1941/05/20 20:00


この間まで俺達が寝床にしていた岩棚に今はイギリス兵がその身を横たえていた。
彼らの横を通り過ぎる俺の姿を砂に染まった顔が何も言わず見ている。
捕虜となった、ドイツの超人の姿を。


連れ込まれた場所は薄汚れたシートで囲まれた形ばかりの司令室だった。
不安定な電力しか供給できないのだろう。
電球の灯りはゆらゆらと歪み、無数の影が生み出されている。
その粗末な部屋の奥で、ひとりの将校が積み上げられた書類を部下に投げつけていた。
「誰がこんな大昔の地図を持ってこいと言った!いいか!?俺が命じたのは最新の地図だ。
 昨日でも一昨日のものでもない、インクの乾いていないようなヤツだ!」
散乱した書類と地図を拾い集めている兵士が浴びせられた罵声に無言で堪えている。
彼が拾い上げる合間にもフォルダーが宙を舞っていた。
「無いなら今すぐ測量でもして持って来い!」
巻き散らかされた書類を拾い集め、唇を噛み締めながら踵を返して部屋を出て行く部下を
追い出すその姿には、将校らしさは微塵も感じられなかった。
かつてはプレスを利かせていたであろうシャツもズボンも、この地での激務を物語るかのように
色褪せと擦り切れを起こしており、手入れをしていない髪は伸び放題のままで、階級章だけが
辛うじて彼を軍人であるのを指し示していた。
「中尉殿、先ほど御連絡を入れました捕虜を連れてまいりました」
俺を後から小突きながらここまで連れてきた新兵が緊張の余り、声を裏返していた。
「ご苦労、そいつを置いて通常任務に戻れ」
こちらを見もしないで返事を返した将校の声は
酒焼けでもしてるかのようにガラガラとした耳障りで不機嫌な声だった。
「え?しかし、捕虜とふたりきりになられるのは」
危険、と二等兵が言い終わない内に将校は手元にあったインク壜を掴むと、ためらう事なく
顔めがけて投げつける。壜は狙いを外さなかった。
ガラスの砕ける音と二等兵の悲鳴が共鳴しあい、天蓋代わりのシートが揺れる。
血の赤とインクの黒が混ざり合い、醜い模様を顔面に広げていった。
「お前の耳は飾り物か?こいつを置いてけと言ってんだよ、俺が!」
顔を抑え、うずくまっている二等兵を蹴りつける。
まるで石でも蹴飛ばすように何の感情を見せなかった。
「さぁ、さっさと部屋から出ろ!それとも、もっと部屋を汚さないと気がすまないか?」
嗚咽と涙を漏らしながら四つん這いのまま部屋を出ようとするのをまた蹴る。
「敬礼を忘れてるぞ、馬鹿モン」
それだけ言うとそれ以上は興味を無くしたらしく、哀れな姿の二等兵の敬礼を返さなかった。
忌々しそうに唾を吐き出すと奴の興味は完全に俺に注がれるようになった。
長すぎる髪を掻き上げ、蒼い瞳で俺の爪先から髪の一本まで
見逃すものが無いように何度も見返してくる。
長い指が俺の顎を掴む。
指先の力強さに顔をわずかに上に向けた。
「こんな形で知り合えるとは思いも寄らなかったな
 ―――伍長だって?お前の国は超人というものをわかってないのか?」
不躾な視線を隠す気もない様子で俺の顔を覗き込む。
俺を見る瞳の奥で、あらゆる感情が嵐のように吹き荒れていた。
「もっとも俺もこんな砂漠の真ん中に追いやられてるんじゃ、お前と大差はない訳だがな」
顎先を支える指を滑らせ乾ききった俺の唇の感触を確認していた。
「時間はたっぷりとある。お前が何の為にあそこに居たのかじっくり聞いてやるよ」
睫毛が触れるほど寄せられた瞳は俺の心の底まで読み取ろうとしているかのようだ。
「そっちこそ、こんな僻地でクスブッてるようじゃ"鬼の鉄騎兵”もタカが知れてるな」
うまく動かす事も出来ない舌では辛うじて聞き取れる言葉を繰ることしか出来なかった。
「なんだ、それでも減らず口を叩いてるつもりか?」
卑猥な視線で俺の顔を舐めるように見つめる。
「死にかけだったクセに、助けて貰ったのを忘れてるようだな」
そう言うと陽に焼けた手で俺の頬をピシャピシャとわざと音を立てて何度も叩く。
「まぁ、藁しか詰まってなさそうな頭じゃ憶えておけって言っても仕方ないだろうがな」
喉の奥から、押し殺した笑い声を洩らす。
「“サー・ロビン”の息子ともあろう者が、たかが捕虜の一人を捕まえた位で騒ぐなよ」
瞬間―――表情ひとつ変えず瞬きの速さで拳が寸分違えず俺の顎先を捕らえた。
焼ける様な痛みが広がるにつれ、目の前に星が飛び、頭の中を蜂が飛び回った。
「くぅッ・・・ハーグ条約に反する行為だ」
したたかに切った口の中に鉄臭い血が広がっていく。
「そんなモノは人間の為に作られた約束事だ」
乱暴に俺の髪を鷲掴むと無理矢理に顔を向けさせられた。
「いいか?少しでも命が大事と思うなら俺の前で、あの男の名前を口にするな」
獲物を喰らわんとする、猛禽類の蒼い瞳が俺を見据えた―――




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