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バッファローマンの右手には、兵士のねじ切られた首が湯気と血を滴らせていた。
その顔は己の身に起こった事を理解しかねるように大きく目を見開いた。
「―――何をした?」
「なんにも…ただ、ちょっとばかりイタズラさせて貰っただけだ」
そう言うと、笑いながら俺の部下だった男の頭を壊れた玩具を扱うように投げ捨てた。
照りつける陽射しを受け止め、金色の瞳が禍々しく煌めいたかと思う間もなく目の前の景色が
揺らぎ、徐々に朦朧となる意識が危険を察知し、警告する。両足がガクガクと振るえて少しでも
気を抜けば、そのまま崩れ落ちそうになる。だが、倒れる訳にはいかない。
別にバッファローマンの足元に横たわっている黒シャツ達が死んでしまおうと構わない。
それより、この瞳に見据えられ、操られる人形のように成す術もなくなるのが怖かった。
太陽の下にいるのに体の熱は奪われ、震えが止まらない。
耳鳴りのように、記憶の中のブロッケンマンの声が、俺の名前を呼ぶのに答えながら
辛うじて残っていた気力を奮い立たせなると、バッファローマンに顔を向けた。
青い瞳の鬼と、黄金の瞳の悪魔。
どちらを選ぶかをためらうのもバカバカしい選択だった。
僅かに身を屈め、次の瞬間には大きく飛躍した。土くれをいくらか残して宙を駆けるその姿は
巨大な鳥を思わせた。マルスの赤く、長い髪が羽のように広がり、宙の高みから襲いかかる。
バッファローマンは足を引きもせず、飛んでくるマルスと正面から力任せにぶつかった。
打ち合わされた互いの腕は拮抗する力の為にブチブチと筋が千切れ、骨は軋みを立てる。
「どうした、これがお前の力の限界か」
額にジンワリと汗を浮かばせながら歪んだ笑いを向けてくる。
「アンタこそ無理してんじゃねぇのか?」
すぐ目の前にある黄金の瞳に映る自身の姿に問う。
「粋がるなよ、坊主」
保たれていた均衡が崩れる。重ねられていたバッファローマンの腕が熱を帯びたかと思うと
張ち切れんばかりの筋肉が更に大きく膨らむと、徐々にマルスの体を押し返し始めた。
「…なんて馬鹿力なんだよ」
足元の乾いた地面に引きずった跡が伸び、額を流れ落ちる汗が襟首を湿らしていく。
「お前の力はこんなものなのか?それとも出し惜しみでもしてるのか」
牙を剥き出しているのは笑っているつもりなのだろう。合わせていた腕を事もなく振りほどくと
バッファローマンは鈎爪を横に凪ぎ払った。マルスは上体を反らして、かろうじて体を逃すも
いくらか反応の遅れた幾筋かの赤い髪が曳き切れ、枯れて白茶けた麦の上に落ち重なった。
「さぁ―――かかってこい、色男」
鈎爪を揺らし、悪魔の微笑みを浮かべたバッファローマンが誘う。
体格、経験共にマルスがバッファローマンに優るものなど、ひとつとてなかった。
「カッコつけやがって。テメェみたいなオッサンは何時までも戦場にウロついてないで
さっさとくたばって、畑の肥やしにでもなってりゃいいんだよ!」
切り落とされていた幾筋かのマルスの長い髪が、ザワザワと蠢いたかと思う間もなく
バッファローマンの首に飛び付くと、生きた蛇の如く巌のような筋肉を締め上げ始めた。
「オッサン、命乞いをするんだったら今の内だぜ?」
目を放さずに袖口で吹き出る額の汗を拭い取るも、得体の知れぬ怖気が湧き上がってくる。
キリキリと肉に食い込む髪が褐色の皮膚を破り、幾つもの糸のように赤い血が伝い落ちる。
徐々に縮まる髪に喉の奥から唸る様な呼吸音が低く響く―――筈だった。
巻きついた髪は筋肉を切り裂き、断面からは黄色い脂肪と白い骨が見え隠れしている。
それなのにマルスを見下ろす黄金の目には薄ら笑いが浮かんでいた。
「お前ときたら、俺の言った事をまったく聞く気がないようだな」
遂に髪は骨を挽き切り落とした。
スローモーションの様にゆっくりと、捻れた角を頂いた頭部が肩から落ちる。
なのに、バッファローマンの顔に浮かぶ笑いは、更に楽しげに歪んでいた。
切り口から血が吹き零れ、黒い髪を赤く濡らす。
「忘れるなと言っただろう?お前は俺のモノなんだから、何を考えてるか全部お見通しだ」
足元に転がる笑い顔は更に歪み、褐色の肌は腐ったような黒色に変わり始めている。頭部を
失った身体は倒れる素振りも見せずに大きく足を踏み出すと両手を伸ばして、あっという間に
マルスの両肩を捕らえると、鉤爪を躊躇なく皮膚に食い込ませた。爪のひとつひとつが真赤に
焼いた火箸のように肉を焼き抉る。喉の奥に悲鳴は張り付き、痛みに耐えかねたマルスの
身体が震えるのを確かめながら、バッファローマンはそのミゾオチに重く、鋭い膝蹴りを
めり込ませる。2度、3度と打ちつける毎にマルスの体は折れ曲がり、赤く長い髪は弱々しく
曲線を描く。叫び声を失った口から流れる胆汁がシャツを汚し、苦しみのあまり涙が滲んだ。
「さぁて、お昼寝の時間だ」
地面に転がるバッファローマンの頭部はドロドロとした汚物に成り果てていたにも拘わらず
黄金色に輝く眼球は原型を留めたまま、鼻血と涙で顔を汚してされるがままになっている
惨めなマルスの姿を写していた。
「我慢はお終いにして、お寝んねしような?」
朽ち果てた骸骨になったバッファローマンは笑いを噛み殺しながら誘いかけてくる。その声を
聞かされる内に、痛みに耐える努力を放棄する気にさせられた。肩に埋めていた鉤爪を引き
抜くと、血に濡れた切っ先をマルスの左胸に押し当てる。焦らす様にゆっくりと、生臭い刃先が
ジャケットを裂き、胸板に音もなく沈み込んでいく。痛みを感じる次元は通り過ぎていた。
後はもう、永遠の闇が迎えに来るのを待つために、目を伏せるだけだった。
「バッファローマン…楽しんでいる処を申し訳ないが、私の大事なその子を返して貰おう」
その時、空気の色が変わった。午後の気だるい熱気を介する事のない声が、失われかけた
意識を呼び戻す。目を開けずとも、その声が誰のものであるかなど、本能が覚えている。
青い瞳の鬼と黄金の瞳の悪魔。
結局どちらも引き寄せてしまったのだろう。
7月の太陽の下に現れた、プロイセンの鬼の手には冷たく光る銀の銃が握られていた。
「生憎と使い慣れたのが行方知れずなんでね、巧く殺せてなくても勘弁してくれ」
引き金に指が掛り、白銀の閃光が吐き出されるのに瞬きの時間もかからなかった。
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