「愛しきもの」



風が楡の木を揺らす、静かな午後―――――。

遠くの子供達のざわめきや笑い声を風が運んできている。
空は抜けるほど青く、高かった。
青々とした芝生の上では何人かが日向ぼっこを楽しんでいる。
包帯やタオルが風にたなびき揺れている。
一般病棟の介護人なのだろうか、ベンチでうたた寝をしている。
時折、静寂を破るサイレンが聞こえてくる。

この病院の一室の中でジェイドは深い眠りについている。
未だ意識は戻らないその青白い顔は、まるで高い城壁に守られた姫君のようだった。
今の俺はジェイドの力になってやれない。なんて惨めなものだろう。
咳き込むのを手で抑えながら、ジェイドを思いやるしか出来ない。大きな楡の木の下に
置かれたベンチに腰掛けながら俺は今更ながら自分の無力さに打ちのめされていた。



「何を暗い顔をしているんだ?」
声を掛けられた方に顔を向ける。
太陽の日差しを遮るように片手をかざしながら彼は、ラーメンマンは立っていた。
「私の知っているブロッケンJr.は礼節を重んじる者だったと記憶しているのだが。」
「これは―――人生の大先輩に、失礼を致しました」
立ちあがり、独りで占領していたベンチにスペースを作った。
「うむ。それではよい子にはこれを上げよう」
共に腰をおろすと手に持っていた缶コーヒーをひとつ、投げてよこした。封を開け、口にする。
だが味を感じる事は出来なかった。
「なぜ弟子を取った時に一言の相談もなかったのだ?」
「あんたにそんな事いったらお説教食らうに決まってるからだよ。"半人前のくせに!”ってさ」
「そんな口を利くようになったって事は、お前もようやく大人になったようだ」
ラーメンマンにとっては、俺はいつまで経っても子供にちがいない。
「あんたにそう言って貰えるようになるまで30年もかかっちまったよ」
少し気恥ずかしさが残る。例え何年過ぎようと俺はこの人の域に達する事はない。
「それはそうと、思ったより元気そうで何よりだった」
「見てくれだけだよ。出来れば世間に老醜を晒したくなかったんだがな」
「レジェンズの中で一番若いお前がそんな事を言ったら私の立場がないだろう」
ラーメンマンは笑いながら俺の頭を撫でる。俺が昔のままの俺であるのを確かめるように。
また、嫌な咳が込み上げる。内臓を吐き出すような痛みを伴う咳だ。
「若いといっても見てくれだけさ。体ん中はとっくの昔に滅茶苦茶になってるよ」
見られないように手についた肺から零れた血を拭き取った。
「病んでいるのか?…一体いつからだ」
頭を撫でていた手をそのまま下ろし、俺の頬に触れる。
「生まれつきだよ。言っただろう?徽章によって騙し騙し生き長らえているだけの身体だ」
それさえも限界に近いのかもしれない。
「身体に負担がでか過ぎるんだよ、人間と超人の肉体を持つとさ」
冷たい指先から、ラーメンマンの鼓動が伝わる。
「自転車にレースバイクのエンジンを乗っけてるようなもんだ、無茶な話だろ?」
この世に生を受けた瞬間から、死に向かって全力で走るのを強いられる宿命を背負っている。
「まぁ元々ブロッケン一族は短命だからな、俺は長く生き過ぎたぐらいだ」
「―――ブロッケンマンの事を言っているのか?」
遠く、ひどく昔の記憶。脳裏に蘇る父の姿は若く、死の瞬間まで美しいままだった。
「親父はリングの上で正当なルールの上で死んだ。あんたが一番良く解かっている筈だ」
俺に触れるこの手で、父の白い頤を包みながら、最後の一呼吸を感じていたのだから。
「俺は、生き疲れたよ。今の俺には、たった一人の弟子さえも救う事が出来ないんだ」
また咳をする。発作は止まらず、指の隙間から赤黒い体液が溢れだす。

地面に一滴、歪んだ染みが広がる。


「―――頼みがある」
乱れた呼吸を何とか整える。口内に広がる濁った血の匂いに吐き気を覚える。
「俺の徽章をあの子に、ジェイドに渡しておいて貰えないか?
 俺のような老いた者よりも、若い肉体にこそ必要な"力”だ」
ヘッドギアを取り、徽章を外す。俺を護る死神。
「お前はどうなる?今の状態で人間の肉体に戻れば、お前自身に生命に係るだろう」
「俺は、ジェイドを救えるなら、自ら心臓を抉り出しても差し出そうとも構わないんだ」
ラーメンマンの手を取り、徽章を握らせる。
「今の俺には、こんな事しか…してやれない」
知らず、滂沱の涙が頬を伝い落ちていく。朽ちていくはずだった俺を救ってくれた、俺の宝。
だから今度は俺があの子を死の淵から救ってやる番だ。
俺にはジェイドを失う事など、考えられない。

「あの子は、俺の全てだ」


咳が止まらない。

人間の肉体に戻りつつある身体には、咳をするだけでも激痛が走る。
収縮する肺から空気が漏れているのか、ノイズが体の中で反響する。
ラーメンマンは何も言わず俺を見詰め、指先で涙と血に汚れた俺の口元を拭い取る。
「お前がジェイドを大事に思うように、私もお前を失う事をしたくはない」
「ならば―――わかってくれるだろう?」
再び咳が俺を襲う。
血の塊が喉をせり上がり、口から、鼻から、吐き出されていく。
「徽章の“力”があれば、超人であるジェイドなら目を覚ます筈だ」
視界に霧がかかってくる。
「…頼む」
「お前がそれほど言うのであれば届けてきてやろう」
ベンチから立ち上がりの駄賃に、俺の頭をグシャグシャと撫でる。
「直ぐにここに戻る。それまでどこにも往くな―――絶対に」
そう言い残し、病棟のほうに去っていくラーメンマンの後ろ姿を、咳込みながら見送った。

タールのような血を吐き出しながら、瞳を閉じる。





耳に聞こえるのは弱々しく脈を打つ、俺の心臓の音だけだ。

閉じた瞼に浮かぶのは、俺に笑いかけるジェイドと―――親父。

闇の中から二人が俺に手を差し伸べていた。



だが、血に汚れた俺はもう…指一つ動かす事も、出来、な、い。










もう、何も―――――。







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