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「―――先生!!ここ、ここですっ!」
迎えに来ているはずの姿を探していると、はるか遠くから呼びかけられた。
駅の高い天井一杯にプラットホームに到着した列車のブレーキ音が劈き
別のホームでは発車を知らすベルが鳴り響き、人々に別れの時を告げていた。
構内を歩く多くの人々は思い思いの格好で抱えきれぬほどの荷物を持ち、あらゆる方向に
向かいながら、ざわめいている。決して狭くはない駅の中はあらゆる人種が織り成す喧騒に
空気が振るえ何もかも落ち着く気配は無かった。ともすれば群集の流れに呑まれそうに
なるのを旅人達はそれぞれの目的地に向かい、ぶつかる事もなく進む。
そんな行き交う人々の波を器用に泳ぎ、楽しそうに手を繋いで歩く年若いカップルの脇を
すり抜け、声を掛けていた若者は今しがたホームに降り立った背の高い初老の紳士との
距離をあっと言う間に縮めた。
「申し訳ありません、折角お迎えに上がるお約束をしておきながら遅刻してしまって」
急いできたのだろう。少しばかり頬に赤みを帯び、息を荒くしながら言う。
浅く呼吸を繰り返すたびに普段は陽に晒せれる事のない軟らかい金髪が上下に揺れる。
「汽車もいくらか遅れて、いま着いたばかりだ。それに初めて来る土地でもない。迎えなど
なくとも屋敷に行くには何ら不自由はなかったんだがな」
長旅の疲れを伺わせる事もなく東洋人特有の微笑を浮かべながら、息を切らしている若者を
僅かに見下ろし、落ち着くのを待っている。濡れたような漆黒の長い髪をひとつに編み込み
ゆったりと垂らしている姿は若々しくも見える。
「せっかく先生に御足労頂くのに、お出迎えをしないなんて失礼な事は出来ません。
あ、お荷物をお持ちします」
そう言うと提げていた鞄を手に取りと駅を後にした。
近代的なビルと昔ながらの石造りの建物が肩を並べている大通りを歩く。車窓越しからは
わからなかったが、緩み始めた気候が街を取り囲み、すれ違う人々の足取りも軽い。
迎えにきた彼も陽気に誘われたらしく普段のリングコスチュームを脱ぎ、今時の若者らしい
格好をしていると傍目には超人とは思われなかった。もっとも日頃からドイツの若き英雄として
顔を知られているだけあって、あちらこちらと道行く人々から声を掛けられると生真面目な
彼らしく、その声のひとつひとつに答えている。
「そういえば、調子はどうだ?」
ひと通り挨拶を終えた頃合をみて声を掛ける。
「はい、だいぶ体調も良くなってきたみたいです。ここしばらく暖かい日が続いてたので、昨日も
近くの公園まで、お一人で散歩に行ってたみたいなんですよ。あ、それと、ようやく食欲も出て
きたみたいで、先生がいらっしゃる間、是非ともお食事をご一緒したいとも言ってました」
HFにいた頃には見せたこともない笑顔で一気に答えてくる。
こんな風に笑えるとは想像したことがなかった。やはり、この子には“彼”が必要なのか?
「そうか、元気そうで何よりだが―――私はブロッケンJr.の事ではなく、お前自身の調子は
どうだ?と、聞いたつもりだったんだがな」
噴き出してしまいそうになるのを堪えるのも、ひと苦労だ。
「ええー、えぇっと、俺は相変わらず、です」
自分自身のこととなると途端に曖昧な受け答えをしてモジモジと言葉を濁してしまい黙り込んで
しまった。自分の想いのままを言葉にするかと思えば必要以上に口を閉ざしたする。
Jr.もこの子を育てるには、さぞかし大変だったろう。
「相変わらずか、変わりがなければそれもいい。変わらぬ事も一つの偉業なのだからね。
しかし、この街はだいぶ建物も建って昔とは随分と景観も変わってしまったものだな」
「そうなのですか?」
彼が生まれた時には既に、かつての忌まわしいオブジェはなかった。
「最後に来たのは、あの“壁”が取り払われた頃だったからな、変わって当然だ」
「えっ!?そんなに昔にですか?」
大きく澄んだ翠色の目をこぼれそうなぐらい見開いて驚いている。
「そう―――お前達、ニュージェネレーションズが生まれるずっと昔だな」
空いている手で、綿菓子のような軟らかくて少しクセのある髪を撫でる。
自分達が命を賭けたあの頃の事は全て、遥か彼方の伝説になってしまった。
やがて我らレジェンズも新しい時代の子供達には必要のない古い伝奇になっていくことだろう。
「そうだ、屋敷に行く前に少し寄りたい所があるのだが案内してくれないか?」
「構いませんが、どちらに行かれるのですか?」
「ここから一番近い市場はどこになるかな」
「何かご入用のものがありましたら俺が後で買ってきます」
「ひとつ良い事を教えてあげよう。ブロッケンJr.が食事を楽しみにしているというのは
自分では作らず美味しく頂ける料理を舌なめずりしながら待っているという事なのだよ」
声にこそ出しはしなかったが、思い当たる事があったらしいジェイドは納得顔で頷いた。
屋敷に付く頃にはふたりとも両手一杯の荷物を抱え、出迎えたブロッケンJr.は呆れながら
彼らのために玄関の戸を支えながら迎え入れた。
「ジェイド、お前はいつからラーメンマンに荷物持ちをさせるほど偉くなったんだ?」
ラーメンマンが抱えていた荷物を受け取りながら、空いている手でジェイドの頭を小突いた。
「ち、違います!俺はちゃんとお持ちすると言ったのに聞き入れてくれなかったんです」
「言い訳出来る口があれば、咥えてでも荷物を持つのがお前の仕事だ」
「それじゃレーラァは、いつも俺に咥えさせたいと、そう思いながら買い物に付き合って
くださってたんですか!?」
「ば、馬鹿モンッ!!お、お前、それはモノの例えの話だろう!」
顔を真っ赤にさせながらJr.は必死に弁解をする。傍から見て恥ずかしいほどの痴話喧嘩だ。
「仲の良いのは構わないが、じゃれ合う前に私がひと休み出来る場所を教えてくれないか?」
このままでは埒があきそうにない会話に割って入った。
「あ、あぁそうだな。何も玄関口でみっともない言い争いをするのもなんだしな。
ジェイド、サンルームに私とラーメンマン用に“茶”の用意をしてくれ」
ジェイドは黄色地に花と鳥が鮮やかに描かれた小振りなカップをラーメンマンの前に置き
白い無地のカップをブロッケンJr.の前に揃えると、脇に二つのポットを並べた。
「御用がありましたら呼んでください」
そう言うと丁寧に頭を下げ、部屋を出て行った。ジェイドの足音が離れていくとラーメンマンは
テーブルの上に置かれたステンレス製のポットをブロッケンJr.の方に押しやり、自分では
陶磁器のポットから熱い湯を茶器に注ぎいれ、緩やかに茶葉が開くのを待つ。ブロッケンJr.は
ラーメンマンの一連の作業を見詰めながらコーヒーに蜂蜜を溶かした。少しクセのある茶葉の
香りと、蜂蜜の花の香りが立ち上がる。緩やか時間が二人を包み込む。
「―――良い弟子を持ったな」
指先で摘まむように茶器から琥珀色の茶をカップに注ぐと白い湯気がテーブルの上を踊る。
「なぁに、まだまだ未熟で困っているよ」
そういいながら照れくさそうに顔を伏せ、濃い目に入れられた幾分ぬる目のコーヒーを飲む。
本当に美味いと思えるのはジェイドが入れてくれるコーヒーだけだ。
「それでは、未だ原石といったところかな?」
ラーメンマンは真っ直ぐにブロッケンJr.を見据えながら、カップの中の香りを胸に飲み込み
ゆっくりと茶を口に含む。
「そうだな。もっとも、磨いてみるまでは善いか悪いか分かったモンじゃないがな」
そうは言いながらも彼の顔は、穏やに微笑んでいた。
心の深い闇の中で彷徨っていた自分を救い出してくれたのは幼い子供だったジェイドだ。
ジェイドに触れた時から彼を取り巻いていた世界は色を変え、この世の全ては希望の光に
満ち溢れている事を思い出させてくれたのだ。
「それならジェイドは紛れもなく一級品、いや特級品以上の原石だな」
「おいおい、随分と買い被ってないか?」
普段あまり褒める事のないラーメンマンの言葉に、少なからず驚きを隠せなかった。
「いいか、Jr.―――原石などいくらでもある。だが、真に価値のある原石は運命によってしか
見つけることは出来ない。それをお前は手にしているのだよ」
ラーメンマンは手にしていたカップをカチャンッ、と澄んだ音を立て、テーブルに置く。
胸の奥底にチクリと、ある筈のない棘が刺さる。
そうだ、わざわざベルリンまで彼が来た理由は一つしかない。
「もう一度ジェイドをHFに…いや、私に預けさせて欲しい」
口の中に残るコーヒーが―――苦く、苦く、心にまで広がっていった。
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