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それは思い出すこともなくなって久しい夢だった。
薄曇りの花風の舞う、冬の足音が聞こえる午後。
小高い丘の上には見覚えのある、だが誰なのかも思い出せない人々が集っていた。
大勢の担ぎ手に運ばれた真新しい柩がゆっくりと墓穴に下ろされていく。
鉛色の空は低く、人々も景色も色彩を失い、手向けられた花の色だけが生々しかった。
俺は古い映画のような切り取られた景色の中に佇んでいた。
血の色を失っても眠っているように穏やかな顔で柩に横たわる姿を忘れる事はないだろう。
人々のすすり泣く声も、牧師の祈りの言葉も雑音でしかなかった。
同じ顔をした大勢の誰かが俺の肩に手を置き、涙を流していく。
酷く場違いな場所にいるような違和感を拭い切れず、俺は俯いている他なかった。
柩に、花に、黒く濡れた土が掛けられ、何事もなかったように丘は元の姿に戻される。
そして人々の記憶からも、かき消されていく。
喧騒を失った丘に置かれた石碑には名はなかった。
ただ、“ドイツの鬼”とだけ刻まれている―――
映画のフィルムが途切れるように、目を覚ました。
雪の降り積もる音が窓を叩いていた。
暗い部屋の中で、窓から差し込む雪明かりが俺を誘惑している。
そして、俺の名を呼ぶ声。
屋敷を抜け出して丘に向かった。
夢の中の景色のようにモノトーンに包まれた静寂の夜をただ走った。
凍える土の中、深遠の世界が目覚める鼓動を聞いた気がした。
雪は止む事を知らず、目指す丘は果てしなく遠かった。
急いで、急いで、想いに身体が追い付かずに何度も足を絡ませそうになるのを堪え、走った。
あの丘から聞こえてくる、俺を呼ぶ懐かしい声を求めて、ただ走った。
記憶に封じ込めていた景色が目の前に現れても、足を止めることは出来なかった。
そして確かに俺を呼び、待っていたのは、見間違うことのない姿だった。
そう、止む事のない雪によって純白に塗り固められた丘ので、闇が天を見上げていた。
石碑に腰を掛け、片膝を立て舞い落ちる雪を数えるように見上げる伸ばした首は細く
空を仰ぐ深く、青い瞳には一点の陰りもなかった。
人々が"鬼”と呼んだ姿はそこにはない。
漆黒のユニフォームに身を包んだ姿はむしろ畏敬の念を抱かずには居られない程だ。
「ようやく来てくれたなJr.、待っていたよ」
雪よりも白い顔が俺に微笑みかけ、石碑から降りると俺に歩み寄る。
重さのない父の足元の雪は穢される事はない。
「いい面構えになった…見違えたな」
冷たく暗い土の中に眠っていった時のまま、若く美しい顔が俺を見ている。
いつの間にか父さんの歳を越え、俺は老い衰えた姿になっている。
石碑に近づく足元の雪が俺の身体の重さに軋みを上げる。
踏み付けられる俺の足元の雪はぬかるみ、俺の生き様のように汚い。
大好きだった父さん―――
云いたい事が多すぎて、逆に何も言えなくなる。
父さんが居なくなってから、多くの事があり過ぎ、時間が過ぎ去り、刻が重ねられてきた。
どうしたら俺の言葉を伝えられるだろう。
「父さん、父さん…父さん」
溢れる想いは名を呼ぶ事しか出来ない。
「随分と苦労をかけさせてしまったな」
父さんの大きく広げられた両手と与えられる言葉が俺を包み込む。
大好きな父さん。誰よりも大好きだった父さん。
「父さん―――俺は、どうしたら良いのかわからない。
生きている意味がわからない。今の俺には生きている価値が無い」
もう涸れ果てたと思っていた涙がまた零れる。
雪の降り積もる音の遠くに、教会の鐘の音が幾重にも折り重なり、響きわたって来る。
祈りの鐘と降誕祭を祝う清き人々の聖なる声が夜を亘る。
「私にはお前の心を傷付ける棘を抜く事は出来ない」
大きな手が俺の頬を包み込む。
「かつて私が幼いお前に救われたように、お前にもこの私よりも“大切な者”が現れる筈だ」
止む事のない雪が、俺の肩に、指先に降り積もっては融けてゆく。
「神の御子がお出でになった夜だ。神様だって少しぐらいの奇跡は見逃してくださるだろう」
ヘッドギアを脱ぐと、銀に光る徽章を俺の手に握らせる。冷たく、重い、父さんの徽章。
「それをお前の“大切な者”に…お前の元を訪れるChristkindに渡しなさい」
頬に触れられた唇は雪よりも冷たく、熱を感じる事は無かった。
「愛しいJr.、私はどんな時もお前と供にいるよ」
優しく俺に微笑みかけると白い景色に同化するように姿を消してしまった。
雪に掻き消えていく父さんを掴まえる事が出来なかったのは、この徽章のせいだ。
聖なる夜のプレゼント。
心清らかなる全て者に幸あれと、鳴り響く鐘の音。
父さんは解っていたのだろうか?
俺の心の闇を照らす御子が、すぐそこまで来ていた事を。
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