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届いた手紙からは乾いた風の、懐かしい匂いがした。 待ち合わせの広場に向かった。 ヤツは、いつものように口の端を少し上げた、意地の悪そうな笑顔を顔一杯に広げていた。 「迷子にならないでよく来れたな。それにしても相変わらず生っ白い顔してんなぁ」 差し出された右手に応える。褐色の肌。変わらない大きな手だ。
「真っ黒に肌を焼いて喜ぶのは子供だけだ」
「ははぁ、じゃあジェロニモにそのまんま伝えといてやるよ」 自分の色黒については棚上げだ。
「ところで急にスペインに来るなんて何があったのか?」
ちょっとだけ真顔になりながら聞いてくる。 え?何かあったかだって?コイツとぼけているのか? 「だって、お前からいきなりハガキなんかきたら、何事かと思うだろ!?」 そう言いながら左手でポケットに入れたままの封筒を取り出す。 ドイツを出てから入れっぱなしにしていた為、四隅が折れ曲がっていた。 「ん?何だ、俺だって文字ぐらい書けるんだから手紙ぐらいおかしい事ないだろう」 そう言われれば、確かに当たり前の事だ。
俺だって本を読むし、この男が手紙を書いたってなんらおかしな事はない。
事実、単に俺が知らなかっただけで、実はかなり筆まめだっていうのは後で知るんだが
道理で住所不明な割にラーメンマンが何でコイツの近況なんかを知ってるのか分かった。 「それよりメシだ。シエスタになっちまったら何にも喰えなくなる、何が喰いたい?」 矢継ぎ早に話し掛けながらも繋がれた右手は離されないまま歩き出す。
食事中に午後の予定は何も決めていないと言うと、気を利かせたつもりか
近くの美術館に連れて来られた。
「やっぱり俺には、絵の良し悪しはよく分からん」
そう言いながらも一つ一つの絵を眺めていく。 俺だってこいつが買い被っている程は芸術なんてモノは解かりはしない。 多分、屋敷に来たときの印象が残ってたんだろう。生憎と俺も絵に興味がなかった。 だが本当のことをここで言って、折角の好意を無下にするつもりもなかった。 飾られている絵は様々だった。それぞれを丁寧に見てたら一日掛かるに違いないだろう。 表面を撫ぞる程度に見ていく。何点かは気に入った絵もあったが単に綺麗だとしか思わない。 誘っておきながらもう飽きたのか、俺の少し先を進んでいたバッファローマンが声をかけた。 「おいブロッケン、来てみろ」 ソレは圧倒的な存在感で俺たちを見下ろしていた。 キャンバスの前で、俺は被っていた帽子を脱ぎ、胸に抱きしめるように立ち尽くした。
「…ゲルニカ」
「本物を見るのは初めてだろう」 バッファローマンは僅かに俺の後ろに立ち、同じように見上げる。 巨大なキャンバスには色彩はない 女は動かない子供を抱き天を仰ぐ 横たわる男の上を青黒い馬が走り抜ける 生きている者に与えられる砲弾の光 うつろな目は宙を彷徨い、逝く者達は自ら挽歌を謳う 開いた口から溢れるのは悲鳴か、神への祈りか 闇の黒と死の白で描かれた世界から聞こえてくるのは、呪いの歌か 体温が下がる。身体から力が抜けていく。…立っていられない。 俺が崩れそうになるのを、後ろからバッファローマンが支えてくれた。 「大丈夫か?」 覗き込むように上から俺の顔を覗き込んでくる。 「あ、あぁ。悪い、驚かせちまって。もう平気だ」
そう言ってはみたものの足は俺の意思とは関係なく、立ち続けることを拒否した。
それに気付いてくれたのだろう、バッファローマンは俺の背中に手を回すと、おぼつかない
足取りの俺を美術館の中庭に連れ出してくれた。
中天を過ぎた日差しの中を歩きながらも、俺の内部は冷え切っていた。 小刻みに震える俺の手の中の徽章は氷よりも冷たい。 「悪かった、どうもあの絵は気に入らなかったみたいだな」
違う。 違う。 違う。
俺の指に触れる徽章は炎よりも熱く、俺を焼き尽くす。 指先の震えは今や俺の全身に広がり、立っていることもままならない。 全身が逆毛立つ。 「…具合でも悪いか?ブロッケン。」 違う、これは俺に掛けられた呪いだ。 俺の身体に流れる血に掛けられた呪いだ。 目の前が、暗く、世界が、暗転、す、る――― 木漏れ日が瞼の上をゆっくりと転がっていく。
どうやら気を失ったらしい。目を閉じたまま自分が横たわっているのを意識した。
閉じていても感じる日の光に無意識に帽子を下げようとしたが肝心のツバか見つからない。
しばらく指は宙をさ迷っていたが、不意に影が日差しを遮った。深い安堵感が広がる。
僅かに息を吐く。影は、ゆっくりと俺の髪を、頬を撫でていく。
「気が付いたか?」
影が、バッファローマンの大きな手の影が声をかけてくる。
「もう少し横になってろ、まだシエスタの時間だ」
降ってくる声を聞きながら指は帽子を探し続けた。
「安心して寝てろよ」
指は、影に絡め娶られる。
どれぐらいそうしていたんだろう。スペインに着てから時間の感覚がなくなっていく。
ずっと、ずっと昔から眠っていたかのような気がする。
バッファローマンは何も言わず横にいた。
「なぁ、いま何時だ」
寝たまま聞く。体が起き上がるのを拒否している。
「うん?さぁ、何時だろうなぁ」
さして気にする事でもない様に答える。
少し、風が吹いた。
見上げた先にバッファローマンのクセの強い髪も揺れていた。
ここは原色の国だ。
赤い大地と蒼い空、地平線まで続くオリーブ畑の緑が風に揺れる。
溢れ出る色彩が空気と人々を飾る。
女は美しく、男は逞しく、子供は愛らしく、老人はいとおしい。
その中で彼は生きているのかと思うと胸が苦しくなる。
目が眩むような生と光の国。
それを破壊したのは俺の体に流れる祖国の血なのだ。
「寝たか?」
「…起きてるよ」
閉じかけていた目を開け、バッファローマンを見る。
俺の視線に気づいたらしい。
「んー、どうやらブロッケンは寝たらしいな」
子供でもだませない芝居がかった声で、そっぽを向きながら喋る。
瞼に乗せられた大きな手が視界を遮る。
「どうも俺の大好きなベルリーナは、物事をオーバーに考え過ぎる。
人生ってヤツはもっとこう、気楽に、楽しまなくちゃつまらないのに、生真面目すぎるんだな」
バッファローマンらしい言い草だ。
「確かに、昔を忘れて生きてく事なんて都合のいい生き方なんざ出来るわけが無い。
人間だろうが超人だろうが、今まで生き重ねた時間を抜き取ることは出来ないからな」
思い出す、キャンバスの中から俺を見る目。
「だからこそ、生き残った奴がどう思おうが歴史は変わらない」
冷たい目が俺を見詰めている。
「死んだ奴は何も言ってきやしねぇ。中国のヒゲ親父の真似じゃないが
死んだ者のことは残された奴がどう思い出してやるかってだけだ」
だが、閉じられた瞼には名も知らない何人も、何万人もの死に顔が浮かぶ。
彼らの空洞の目は俺を見ている。
俺に流れる血脈を見ている。
血塗られた俺を見ている。
「お前の手は、血に汚れては無いだろう?」
顔を覆う影が離れる。午後の日差しの眩しさに二度三度、瞬きをする。
「正義の為に振り上げたその手は、キレイなままだ」
横になったまま見上げるシルエットは、俺を見つめている。
「お前が犯した罪は何も無い。お前の戦場はリングの上だけだった」
バッファローマンの暗い瞳が俺を見詰めている。
「ブロッケン一族は祖国の正義の為に戦ってきたんだ、もっと胸を張れ。
俺の一族みたいに私利私欲の為に血を流してきたわけじゃないだろう」
ドキン、と胸が鳴る。
ラーメンマンにいつか聞いたことがあった。バッファローマンの一族の事を。
「俺は生きる為に殺戮を行ってきた。お前なんかより俺のほうが罪深い、気にするな」
そういい、俺の髪をゆっくりと撫で下ろした。何事もなかったように、穏やかに笑いながら。
「…苦しくは無いのか?殺した者達の事は、気にならないのか?」
「戦うことでしか生きる価値がなかったからな」
事も無げに切り返される。俺の知る由は無い修羅の道を歩いていた男。
「そんな大袈裟に思うな、遅かれ早かれ死が訪れる事には変わりはない事だ」
屈託のない顔をして笑った。翳りの無い、純粋な笑いだ。
「何故、お前は笑えるんだ?」
俺の心に欠けているものは解かってはいる。ただ、認めることが出来ないだけだ。
「運命を呪い泣きながら死に絶えていくより、大声で笑いながら息絶える方を選んだだけだ」
俺は彼の様に全てを受け入れて生きていくことが出来ない。
己自身に鎖を掛け、身動きが取れなくなったのを嘆いている愚かな男なのだ。
「過去に縛られるなよ、お前は生きる価値のある存在だ」
バッファローマンは遠い空を見上げた。
遠く、遠い星の向こう、彼の一族がいた彼方。
彼の瞳には今は何も映りはしない。
「…ここは楽園だ」
呟くように。
「この国だから、俺は生きていくことが出来たんだよ」
いつもの少し顔を歪めるような笑い方ではなかった。
傾いてきた日差しの中で、燃えるような太陽の光の中で、彼は笑う。
「ロルカも言った。この国は死に向かう者の楽園だ」
そういうと、手にしていた俺の帽子をそっと被せてくれた。
さわさわと頭上の木が風になびき、音を立てる。
「俺はもう、お前の苦しむ姿は二度と見たくないだけだよ」
血の末裔が俺に微笑む。
午後の5時を告げるカテドラルの鐘が鳴り響く。
鐘の音は風に乗り、どこまでもどこまでも運ばれていく。
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