1941/05/16 18:30



差し出されたコーヒーは薫り高く、久しぶりに満足のゆく味を楽しんでいた。

この部屋にはアフリカの乾いた風の匂いもロシアの湿った土の香りも無かった。
グリースも、硝煙も、ガソリンも、煙草の紫煙も、人肉の焦げる臭いも、ない。
ここにあるのは雨の気配を帯びた空気と手に持ったコーヒーの香ばしい湯気だ。
窓の外に視線を向ける。
薄明るい闇の遠い向こう、灼熱の砂漠に佇んでいる最愛の息子の事を想った。
口に含むコーヒーも、あの子の好物の蜂蜜も、夜露に揺れる若草も、あの地にはない。
あるのは生きとし生けるモノを焼き尽くす陽射しと無慈悲な死の世界。
また一口、コーヒーを飲み下す。
少しだけ目を閉じ、遥か彼方の息子の姿を思い浮かべる。
困ったようで、泣きそうな眼差しの、自分を見つめる紫水晶の瞳―――
「ブロッケン少尉、お寛ぎのところを失礼します。少尉宛の交信が入っております」
声を掛けられ、ゆっくりと瞳を開く。
横には、まだ幼さの残る顔つきの通信兵の一人が恭しく声を掛けてきた。
「参ったな、色男は何処にいても呼び出される。コーヒーを飲む時間さえ許されないのか」
コーヒーカップを持ったまま、優雅に踊るような足取りで喫茶室を後にする。

「ブロッケン少尉、ブロッケン少尉に通信。こちら第15装甲師団第15狙撃兵旅団
 第15オートバイ狙撃兵第1大隊第1中隊付きブロッケン准尉、返答を求め」
通信室には何台も並べられた通信機が唸り、大小様々に雑多な音を立てていた。
その中の一台が彼を呼びかける。
多少雑音が入っていたがその声は聞き違えることはなかった。
「感度が良くありませんが、アフリカから交信です」
通信兵がヘッドフォンを外しブロッケンに手渡しながら席を立った。
「すまないね、席を借りるよ。こちらはベルリン、あー・・・Jr.か?」
山と、海と、草原と、砂漠を越え、耳に聞こえてくる声。
「親父、親父だな!おい、早くこっちに来てくれ!俺には荷が重過ぎる!!」
声の調子で不機嫌なのが伝わってくる。
幾つになってもまるで子供のように感情を隠す事をしない。
「そうか、そうか。だが残念だったなJr.もうしばらくそっちに行くのは遅くなりそうだ」
「な―――何だって!?おい、今度はどの将校の情婦に目を付けたんだよ」
普段の不貞を息子が快く思っていないのは知ってはいたが
あからさまに言われると少々居心地の悪さを覚える。
「…Jr.いくら私がモテるからといってすぐに色事に結びつけないでくれ」
「じゃあ一体全体どんな理由があるって言うんだ」
電波が揺れ砂嵐を思い出させる雑音の中、無線機に呟く。
「“赤髯王”の出陣だ」

「!―――――」
息を呑む音が聞こえた。
「おっと、そろそろ私の方も出かけなくちゃならんみたいだ、じゃあなJr.
 次に会う時には飛びっきりのマジャール娘を土産にしてやるよ」
早口にそう言うと、さっさと通信のスイッチを切った。
「少尉、私用通信での会話としては少々度が過ぎてますよ」
昔からの顔馴染みの通信兵が眉根を寄せていた。
「あんまり堅い事を言うなよ。どうせ私には今以上の昇進も勲章にも縁がないんだから
 これぐらいのお目こぼしはしてくれたっていいだろう?」
飲みかけだったコーヒーはすっかりぬるくなってしまい、まるで泥水のような味がした。
「さて、それでは“狼の巣”にでも行ってくるか」
飲み干したコーヒーカップをテーブルに置く音がやけに大きく聞こえた。
通信機から聞こえてくる雑音も、けたたましかった機械音も鳴りを潜めていた。
まるで世界中の音が息を潜めてしまったかのように。
「―――少尉、お気を付けください」
通信室にいた兵士達の視線が一斉に集まる。
彼らが見詰めているのは前大戦でその名を欧州に轟かせた“プロイセンの鬼”と呼ばれた男。

だが“鬼”というには美し過ぎた。
乙女の如く透けるような白い肌。
月明かりの下の夜霧を思わせる銀の髪。
世界の謎を宿した青い瞳。
誰が、彼がその手を血で紅く染める姿を思い浮かべられただろう。

「みんなして、何故そんな湿っぽい顔をする?ちょっと総統のご機嫌を伺いに行くだけだ」
注がれる視線の一つ一つに向き合い、微笑を返していく。
その顔は鬼と呼ばれるにはあまりにも優しすぎ、あまりに穏やかだった。
「ブロッケン少尉、我々は心より貴殿の無事を祈っております」 
「諸君の気遣いに心より感謝を言おう―――ありがとう」
軽く右手を上げると子供のようにヒラヒラと、しなやかな指先を振りながら通信室を出る。
さして狭くもない通路ですれ違う者達は敬意を賞するように左右に道を開けていく。
悠然と、歩みを進める彼の背中に死神の姿を見出す事はなかったが
胸を飾る勲章と首元に揺れる冷たく光る鉄十字章が全てを物語っていた。
そして彼が足を進める先はラステンブルグ。
忌まわしき行進は、もう誰にも止める事は出来なかった―――




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