1941/05/24 16:45


まるで世界の全てが息を潜めているようだった。

ベンツ230の後部座席に身を沈めながら深い溜め息をつく。
窓の外を流れる景色さえも作り物のように目に映った。
今度の戦争では誰もが狂気の舞台の上で割り振られた役を演じているに過ぎない。
しかも一度登らされた舞台から降りることは許されないのだ。
なんと現実離れした、おぞましい茶番劇だろう。
狂人の描く芝居をいつまで演じ続けなければならないのだろうか。
端整な顔がわずかに曇る。
それが合図だったように雨が落ち始めた。
まるで彼の心を映しているかのように空に重い雲が広がっていた。

やがて車は大きくロープを描き、彼を悪夢の宮殿に導いた。
総統大本営は蜘蛛の糸のような目には見えない緊張で建物全体を覆い尽くされていた。
その中を、磨き上げられたブーツで足音一つ立てる事なく大理石の床を滑るように歩く。
擦れ違う者の中にはあからさまに悪意ある視線を向ける者もいたが気に掛けはしなかった。
そんな視線や罵倒には慣れていた。今更、心を震わす事などなかった。
いくつかの角を曲がり、鈍い光沢のオークの扉の開けると、そこはサロンとなっていた。
すでに何人もの将校達が思い思いに雑談を交わしていたが彼の登場で会話は中断された。

「ブロッケンマン、ただいま参りました」
最後の登場人物が舞台に現れたように全員の視線が彼に注がれた。
「おぉ、久しぶりだなブロッケン少尉。相変わらず元気そうで何よりだ」
椅子に座っていた男が立ち上がり、大股で近付き手を差し伸べてきた。
「これはこれはグデーリアン大将殿ではありませんか。この私の名前を未だ覚えて頂いている
 とは思いもよりませんでした」
グローブをはめたままの手で堅く握手を交わす。
「何を言うのかね。君の活躍がなければ電撃戦は成り立たなかったのだよ」
「そんな大袈裟に仰らないで下さい。私はただ命令された事を実行しただけです」
そう―――私は勝手な人間達の為に踊り続ける道化なのだから。
「そんなに謙虚にならなくてもいいじゃないか、君の手柄なのだから」
ヒムラーがまるで旧知の友を慰労するかのようにブロッケンの肩に手を掛けた。
「君は総帥の神秘主義の中でも特にお気に入りの“ランスロット”だからな」
肩に置かれた手に、言いようもない不快感を覚える。
「そうそう、君の御子息の様子はどうだね?出来れば彼もアフリカから引き上げてきて
 貰いたいのだが…どうかね?」
眼鏡の奥で狡猾な目が光る。この男の目は爬虫類が獲物を狙う冷たい目だ。
「直々のお誘い、至極光栄であります。しかしそう急いで呼び寄せなくとも、ロンメル将軍殿の
 進行状況に変わりがなければ、息子とは黒海を回って合流できるかと思います」
「ほう、頼もしい事を言ってくれる。その調子なら我らが勝利の日もそう遠くはなさそうだ」
自らも道化だと気付かない男が凍った目で笑いかけてくる。
「期待に副えるよう最善を尽くします」
グローブの中は、じっとりと汗に濡れていた。
「そうだ、ブロッケン少尉。君の意見を聞きたいものがあるのだが少しばかり構わないかな」
グデーリアンがヒムラーの視線から離すように肩を掴み、自らの方に引き寄せた。
「私如きの時間で宜しければ幾らでも融通いたしましょう」
「ハハッ、嬉しい事を言ってくれる。それでは総帥の声が掛かる前に終わらしてしまおう」
グデーリアン殿もこの澱んだ空気が充満する部屋を出たかった丁度良い口実だろう。
軍人らしい歩き方で先に立って部屋を出て行くのを半歩下がりながらついて行く。
部屋を出、ワザと後ろ手で扉を閉めた。
前を歩くグデーリアンに気付かれぬように肺に溜まった腐臭をそっと吐き出す。
どうも私の毒ガスは将軍達との会議によって錬成されているようだ。





「呪われた一族が―――」
ブロッケンマンの出て行ったドアに向かい、唾が吐きかけられた。
「総帥の神秘主義が生み出した妄想かと思っておりましたよ」
カイテルは今になって怖気を感じたのかハンカチで額に浮ぶ汗を拭う。
「あの男をこれ以上、表舞台に上げるのは感心しませんな」
「まったくだな。所詮は戦争の駒という事をもう少し判らせないといけないようだ」
「グデーリアンも味方に付ける相手を選ぶべきだ。超人などを身近に置いて自身の評価を
 いかに落としているのを、まるで理解していない」
ブロッケンマンの肩に置いた手を汚物でも触ったかのようにハンカチで擦っていた。
「アレは確か第2装甲集団に配属だったな。よろしい、後で配属替えをしておこう」
ヒムラーは汚れてもいない眼鏡を外すと神経質にガラスを拭った。
「それはそうと、他国の超人の介入具合はどうなっているのかね」
どことなく卑屈な笑みを浮かべたゲーリングが話しに加わる。
「ソ連はどうやら“新型”を投入させるつもりらしいですな」
「ほぅ、それは本当か?真実ならば今度の戦闘は面白いショーになりそうだ。化物同士が
 殺しあって決着が付けばワザワザ人間が血を流す必要はない」
眼鏡を掛け、ヒムラーは体温のない目で扉の先に消えた姿を追いかけた。
「偉大なるアーリア人種に必要なのは、純潔たる人間だけなのだ」




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