。また、吐く。
コレは真実なのが、虚実なのか…本の中には、俺の姿があった。
時代に取り残された男。全てを奪われ、全てを失った男。
そして、『死』さえも奪われた、何も無い男。



どう歩いていたのか解らなかった。町に出てから手持ちの金が無くなるまで飲み続けた。
喉の渇きで目が覚めれば酒を飲み、意識がなくなるまで喉に流し込む。
見ることさえも嫌悪される存在でしかない今の俺に誰も救いの手を伸ばすことは無いだろう。
今の俺は誰からも必要とされず、一人、ふらつきながら屋敷に帰る。
ベックマン同様に、この俺の戸口の外には誰もいない。










いや、誰もいないハズの居間に一人の少年が、いた。

俺を、「戸口の中で」待っている少年…







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